第16話 道の、その先
タイランの声は飲み込まれた。少しだけ濡れた厚みのある唇に、柔らかく啄まれる。
思考は考えることをやめたように鈍くなり、顔を背け拒もうとすれば、許さないとばかりに大きな手のひらで頬を包まれる。
一方的に貪られる。重なる吐息が熱を帯び、タイランの長い睫毛がじんわりと濡れた。
一体どういうつもりだと胸を叩けば、抗議の手はあっという間に押さえ込まれた。
「ふ、……ぅ、う……‼︎」
(なんで、こんな……っ)
初めて珠幻城にきた夜と同じだ。タイランの唇を割開くように、ドウメキの舌が口内を舐る。
甘い唾液を纏うそれが、宥めるようにタイランの舌を摩擦するのだ。
互いの唾液が混ざり合い、飲み込みきれなかったものが口端から溢れた。酩酊感を伴うような慣れない感覚に、心臓はバクバクと跳ねる。
気を抜けば情けない声が漏れるだろう。タイランの体温がじわりと上昇した時であった。
「おい! そこで何をしている!」
(っ……‼︎)
飛んできた鋭い声色に、タイランの体が跳ねた。恫喝するような声を投げてきたのは、先ほどの二人組の兵に違いない。
思わず縋るようにドウメキの手を握り返せば、わずかに離れたドウメキの唇が静かに囁いた。
「首の後ろに手を回せ」
「ぇ、んんっ」
それは、密やかな命令であった。タイランの口から思わず漏れたのは戸惑いの声だ。
ドウメキによって、タイランの手は首の後ろに回された。思わず襟首を両手で握り締めると、褒めるように下唇に甘く吸いつかれた。
吐息の重なりが熱い。大きな手のひらがタイランの腰を持ち上げると、両足を開かれるようにしてドウメキの体が入ってきた。
忙しない心臓は、皮膚を通して体を小さく震わせる。ようやく離れた唇から、冷えた外気が肺に取り込まれる。
顔を見られたくない。きっと、目も当てられない表情になっているに違いない。タイランは壁で己の背中を支えるように縋り付くと、赤みを隠すようにドウメキの肩口へと顔を埋めた。
「おい、お前ら」
「見てわからないのか」
「っ、……」
耳にしたこともないドウメキの冷たい声色に、縋り付くタイランの腕の力が強くなる。静かな声色で男たちへと向けられたドウメキの言葉には、少しの苛立ちが含まれていた。
顔を見なくてもわかる。放たれる確かな威圧は、男たちの足をぴたりと止める。
「お楽しみの最中だ、それとも、最後まで見ていくつもりか?」
「ぁ、っ……」
喉奥で笑うドウメキが、タイランの胸元に手を差し込んだ。薄い肩を晒すようにずらされた生地に、思わず小さな声が漏れた。
男たちのたじろぐような雰囲気を感じ取る。羞恥に顔を染めながら、タイランはドウメキの合図を待つように動かなかった。
もし、この男たちがヤンレイの命令でタイランを探していたのだとしたら。ヤンレイの知るタイランは、絶対にこんな奔放なことはしない。印象を変えるなら今しかないだろう。
しっかりとドウメキを抱き締める。このまま身を任せている方が、己の下手な演技よりもずっとましだと思い直したのだ。
「……昼間っから盛りやがって、節操のない馬鹿が」
「わかったらさっさといけ。見物料を取るぞ」
「ヤるなら人目を憚れ。女が可哀想だろう」
「ご忠告どうも」
ドウメキの肩に顔を埋めたまま、タイランはそのやりとりを聞いていた。どうやらうまくいったらしい。縋り付く手が震えていることに気がつかないまま、タイランは心臓を宥めるように、深呼吸を繰り返す。
砂利を踏みつけるような音を響かせて、男たちは去っていったようだ。
宥めるように背を撫でられて、ようやく顔を上げることができた。
「……大丈夫か、あれはお前のなんなんだ」
「……」
「タイラン?」
ドウメキの声が、耳元で響いた気がした。そっと地べたへと下ろされる。心臓が忙しなくて、少しだけ疲れた。
名前を呼ばれているのに、うまく反応を示すことができない。覚束ない手つきで、ドウメキに乱された胸元を引き寄せる。
下を向けば、落としたらしい饅頭の袋を喰録が咥えていた。
「嫌だったのか」
「嫌じゃない……」
「なら、なんでそんな顔をしている」
