波のささめき

 港の終着駅で降りると正面は視界が開け、瀬戸内海の島々と海がすぐ近くに見えた。

「来たよ!」

 けいが真っ先に電車を降りる。

 太陽の日差しがまぶしかった。

 さっそく海へ向かって道路を歩いていくと、すぐに岸壁に着いてしまった。

 船乗り場と看板に書かれた桟橋の先には、船が何隻か停泊していた。この船で近くの島や海の向こうへ行けるようだった。

「海は海だけど、ここ港じゃね」

「そうだね」

「よっちゃん知っとったん?」

「ううん。海っていうから、砂浜とかあるんだと思ってた」

「そうよね。海だもんね…」

「せっかくだし、あっちまで歩いてみようよ」

 僕はちょっとがっかりした様子のふたりに声を掛けた。

 岸壁の下の海を覗き込んだり、桟橋の船を見たりしながらしばらく歩いてみた。

「ねえ、あそこに砂浜が見えん?」

 僕とよしのは、けいが指差す方を見た。ここから少し離れた島に砂浜らしきものが見えた。

「ほんとだ」

「あそこ、行けるんじゃない? わたしちょっと見てくるね」

 よしのはそう言って、岸壁をもう少しだけ先へ小走りに駆けていった。

「行けそうだよ!」

 笑顔で振り返ったよしのの所まで駆け寄ると、その島につながる橋が見えた。岸壁を左からぐるっと回る必要がありそうだけど、なんとか行けそうだ。


 橋の左側には小さな船がたくさん係留されていた。海が揺れるたびにぎしぎしと音を立てていた。

 太陽が照りつけ、肌にまとわりつくような湿った生ぬるい風が吹いていた。

 島に渡ると、できるだけ海に近そうな道を選んで歩いていく。

 けいが家の玄関で水やりをしているおじさんを見付けて声を掛けた。

「あの、すいません。ここから海に行けますか?」

「海? ああ、行けるよ。ほれ、ここをもうちょっと行ったとこの右側に大きめの駐車場があるから、そこの脇の狭い遊歩道をずっと行けば、砂浜に出られるよ」

「ほんと? 有難うございます! ………ねえ聞いてた? 海に行けるって!」

 けいは海に行くのが待ち遠しくてたまらないように言った。


 しばらく歩いていくと、ちょうど道がカーブするところにあった洋風の建物の前に、黒い服を着た人たちが集まっているのが見えた。

 これまであまり人には会わなかったのに、ここだけ人が集まっていてとても変な感じだった。

 3人で何だろうとちょっと警戒しながら、その建物に近付いていくように道を歩いていくと、その人達の何人かがこっちを見た。黒い着物姿の女の人もいた。

 その建物は、西洋の建築物を思い起こさせるような、淡いベージュ色の壁で、屋根にはレンガ色の丸い瓦がふいてある。

 さらに近付いていくと、その黒い人達に囲まれるようにして、真っ白なレースがちらっと見えた。それは滑らかで品のよさそうな白さの、まるで異国のお姫様が着るような長いウェディングドレスの裾だった。

