第18話 山主

「ドウメキ‼︎」


 黒い煙が燻る中、影を引き摺るようにしてドウメキが駆けた。黒い深衣をはためかせ、岩屋戸を蹴るかのようにして飛び上がる。

 その手には、タイランの血がついていた。九魄の鉤爪によってつけられた傷口に触れたのだ。痛みに呻く姿に気がつくなり、ドウメキはその身の妖力を膨らませるように激怒した。

 

「どけ喰録。それは俺のだ」

「グゥウ……!!」

「二匹いっぺんに相手をしてやろうか」


 喰録が牙を剥き出しにし、唸り声を上げる。空を飛び上がったドウメキが、九魄諸共もつれあうように地上へと向かって落ちる姿を前に、タイランは体の温度を一気に下げた。

 何ができるかはわからない、せめてドウメキの体を受け止められないかと、駆け出そうとした時だった。

 大きな影が、勢いよくタイランへと飛びかかる。声を発する間すら許されず、薄い体はイムジンによって吹き飛ばされた。

 

「小僧、それを離さぬということは、戦う意思があるということだな?」

「っ、くぁ……っ」


 拳を捩じ込まれた腹が燃えるように熱い。黒髪を土で汚すように地べたを滑る。タイランの体を受け止めたのは、背後に聳える岩屋戸であった。


「ぇほ、っ……っ、っは、……」


 ひゅうひゅうと喉がなる。内臓が破裂したかと思うほどの痛みが、全身を苛んだ。視界が明滅する。呼吸がうまくできない。指先が震えて、力が入らないのだ。

 砂利を踏み締め近づくイムジンの背後に、喰録が降り立った。

 木を揺らすようにして落下したドウメキと九魄を気にも留めずに、牙を剥きイムジンへと飛びかかる。


「タイランに何をする‼︎」

呉暁ごぎょう

「ぎゃ、……っ」


 鈍い音と共に、喰録が目の前から消えた。イムジンの影から現れた青白い人型の妖魔によって、巨躯は投げ飛ばされたのだ。

 顔を六面体の筒で隠したその妖魔は、大きな体格からは予測もつかないような素早さで喰録へと肉薄した。

 青白く、縫い目が走る四本の腕を駆使して翼を鷲掴む。金眼を見開いた喰録が抵抗をするように呉暁の肩へと鉤爪を食い込ませた瞬間、タイランは悲鳴交じりに叫んだ。


「喰録、散‼︎」

「タイラ、……‼︎」


 喰録の瞳が驚愕を宿しタイランを見た。その体は瞬きの間に黒い霧が広がるようにかき消えた。あの時と同じ、守城が喰録を守った時と同じことを、タイランはしたのだ。喰録の翼が奪われないようにするには、こうする他はなかったのだ。

 行き場をなくした呉暁の四つ腕が、乱暴に振り回される。獲物を失ったことに憤慨している様子だった。


「確かお前は、巫力がないはずじゃなかったか」

「俺も、そのつもりだった……っ」

「で、守ろうとした喰録を隠してお前はどうする。まさかその細腕で呉暁の相手をするつもりか」


 呆れ混じりのイムジンの声に、なんの返しもできなかった。大きな体を揺らした呉暁が、次の獲物を定めるかのようにタイランへと振り向いた。

 

「屍人……」

「これは俺の弟だ。仲良くしてやってくれ」

「っ、……くそ!」


 錫杖で体を支え、タイランはよろめきながら立ち上がった。腹の負担が、全身に響いている。

 おぼつかない足取りで走った。体が痛い、全身がバラバラになってしまいそうだった。

 なぶるのが趣味なのだろうか。呉暁は走ることもなく、ゆっくりとした歩みでタイランの後ろについてくる。


(何ができる、俺に、一体何が……っ)


 息を切らし、やるせない気持ちのままに岩屋戸へと手をつける。何かを感じた。それは、枯れた土地が水を吸い上げる様にも似たものだ。触れた場所が痺れて、熱くなっていく。タイランの身に流れ込んで来たのは巫力であった。それが封呪を解いた守城の残り香なのかはわからない。

 まるで、力をうまく使えと言われているようだった。


(どうする、また、喰録を呼び出す? だけど、巫力が足りないかもしれない……)


