第55話 導く者と照らす者

「旦那様、そろそろ」


 アランに促されて、今度こそローレンスとリリアーヌは馬車に乗り込んだ。

 扉が閉まり、ゆっくりと動き出す。ローレンスが片手を上げた。

 リリアーヌは窓から身を乗り出し、見送る皆の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。


 しばらく二人は黙って馬車に揺られていたが、やがてローレンスが口を開いた。


「南ゴーディエ地方について調べてみたのだが、気候はだいぶ王都と違うようだな」

「ええ。ゴーディエ地方全体が王都よりずっと暖かくて四季がはっきりしています。夏は朝晩の寒暖差が激しくて、見渡す限りの小麦畑に霧がかかるのですよ。土地はなだらかで丘陵地帯と雑木林が交互に並びます。……美しい土地です」

「そうだな、あそこは最高級の小麦が収穫されるし土地の高低差も少ないから、今後王国の物流の起点になれるだろう。まずは王都への街道を整備して、いずれ鉄道を敷こう」

「まあ、もうそんなことまで考えてらっしゃるの? 流石は大商人ローレンス・フィッツジェラルドだわ」

「兄上の思惑に乗って差し上げるのも弟の務めだと思うことにしたのさ。とは言え全ては鉱山次第だが、おそらく数年は俺の私財からの持ち出しになるだろう。エルヴィンに頑張ってもらおう。それと貴女が贅沢好きでなくて助かるよ」


「わたくしは……故郷ふるさとの近くにいられるだけで幸せですから……」

 リリアーヌが少し俯いて呟いた。失ったものを懐かしむように。


「リリアーヌ」

 名前を呼ばれて顔を上げると、ローレンスが力の込もった瞳で彼女を見つめながらゆっくりと言った。


「必ず取り戻してやる。だからもう少しだけ待っていてくれ」


 リリアーヌは頷いた。

 マテオとのことなど、もう遥か過去の話だ。両親のことも伯爵家のことも、確かに胸が痛まないと言えば嘘になる。だがこの人となら、失ったものに再び手を伸ばすことができるかもしれない。今はまだその時でなくても、いつか。そう思えるだけで十分。


リリアーヌがふと窓の外に目をやると、もう既に王都の街並みが小さく遠くになっていた。

「王都が……遠ざかって行きます」

「寂しいか?」

「少しだけ……本当に、色々なことがありましたから。辛いことも、嬉しいことも、思ってもみなかったことも」

「そうだな。俺は生まれてから王都でしか暮らしたことがないから、新しい土地での生活が期待半分、不安半分といったところだ」

「どこでも、住めば都、ですわ。きっと」


 向かい合って座っていたローレンスがリリアーヌの隣に移動してきて、膝の上に置かれた手を取った。


「聞いてくれ、リリアーヌ」

「はい」

「これから先、苦労をかけると思う。領地経営は俺も未経験だし、鉱山の開発もまだどう転ぶか分からん。それに貴女は気苦労の絶えない宮廷で闘っていかねばならない。心ないことを言う輩も少なくないだろう」

「覚悟してますわ」

 リリアーヌが微笑みながら答えると、ローレンスは握った手を口元に持って行ってそっと口づけた。


「たとえ何が起ころうとも、俺は貴女がいてくれれば乗り越えられる気がする。どうか俺を見捨てないでくれ。貴女の愛さえあれば、俺はいつでも幸せだ」

「わたくしもよ、ローレンス。貴方さえいて下されば、わたくしは幸せ。それにちっとも怖くなどないわ。だって、貴方はどんな時でも必ずわたくしを助けに来て下さるでしょう? ……あの時のように、大声でわたくしの名を呼んで」

「当たり前だ」


「ローレンス」

「ん?」

 力強く言い切ったローレンスの肩に安心したようにリリアーヌが頭を預ける。


「忘れないで。貴方が導いてくれるから、わたくしは強くいられるのよ」


「……それは少し違う、いや、言葉が足りないと言えばいいかな」

「?」


 リリアーヌの肩に回した腕に力がこもる。


「俺が貴女を導いていけるとしたら、それは貴女が俺の世界を照らしてくれるからだ。暗闇の中では道は示せない。導く者と照らす者、どちらが欠けても駄目だ」

「導く者と……照らす者……」

「そうだ。きっと人間ひとは誰もが誰かにとっての導く者で照らす者なのだろう。皆気付かないだけで。だから俺はそれに気付くことができた自分を今、誇りに思っている。……ようやく、生まれてきたのも悪くないと思えるようになった。俺は感謝している。俺をこの世に送り出してくれた母と……二人の父に」

「ローレンス……貴方に出会えて、本当に良かった……」


 リリアーヌは心の中で語りかけた。


 ローレンスのお母様、ご覧になっていますか。

 貴女の悲しみは、わたくし達二人で未来への光に変えていきます。どうかこれからも、見守っていて下さい……


 ゆっくりと馬車は進む。街並みが、森の色が、雲の形が変わってゆく。

 愛し合う二人の歩む道は、まだ始まったばかりだ。

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