 建物の入口が見えてくると、扉を彩るステンドグラスの前に新郎と新婦が並んで立ち、写真を撮っているようだった。

 優雅で上品なウェディングドレスの姿はひときわ人々の目を惹き、隣の白いタキシードがかすんで見えた。

 よしのとけいのふたりはウェディングドレス姿に目を奪われて、なかなかその場を動こうとしなかった。

「すごいきれい…」

「ほんと、いとこのおねえちゃんみたいじゃね…」

「あのおねえちゃんもきれいだったよね…」

「すてきじゃねえ…」

「けいちゃん見て、あのおねえさん。とっても幸せそう…。こんなところで結婚式できたらいいね」

「そうじゃね。ひょっとして建物の中からは海も見えるのかもしれんね」

「あこがれるなあ…」

 僕はそんな言葉を交わしているふたりに声を掛けることができず、ひとり先を行き、手持ち無沙汰で彼女らの様子を見ていたが、やがて満足した表情でやってきた。

「ごめんごめん。遊歩道ってこのあたりかね?」

「たぶんそう。あれ見て」

 洋風の建物の隣が駐車場になっていて、ともすれば見落としてしまいそうな、小さな古びた遊歩道の看板があった。


 片側が木々に覆われた狭い道を歩いていくと、やがて明るい空が見え、白い砂浜と青い海が見えてきた。

「見て! 海よ、海!」

「わー、きれい!」

「ほんとだ、海だ!」

 僕たちは思わず駆け出していた。

「あ、あそこさっきいた港じゃない? まさかほんとに来れるとは思わんかったね。これもよっちゃんのおかげよ」

「そんなことないよ。けいちゃんが砂浜を見付けたからよ」

「ねえ、ここで泳ぐ?」

「え? わたし水着持ってきてないよ」

「うちも」

「皆実くん、水着持ってきたの?」

「うん。いちおうね」

 ズボンの下に履いているとは言い出しにくかった。

「じゃあ、泳いだら?」

「そうそう。遠慮せず泳ぎんさい。うちもちょっと海入ろ。よっちゃんも入らん?」

「うん、もちろん!」

 ふたりはカバンを置き、脱いだ靴の中に靴下を折りたたんで入れ、両手で長いスカートの裾を持ち上げると、砂浜に足跡を残しながら海へと走っていった。

「冷たっ!」

「でも気持ちいいね!」

「皆実くーん! 入らんのー?!」

 ふたりが呼んでいる。彼女たちの後ろにある海は、港で見たのと同じ海だとは思えないくらい輝いていた。

 笑い声を上げながら波打ち際で遊ぶ彼女たち。空は島々の向こうまで青く、海も負けないくらい青かった。

 僕は残された二足の靴の隣に脱いだ靴を並べると、ズボンを膝までまくり上げて海へ、ふたりのいる海へと走った。


「一緒に食べようと思って、ふたりでサンドイッチ作ってきたんよ」

 満足するまで遊ぶと、太陽も空高く昇り、そろそろお腹も空いてきた頃だった。

「僕、お菓子しか持ってきてないけど」

「じゃあ、それはあとで一緒に食べよ」

 お昼はどうするのかと思っていたけれど、まさかサンドイッチを作ってくれていたとは思わなかった。

 僕たちは木陰を探し、お互いの顔が見えるようにまるくなって座った。

「飲みものは持っとるよね?」

「うん」

「はい。好きなもの食べてね」

 よしのはかばんの中から包みを出して広げると、ラップにくるまれたサンドイッチがたくさん出てきた。

「いただきまーす。よっちゃんが作る玉子サンド美味しいんよね。うちが作ったのはこのハムとトマトのサンドイッチよ」

 僕はまずよしのの玉子サンドをもらった。ひとくち食べると、口の中いっぱいに卵の黄身の濃厚な味が広がった。白身もちょうどよい大きさに切られていた。家のサンドイッチとは違う味だけど、けいの言うとおり、ほんとうに美味しかった。

「ほんとに美味しいよ。なにか隠し味とか入れてるの?」

「ううん。普通に作ってるだけよ」

 よしのは頬を赤らめながら、けれどとてもうれしそうに答えた。

「でしょ? よっちゃんは料理も上手なんよね。うちが作ったのも食べてね」

 僕はけいの作ったサンドイッチを手に取った。口へ持っていくと、トマトの酸味が食欲をそそり、トマトは厚くなく薄すぎず、噛んだ時のハムとの歯ごたえもよかった。ハムは少し焼いてあるようだった。

「これも美味しいよ。ふたりとも料理上手なんだね」

「ありがとう。おかあさんが料理上手なんよね」

 けいはちょっと恥ずかしそうにそう答えた。

「たくさん作ったからもっと食べてね」

「残したら悪くなっちゃうけん、たくさん食べんさいね」

 僕たちはそれぞれサンドイッチを口に入れて静かに食べていた。

 目にかかった髪を耳にかける仕草をしたよしのと目が合った。

 彼女は恥ずかしそうに微笑んで下を向き、僕は海を見た。

 穏やかな風に乗って小さな波の調べが流れてきた。

 耳を澄ませてみると、いろいろな音が聞こえてきた。

 林の中からは夏がすぐそこにいることを感じさせるセミの声、そよ風が緑の葉をやさしくこする音、そして、どこからか聞こえてきたカランカランという鐘の音。

 もう一度海を見ると、遠くの山の上から、真っ白な雲が湧き上がってくるところだった。

 昨日までは想像すらできなかったほどに、ふたりとの距離が近づいた気がする。

 話をしていても緊張することがなくなってきたから?

 それもあるかもしれない。

 けれど、それよりも、ふたりといて楽しいと思うようになったからだと思う。


「きれいなお嫁さんも見れたし、来てよかったね」

「うん、ほんとにきれいだったよね。海もきれいだったし、また来ようね」

 僕の前を歩くふたりは、とても楽しそうに話をしている。彼女たちはやっぱりいつもこんな感じで仲がよいのだろうか。

 そんなことを思っていると、よしのが振り返って、

「皆実くんもまた来ようね!」

 そう言ってから、あっ、という顔をした。

「うん、また来よう!」

 僕は少し大きな声でそう答えると、よしのはうれしそうにうなずき、その様子を見ていたけいが屈託なく笑った。


 帰りの電車では3人ともいつの間にか寝てしまっていた。けいを中心に寄り掛かるように寝ていたようだった。

 気が付くと車内は人であふれ、ちょうど駅前の橋を渡るところだった。

 ビルの合間から西日が差し、小さく揺られる僕らの顔を赤く染めた。

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