第5話 悪魔なんかじゃない

(これだから貴族なんて奴らは好かんのだ……)

 馬車に揺られながら、ローレンスは心の底に溜まるザラついた感情を抑え込もうとしていた。

 王宮からの帰り道はいつもこういう気分になる。

 ローレンスは身分は平民だが、その莫大な財力と国家財政にも影響する事業内容により、王宮への出入りが許されていた。

 だがそこには裏の思惑も絡んでいた。王国の有力な貴族達は、皆こぞってローレンスからこっそりと金を借りていたのだ。


 今日も新しい商船の建造に関わる委員会に招聘されたローレンスに対して貴族達は一見丁重に接してはきたものの、その表情には明らかに平民風情といった侮蔑が浮かんでいた。

 かと思うと急に卑屈な口調でこそこそと利息の支払いの猶予を要求したり、追加の借金を申し込んで来たりするのだから、ローレンスが苛立つのも無理はなかった。

 王宮の貴婦人達もまた、夫に隠れてドレスだ宝石だ、はたまた賭博に注ぎ込んだり若い愛人に貢いだりで借金まみれのくせに、ローレンスの風貌と左頬の傷跡を怖がって、彼が王宮の廊下を歩いているといつもヒソヒソとした声が聞こえてくる。


「卑しい平民の金貸しがまた来てますわ」

「恐ろしい顔だこと。奥様、あの頬の傷の由来をご存知?何でもどこぞの踊り子に手を出してその情夫に切られたとか」

「あら、わたくしは賭場で喧嘩に巻き込まれた時の傷だと聞きましてよ」

「まあ、なんということでしょう。国王陛下もどうしてそんな危険な男を重用なさるのでしょうね?」

「全く、嘆かわしいことですわ。そうそう、お聞きになって? ……侯爵のところはついに末のご令嬢を借金のカタに差し出されたとか」

「ええっ、外国にご遊学に出られたと伺いましたけど、そうではございませんの?」

「何でもあの男の取り立ての厳しさに耐えかねて、らしいですわよ。侯爵閣下に何という不遜な振る舞いでしょう。成金のくせに」


(ああ五月蝿うるさい。いい加減にしてくれ)

 あまりのイライラに耐えかねたローレンスが小さくチッ! と舌打ちをしてご婦人たちの方に目を向けると、彼女たちは一斉に怯えた表情でそそくさと蜘蛛の子を散らすように消えていった。

 慣れてはいるが、毎回これは流石に堪える。しかも貴婦人もその夫も、皆一度ならずローレンスに金を都合してもらって窮地を凌いだ経験があるのに、だ。

 おまけに今日は帰り道すがら、不意に現れた侍従とぶつかってしまい、その時にどこかに引っ掛けたのか、上着の袖口の刺繍がかなり広範囲にほつれてしまった。

(ツイてないな今日は)

 ローレンスは普段はほとんど黒一色の地味な三つ揃いに足元は紐で結ぶ革の短靴といったいかにも商人らしい装いをしているが、流石に王宮に参内する時にはそんな無礼は許されない。

 そこで仕方なく、絹地にふんだんに刺繍が施されたフロックコートにジレ、細身のトラウザーズと折り返しのある長靴を身に着けるのだが、彼はこの宮廷服が大嫌いなのだ。

 明日、仕立て屋に引き取りに来させるのを忘れないようにせねばな……とぼんやりと考えていたローレンスは、ふとある看板に気づくと御者に馬車を止めるよう声をかけた。


「あら? 何かしらこれ」

 その日の夜遅く、茶器を下げに向かったリリアーヌは、飲み終わったカップの横に小さな陶器の蓋つきの入れ物が置いてあるのに気付いた。

 ローレンスが王宮に出向いた日は、執事のアランもなんとなくピリピリしている。

 だからその日はいつもより一層控えめに食事の給仕をし、黙って茶を淹れて、そのまま厨房で翌日の朝食の仕込みをしていたのだ。

 厨房の洗い場で手早く茶器を洗う。

 アランから皿洗いは通いのメイドがいるので翌日の朝まで茶器はそのままにしておけば良いと言われたのだが、何となく気になっていつも洗って拭くところまでやってしまうのだ。