「タイラン‼︎」

「っ、……ヤンレイ」


 タイランの足を止めたのは、ヤンレイの苛立った声であった。刃先のような鋭さを纏い、目に見えて怒りに飲み込まれている。

 深衣を翻すように呉暁の目の前を抜けると、白い手はタイランの胸ぐらに掴み掛かった。


「なんで邪魔をする‼︎ なんでお前は、俺の邪魔ばかりを……‼︎」

「ぅく、っ」

「タイラン‼︎」

「おっと、兄弟喧嘩に口を挟むなよ妖魔」


 神経を逆撫でするような口調で、イムジンは宣った。

 ヤンレイを背後に回し、立ち塞がる呉暁によって駆けつけたドウメキが阻まれる。

 胸ぐらを掴むヤンレイよりも、タイランは頭から血を流すドウメキの方が気になった。


「離せヤンレイ、っドウメキ、ドウメキ‼︎」

「なっ、……‼︎」


 ヤンレイの狼の瞳が、驚愕に見開かれる。今までヤンレイの姿を目で追ってきたタイランが、初めて他の男を優先させたのだ。

 目の前にいる弟よりも、背後にいる訳のわからない妖魔の男を呼んだ。それは、ヤンレイにとっては侮辱と同じであった。


「九魄……っ、何をしている、姿を現せ‼︎」

「いるよヤンレイ」


 炎を纏い姿を現した九魄の体は、ドウメキとの争いで消耗しているようだった。体は傷ついていても、表情からは疲労を感じさせない。

 九魄は胸ぐらを掴まれているタイランへと顔を向けると、目を微かに見張らせた。


「……巫力が馴染んでいる」

「何を……」

「余計なことを口にするな。こいつを山主に食わせる……いいな」

「……はいはい」

 

 ヤンレイの言葉にドウメキが反応を示した。その手に炎を纏うと、繰り出される呉暁の腕を避けるようにして後ろを取った。

 六面体の筒で隠された頭を鷲掴む。ドウメキは長い両足で呉暁の腕の一対を拘束するなり、一息に締め上げた。


「やめろ……‼︎ タイランに触れるな……‼︎」


 ドウメキの怒鳴り声と共に、木を捻り切るかのような鈍い音を立てて呉暁が崩れた。腕を壊されたのだ。

 すぐさま体を離したドウメキへと、イムジンの鋭い槍が襲いかかる。

 巫力で練り上げられた一本槍は、イムジンによって裁かれた妖魔の死が纏わり付くものだ。それが、空を切る音を立ててドウメキの頬を掠める。

 赤い血を散らしながら、飛び退るようにして避ける。炎を纏う手を横になぐようにして、ドウメキは素早く火炎を放った。


「腕は予備がねぇんだぞ‼︎」

「なら貴様のを使えばいい」


 火炎を避けるように体を逸らすイムジンの隙を、ドウメキは見逃さなかった。

 紅い虹彩が残像を描いて追いかける。深衣の袖を絡めるように、襲い来る槍の動きを鈍らせた。

 大きな手のひらで握り締めた槍の柄を軸に、体を捻るように飛び上がる。ドウメキの左足は振り上げられ、鞭がしなるようにイムジンの顔の側面を蹴り飛ばした。


「っ、耳が……っ……‼︎」

「タイラン‼︎」


 耳から血を溢したイムジンの崩れる音と共に、ドウメキの悲痛な声が聞こえた。

 琥珀の瞳に映るのは、ドウメキがこちらに手を伸ばす姿だった。

 九魄の手が、タイランから遠ざけるようにヤンレイを背後へと投げた。

 迫るドウメキが、咄嗟にヤンレイの体を受け止めたのを認めると、九魄は小さな声で何かを呟いた。


「覚悟を決めろ、守城」

「待て、どういう」


 その瞬間、九魄によって作り出された強風が、タイランの体を岩屋戸の奥へと吹き飛ばした。

 光が、ぐんぐんと小さくなる。まるで、闇へと落ちていくかのような浮遊感は、タイランの体に違和感をもたらした。


(何かが、体の上に這っている……っ)


 服の下を、不快感が走る。視界が暗くて何もわからない。明確な恐怖と、身を任せろという二つの葛藤がタイランの思考をかき混ぜるのだ

 生温い何かに包み込まれた体が、勢いを殺して地べたへと下される。入り口の光は消えていた。まるで、最初から明かりなどないと言われているかのように。

 一歩下がる。踵に何かが当たった気配がした。カロリと硬質なものが擦れ合うような音と共に、積み上げられたものが崩れる。タイランが跪くようにして地べたに手を這わせれば、指先に何かが触れた。


(これは、……石……?)


