第44話 貴女、なかなかやるわね

 その言葉通りユージェニーは叙爵式までの間、忙しい公務の合間を縫ってお忍びでローレンスの屋敷を訪れてはリリアーヌに貴婦人の心得を教え込んだ。


 王室の行事ごとに細かく定められている宮廷儀礼……例えば外国からの国賓をもてなす宮中晩餐会、社交シーズンの初めと終わりに全国の貴族が一堂に集まる宮廷舞踏会、その他様々な年間行事への出席や、病院や兵士の慰問などなど。

 それ以外にも王族の女性としての立ち居振る舞い、表情、目線の配り方、曖昧な会話から巧みに情報を引き出す手練手管……それこそ手袋、ハンカチ、扇子などの小道具の効果的な使い方に至るまで。


「重要なのはただ一つ、常にこちらが主導権を握ることです。それに必要なものは何かお分りになる?」

「情報、でしょうか」


 ユージェニーは満足そうな表情で頷いた。

「素晴らしいわ。そう、情報よ。相手がどういう人間で、何を考えていて、こちらに何を求めているのか。それをより多く握った者が勝ち。だから下世話なゴシップまで含めて、常に貴族同士の関係を頭に叩き込んでおきなさい。まあでもこれに関しては、わたくしより婚約者殿に訊くほうが早いかもしれないわね」

 たまたま同席していたローレンスがふっ、と笑みを漏らした。リリアーヌがはて、という顔をしているのに気付いて補足する。


だよ」

「!」


 つまり王国の貴族のほとんどは皆、一度や二度は後ろ暗い目的のためにローレンスに金を都合してもらったことがあるという訳だ。

「貴族の誰が誰に弱みを握られていて、誰がどこの領地を狙っていて、誰と誰が道ならぬ関係だとか、大体はここに入ってる」

 そう言ってこめかみを人差し指でコツコツと叩いた。あっけに取られて言葉も出ないリリアーヌに、ユージェニーがふざけて言う。

「そうなの。貴女の婚約者殿って、こんなにも恐ろしい方なのよ。実を言うと王室もローレンスに助けてもらったことは少なくないの……あ、これは最重要機密ね」

 リリアーヌにとっては何もかもが信じがたいことばかりで、同時に自分の夫となる男がどれほど強大な力を持っているのかを改めて思い知る日々であった。


「それとリリアーヌ、貴女ダンスはできる?」

 ユージェニーに問われたリリアーヌは首を傾げた。令嬢の嗜みとして養母ははや祖母からひととおり教わってはいるが、もうずいぶん踊っていない。

 それをユージェニーに伝えると、王后は事も無げに言った。

「ああ、それなら都合が良いわ。コンスタンティンに教えてもらいなさい。わたくしから話をつけておきます」


「ええ⁉︎コンスタンティン先生、ですか!?」


 リリアーヌは思わず素っ頓狂な叫び声を上げてしまったが、すぐに気づいて改めた。貴婦人はどんな時でも叫び声など上げてはいけないのだ。常に泰然とした微笑みを浮かべ、何を言われても軽くいなす。自分はまだまだだ。

 しかしユージェニーにとってはリリアーヌの反応は全くの想定内だったようで、クスクス笑っている。

「意外でしょう? ああ見えて彼、ダンスの名手なのよ」

「ローレンス様、ご存知でした?」

 リリアーヌが振り返って尋ねると、ローレンスも笑いながら答えた。

「あー、うん、まあ。いいんじゃないか、コンスタンティンなら」


「笑い事ではありません。ローレンス、貴方もよ」


 そのユージェニーの声に、ローレンスは火をつけようとしていた煙草をぽろりと手から落として固まった。

「陛下、今何と……?」

「聞こえなかった? 貴女もコンスタンティンからダンスを習うのよ」

「え……いや……そ、それは……ありえません……ご冗談でしょう、私が女性と踊るなど」

「不特定多数の女性と踊れとは言ってません。でもあなたがダンスをしないとなったら、リリアーヌは誰と踊るのです? それに叙爵の後はお披露目の夜会が開かれますから、どうしても踊って頂く必要があるわ」

「待って下さい陛下」

「いいえ待てません。明日からコンスタンティンに来てもらいますから、そのつもりで」


 リリアーヌはなんだか楽しくなってきた。こんなにも狼狽して困っているローレンスの姿を見るのは初めてだったからだ。ユージェニーもいてくれることだし、この千載一遇の機会にちょっとばかりローレンスを困らせてやろう。そこでリリアーヌは泣きそうな声でユージェニーに話しかけた。

「王后陛下……」

「どうしたの、リリアーヌ!?」

「陛下……悲しゅうございます……わたくしは……この先も愛する夫とダンスを踊ることは叶わないのですね……」

 弱々しい声で涙ぐみながら呟くと、思った通りユージェニーは慌ててリリアーヌの肩を抱いた。

「リリアーヌ、何ということを申すのです」

「でも、でも、陛下……ローレンスはダンスを習うのは嫌だと……いいえ、分かっております。たった一度だけでいい、舞踏会で夫と踊ってみたいと願うのはわたくしには過ぎた望みだと……でも……でも……」

「泣かないで、リリアーヌ……ローレンス!」


 わざとらしくユージェニーの腕の中で肩を震わせるリリアーヌを抱き締めながら、ユージェニーはローレンスをキッと睨みつけた。

「見損ないましたわ、ローレンス・フィッツジェラルド」

「ええ? は?」


 ローレンスは何が起きているのかようやく理解し始めた。ダンスなど習うのも皆の前で踊るのも御免だ。だが目の前には泣きじゃくる最愛の婚約者と、自分を責め立てるやんごとなき女性……間違いない、これは人生最大の修羅場だ。

「リリアーヌが毎日こんなに大変なお妃教育を頑張っているのは誰のためだとお思い?全て貴方のためでしょう? 貴方を愛しているからこそ日々努力しているのよ。それなのに貴方ときたら、あれも嫌だこれも嫌だと……いい加減になさい!」


(……ああ……)


 がっくりと肩を落としてローレンスは屈服した。

「申し訳ございませんでした、王后陛下……私が間違っておりました……お言いつけに従います……リリアーヌ、心配しなくても良い、ちゃんと踊れるようにするから……」

「よろしい、ローレンス」

「ローレンス様……嬉しい……」


 ユージェニーが満足そうに頷くのを見て、ローレンスはやはり自分は大変なことに足を突っ込んでしまったのではないかと改めて思ったが、時既に遅しだった。


 この日ユージェニーは屋敷を出る時、見送りに来たリリアーヌの耳に顔を寄せて囁いた。

「お分かりになったでしょう? 今日のアレは上出来でしたわよ。貴女、策士の才能があるわ。わたくしそういう方、大好きよ」

 そして涼しい顔で肩をすくめたリリアーヌと顔を見合わせてニヤリと笑うと馬車に乗り込んだ。

 その夜、王宮の私室でレオから二人の様子を聞かれたユージェニーは笑いながらこう答えたのだった。


「ローレンスはもうすっかり尻に敷かれてますわ。リリアーヌは大丈夫。彼女は歴史に名を残す大公妃になることでしょう」

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