 銀のトレイを棚にしまってから、小さな入れ物の蓋を開けてみたリリアーヌは驚いた。

「これ……まさかローレンス様が?」

 そこには蜜蝋とハーブで作った軟膏が入っていた。


 その数日前、夜中に喉が渇いて目が覚めたローレンスは水差しを持って厨房に向かった。

 アランもリリアーヌもとうに眠っているだろう。起こすのも躊躇われたし、水を汲むぐらい大したことじゃない。

 だが厨房からまだ明かりが洩れているのにローレンスは驚いた。

 ドアの隙間から様子を窺うと、リリアーヌが盥に水を汲んで何か作業をしている。

 だが盥の水に手をつけた瞬間、手をぱっと離して酷く顔をしかめ、それからそろそろと盥に両手を浸して作業を続けていた。

 その時のローレンスには、リリアーヌがなぜそんな辛そうな顔をしているのかが分からなかった。

「ローレンス様! どうなさいました?」

 人の気配に気づいたリリアーヌが振り向いて声をかける。

「驚かせてすまない。水が欲しいんだが」

「まあ、気がつかず申し訳ございません。すぐご用意いたしますね」

 リリアーヌはローレンスから水差しを受け取って冷たい水を満たしながら言った。

「お部屋までお持ちしますので、お戻り下さい」

「いや、いい。自分で持っていく」

「では、お願いしてしまってよろしいでしょうか?」

 一瞬迷ってからリリアーヌはローレンスに水差しを渡したが、その時ローレンスはリリアーヌの両手が酷く荒れ、指先があかぎれだらけなのに気付いたのだった。そうか、だから手が水に触れると痛むのか。

「まだ仕事をしているのか?」

 そう話しかけられたリリアーヌは事もなげに答えた。

「今日、良い子牛肉が手に入りましたので、新鮮なうちに塩漬けにしておこうと思いまして」

「子牛の塩漬け? こんな時間にか?」

 思わず少し声を荒げたローレンスに、リリアーヌが申し訳なさそうな顔になった。

「あ、責めている訳ではない。ただもう遅いから、ほどほどにして休んでくれと言いたかっただけだ」

「お気遣いありがとうございます。もう少しですので、これが終わりましたら部屋へ戻ります」

「そうか、邪魔をしたな……お休み」

「お休みなさいませ、ローレンス様」


(これ、勝手に使ってしまっても良いのかしら……でもわたくしが毎晩茶器を下げていることはローレンス様もご存知だから、たぶんわたくしに下さったのよね……)


 少しだけ迷った末、リリアーヌは軟膏をそっと指で掬って手にのばした。

 甘い香りが漂い、とろみのある蜜蝋とハーブの成分が、血の滲んだ指先にじんわりと染みこんでいく。いつしかリリアーヌの両目に涙が溜まっていた。


(わたくしのことを気にかけて下さる方がいたなんて……もうずっと、世界中から見捨てられてしまったと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない……)


 それと同時に、リリアーヌの中でローレンスの世間での評判に対する疑問が確信に変わった。


(あの方は、皆が言うような冷酷で残忍なだけの成り上がりの高利貸しなどではないわ……わたくしにはわかる……現にこうしてわたくしをお屋敷ここで雇って下さった……もう身体を売るしかないと思っていたのに、助けて下さったのよ……)


 だがその時不意に脳裏にあの男の顔が蘇り、リリアーヌは自分を取り巻く現実を思い出して背筋が凍るような気がした。


(そう、ローレンス様は断じて悪魔などではないわ。悪魔というなら、のほうがわたくしには恐ろしい……)


 マテオのいつも酔っ払って焦点の合わない目と、下卑た甲高い怒鳴り声。親子ほど年齢としの離れたイヴォンヌに抱きつきながら自分に投げつけられる侮蔑と毒を含んだ言葉。リリアーヌは思わず両手で耳を覆った。