 暗闇の中、輪郭を捉えようと目を凝らす。やがて見えてきたのは、十四もの積み石が、丁寧に横一列に並べられている光景であった。

 タイランにはこれが何かすぐにわかった。震える手で、崩してしまった石の一つを積み直す。

 大きさもチグハグなそれは丁寧に積みあげられ、長い年月を経たものは風化しかけている。それは墓標でもあり、偲ぶ気持ちの具現化にも見えた。

 タイランは滲む涙を袖で拭った。この岩屋戸の中に潜むものの妖力は暖かい。これは、知っている妖力だ。まだ泣いてはいけない。本当に泣きたい奴が泣けていないのだ。

 体にまとわりつく妖力に、もう怯えることはしなかった。山主の本当を、タイランは知ってしまった。


 立ち上がり、虚空に手を伸ばす。指先が何かに触れた。大きく、質量のあるものが、人肌の温もりを纏ってそこにある。


(これは、手のひらだ……)


 大きく、暖かい手のひらにタイランは頬を寄せた。

 壊れ物に触れるかのような遠慮がちな手つきで、山主だろう妖魔はタイランの黒髪を撫でる。それに擦り寄るように応えれば、タイランの体はゆっくりと濃い妖力によって包まれていった。

 気がつけば、タイランの薄い体は山主によって持ち上げられていた。暗い影から伸びたいくつもの腕によって、優しく抱き上げられたのだ。

 ここは空間が歪んでいる。感じる山主の存在はタイランよりも大きく、時折岩屋戸の中を満たすように質量を変える。それでも、触れてくる手つきはひどく優しかった。


「……山主、か……?」


 守城とタイランを隔てた稲妻のような光、あれは獣の形をとった山主が守城を食ったからに違いない。確かめるように、タイランは手を伸ばす。

 暗くてよく見えない。静かな呼吸音だけが支配するこの空間で、タイランの問いかける声色は緊張をはらんでいた。


「ぅ、……っ」


 ぞわりとした感覚が、時折身を苛む。影によって体の中を検分されているような心地であった。明かりが欲しい、もっと近くで姿を捉えたい。タイランがそう願うと、わずかに視界が変わった気がした。


「守城」

「あっ」


 複音の声が、タイランの体を内側から響かせる。血潮を震わせるような、反響音にもにた低い声。指先まで体を痺れさせたタイランが、山主の手に指を絡めるようにして握り返す。

 力が入らない。へたり込みそうになる体を支えるために伸ばされた手へと、タイランは身を任せた。


「守城、守城……」

「ゎ、わかった……わかったから、待ってくれ、……っ」

「まった」


 耳元で囁かれている。まるで、いたずらに首筋をくすぐられるような感覚であった。視界が、だんだんと暗闇に馴染んでくる。どこからか鎖の擦れる音がして、タイランがゆっくりと顔を上げた時だった。


「もう、じゅうぶんにまった」

「ひ、っ……!」


 上擦った声が漏れた。赤く、大きな目玉がタイランを見つめていたのだ。

 つるりとしたそれは暗闇の中でも怪しく輝いていた。驚愕を浮かべた己の顔が、目玉に反射するように写っている。人ではない、獣の目玉だ。

 ぐる、と鳴る喉は、喰録が甘える時の音にも似ていた。目玉は黒い毛並みに覆われるように姿を消したかと思えば、影は形を変え、人型をとる。


「は、ぁま、まって」


 

 長い腕に抱き込まれるように、首筋へと鼻先を埋められる。山主の肉厚な舌が、体の味を確かめるようにねとりと這わされた。

 体の内側へ取り込もうとしているのかと思うほど、苦しいまでの抱擁だ。タイランは行き場のない手を落ち着かせようと、山主の体へとゆっくり回した。

 山主の肩口から、赤い花が咲く。目を凝らしてみれば、それは赤い目玉であった。

 気がつけば、幾つもの紅い目玉がタイランを見つめていた。戦いで疲弊した体は、もう重だるさもない。身に流れこむ山主の妖力が、意思を持って体を癒してくれたのだ。

 大きな手のひらが、タイランの背中を温めるように撫でる。熱い呼気が首筋にあたり、タイランがむずがるように天井を見上げた時だった。


「あ……」


 夥しいほどの爪痕が、岩屋戸の天井を覆っていた。

 

 でたい、ここからでたい、苦しい。


 そんな気持ちが、爪痕で削れた岩の隙間から雨のように降ってくる。これは、山主の心情だ。温もりに縋り付きたかった山主の、数百年分の思いだ。


「ここにいた、ここで、まってた」

「う、ん」

「ここからでなければ、またくる。おまえが、あいにくる」

「うん、そう、だな……っ」


 静かな声だった。孤独を埋めるように、山主はタイランに縋り付く。大きな体を受け止めるように抱きしめながらも、タイランは一点を見つめていた。あの時聞こえた鎖の音。山主の体を縛るように伸びたそれは、杭で貫かれた人骨へと繋がっていた。


「やま、ぬし……や、約束を果たしに、きた」

「やくそく」

「おまえを、助けに来た……、俺と外に出よう」


 タイランの言葉に、山主の動きがぴたりととまった。岩屋戸の空気がざわめき、妖力が吹き荒ぶ風のように激しく流れる。タイランを抱きしめていた影にも似た黒い体は千切れるように闇にとけ、その体躯を大きな山犬の姿へと変化させた。

 岩屋戸の中、窮屈そうに頭を下げて座っている。黒い毛並みに埋もれているが、その口は耳までグパリと裂けていた。


「あれが……人だったお前の姿だな……」


 風化し、バラバラに砕けてもなおわかるのは、縫い止められている人骨の纏う気配が山主と同じということだ。

 姿を持たないのではない。その多すぎる妖力を操り、自在に姿を変えることができるのだ。

 本能のままにいる時は人の形を取り、怯えている時は獣の形を取る。守城を食らった時、山主は手をかける己に怯えていたのだ。

 殺したくない、嫌だ、食いたくない。それでも、呪いは山主の悲しみを許しはしなかった。


「……こわいか」

「……こわくはないよ」


 獣の鼻先に触れる。柔らかな毛並みに顔を埋めると、タイランは小さく呟いた。

 死なせたくない、そう願う山主の前で、守城は何度も死んだ。その死にきちんと理由があったことも分かっていただろうに、長い年月を経るうちに真実は霞んでしまった。

 残ったのは、山主の後悔と懺悔だけだった。

 タイランの琥珀の瞳が、真っ直ぐに山主へと向けられる。

 丸く紅い獣の瞳は、静かに光っていた。獣の口吻が、歪むようにして動く。聞き取りづらい声で、山主は宣った。


「おれ、おまえといたかった」

「ああ」

「おれのせいでしんだ、おまえといたかったんだ」


 泣いているのだろうか。震える声で宣う山主を前に、胸が痛くなった。大粒の涙がこぼれ、足元を濡らすものだから、タイランもついに堪えきれなくなってしまった。


「お前ばかり、悲しい思いをさせてすまない……っ」


 濡れる頬をそのままに、タイランは山主の口吻を抱きしめた。知っている、タイランは山主をよく知っている。

 目を閉じれば、。慣れ親しんだ妖力がじんわりと体に入ってくるようだった。


「ドウメキ……」


 タイランの言葉に、山主の赤い瞳はキュウと細まった。獣の体がふるりと震え、影は形を求めるかのように暴れだす。タイランの紡いだ名前に引きずられるように、ドウメキと呼ばれた山主の体に、いくつもの紅い瞳が咲き出した。

 

「みにくい、いやだ……、おまえに、しられたくはなかった……」

「醜くない、嫌いにもならない。おまえが健気に待ち続けてくれたから、俺は迎えに来れたのだ」


 山主としての募る思いがタイランの体に入り込む。守城として生き、結界を張り直す儀式の度に命を落とす。

 ドウメキとの儚い命のやり取りは、記憶で見たあの一度だけではなかったのだ。

 十四の積み石。それは、ドウメキが死んだ守城を、弔ってきた回数だ。


「ここにくるなとねがっていた。だからおれは、おれにおもいをたくしたのに」


 溢れそうな情念が、いつしか意志を宿せる体を作り上げた。それは山主としての自由な姿だったのだろう。

 山主である己から守るために、もう一人の意識であるドウメキに命を託した。大切な守城の命を、から守るために。


「わかっていたさ、だから俺はここにきたのだから……っ」


 下手くそな笑い方だったかもしれない。守城へと向ける、ドウメキの不器用な愛情が切なくて、タイランはうまく表情が作れなかったのだ。

 

「すまなかった……、ドウメキ、……っ」


 震える声で懺悔した。本当に苦しいのはドウメキであったはずなのに、ずっと守城に、タイランに悔い続けてきたのだ。

 狭く暗い岩屋戸の中で、ドウメキは山主として、死に戻りをする守城とのわずかな邂逅を望み、そして悲しみに身を焼いていた。

 結界を司る守城の一族によって、ドウメキは山主にされた。人身御供にされた犠牲者だ。

 巫力が誰よりも多く、そして病に冒されていた。守城と同じ村に生まれた嫌われ者。その見目の醜さからついた男の名前こそが、ドウメキだった。





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