(いけない、ここにいると、わたくしはつい勘違いしてしまう。ここがわたくしの居場所だと……忘れてしまう……戻らねばならない場所があることを……ああ、でも、その日が来た時、わたくしは平静でいられるのかしら……)

 リリアーヌは生まれて初めて自分の運命を呪った。


 翌日の夕食後、いつものように茶を運んでいったリリアーヌは、おずおずとローレンスに声をかけた。

「あの、ローレンス様……」

「何だ?」

 ローレンスは新聞に目を落としたままぶっきらぼうに答える。

「これ、ありがとうございました。使わせて頂きました」

 そう言って、軟膏の入れ物を差し出した。ローレンスは新聞からリリアーヌに目線を移してああ、という顔をし、すぐまた新聞に目線を移した。

「貴女が持っていなさい」

「でも……」

「いいから使ってくれ。……その手に水仕事は堪えるだろう。なくなったら言ってくれればまた買って来る。あとそこの上着の刺繍を直しに出しておいてもらえるか」

 リリアーヌが目線をローレンスが指差す方向に向けると、ソファに宮廷用のフロックコートが置かれていた。

「では、遠慮なく頂戴いたします。ありがとうございます。……この袖の部分ですね。あらひどい、これはちょっと、時間がかかるかもしれませんわ……」

「ああ、だからなるべく早く頼む」

「承知しました」

 リリアーヌはフロックコートを手に取ると、ローレンスに向かってお辞儀をすると執務室を出ていった。


 三日後、ローレンスがクローゼットの扉を開けると、直しに出したはずのフロックコートが掛かっていた。訝しげに袖口を改めてみると、ほつれた刺繍が見事に元通りに直っている。

 ローレンスには何が起こったのかさっぱり分からなかった。

 フィッツジェラルド邸に出入りしている仕立て屋は腕は良いが、とにかく作業が遅い。特に今回はほつれた刺繍を元からある部分と違和感がないように直す必要があり、どう少なめに見積もっても一週間以上はかかるだろうと思っていたのだ。

(どういうことだ……? 新しい職人でも入れたのか? にしても早すぎないか?)

 ふとある疑念が頭をもたげたローレンスは、その日の夕食後、いつも通り茶を運んできたリリアーヌに尋ねた。


「この前のフロックコートだが、もう直しから上がってきたのか? えらく早いんだが」


 予想通り、リリアーヌがあっ、という顔になった。

「……仕立て屋に出しておいてくれと言ったはずだが?」

「……あの……さ、差し出がましいとは思ったのですが、わたくしが……」

「あの刺繍を貴女が? 」

「も、申し訳ございません……たぶん仕立て屋に頼むとかなりの日数がかかると思い、その間にローレンス様が宮中に伺候されることがあったらお困りかと……」

 黙ったままのローレンスを見たリリアーヌは泣きそうな顔になってしまった。

「あ、あの、素人仕事ですのでもしお気に召さなければちゃんと仕立て屋に」

「いや、そうではない。貴女には驚かされることばかりだな。良い腕だ。刺繍などというものは貴婦人が嫌々やらされる手慰みだと思っていたのだが」

 リリアーヌはほっとした顔になった。

「はい、刺繍は小さい頃から母に……いえ、何でもございません。あの、もう下がってもよろしいでしょうか」

「あ、ああ、構わない。……ありがとう」


(本当に不思議な伯爵夫人だ……)

 ローレンスが頭の中で描いていた伯爵夫人という人物像が、リリアーヌを見ていると次から次へと覆される。

 彼女はどこで、何をしてきたのか。そしてなぜ多額の借金を背負っているのか。

 今まで債務者はおろか、およそ他人というものに興味がなかったローレンスの心の奥に、静かに密やかにリリアーヌは入り込み、確実に彼を変えていこうとしていた。尤もリリアーヌ本人は、そんなことは微塵も意図していなかったのだが。


 そしてこの後、ローレンスはリリアーヌに更に驚かされることになる。

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