ドウメキの大きな手が、頬に触れた。
タイランは、今どんな表情をしているのだろう。まだ心臓はしつこく鼓動を重ねて、足元は雲を踏むようである。
この体の熱が緊張からなのか、動揺からなのかわからない。口が乾いて、うまく言葉が紡げないのだ。
黙りこくり、出てこぬ語彙に苦しむように俯くタイランの頭を、ドウメキの手のひらが労るように撫でた。
「お前が食いたがっていた山菜は、後で俺が買いに行く。お前はもう城で休め。疲れただろう」
「す、まない」
「殊勝な態度を取られると、妙な気分になる。喰録、タイランを乗せて城に帰れ」
「私も饅頭を食っていいか」
「俺の分は残しておけよ」
気を遣われている。喰録とドウメキのなんの気無しのやり取りから、タイランはそれを感じ取ってしまった。
ヤンレイから言われて、タイランは魏界山にきた。本来の命令も聞かずに、新しい人生を歩むつもりで逃げたと言っても過言ではない。
最初から、タイランは山主の封呪を解く気がないのだ。ならば隠さずにドウメキへと真実を告げればいい。
そんな、簡単なことのはずなのに。
頭ではわかっている。それでも、隠し事をする後ろめたい気持ちのままドウメキの前にいることが、タイランは途端に恥ずかしくなってしまった。
気がつけばタイランの手は、先に行こうとするドウメキの手を掴んでいた。
大きな手のひらに、握り返されることはなかった。ただ、タイランを見下ろすドウメキの視線に戸惑いをが含まれていることだけはわかった。
「や、まぬし……を」
タイランの声は掠れていた。ここにきた理由を、告げることが怖かったのだ。
また、ドウメキの心の傷をえぐるかもしれない。己に都合のいい理由をこじつけて。のらりくらりと逃げていた今までのつけが首を絞めてくる。
居心地のいい日々に甘えて、何も話さなかったから。だからこんな形でドウメキに迷惑をかけることになったのだ。
情けない。情けなくて、なんだか涙が出てしまいそうだ。
砂利を踏み締める音がして、ドウメキの影がタイランの影に重なった。大きな手のひらを後頭部に感じると、そのままドウメキの肩に顔を引き寄せられた。
肩口の生地が、じわりと濡れる。話さなければというタイランの緊張が、涙となって現れていた。
「……近づいてほしくないんだ、あそこに」
耳心地の良い、タイランが安心するドウメキの声に懇願の色が宿る。それが余計に涙腺を叩いた。
「ゎ、わかってる……で、でも俺を探しに、きてたら、っ……」
「生真面目なのも、考えものだな」
震える唇から、熱い吐息が漏れた。どうしたらよかったんだろう。最初からドウメキに出会わなければ、もっと物事は楽に進んでいたのかもしれない。
タイランの心の内側でせめぎ合うのは、本当を告げねばという気持ちと、告げて嫌われたくはないという二つの相反する感情だ。
こんなに面倒臭い気持ちになるなら、ドウメキと出会いたくはなかった。そう決めつけて逃げてしまいたいのに、今はこんなにも離れ難い。
心の悲鳴と、ドウメキに隙間を埋めてほしいという、乾き。それら二つ混ざり合って醜いタイランを作り出す。
守城は、きっとこうじゃなかっただろうな。そんな具合に、よく知りもしない己の前世と比べてしまうから、余計に首を絞める。
タイランは、過去に勝ちたい。初めて芽生えた独占欲の対象はドウメキだ。
──── あとは、任せる。
過去の守城の言葉を、タイランはずっと気にしてた。守城は運命に呪われている。だからきっと、書庫でのドウメキの問いかけに、俺にしかできないのだと言ったのだ。
守城は、何を言いたかったのだろう。死ぬ間際に告げた言葉は、まるで未来へと何かを託すような声色だった。
何を知って運命を受け入れた。自らの命を代償にして、守城が見えぬ未来へと託すもの。
(……そうだ、俺は)
記憶の中で手繰り寄せたのは、理由だ。決してドウメキの唇から紡がれることのなかった本当の名前。タイランの前世を、守城と呼び続けた理由。
守城が一人で岩屋戸へと向かい、山主へと命を捧げた本当の真実。
(任せる……、あれが本当の意味で俺への言葉だとしたら、まるで)
タイランの琥珀の瞳が、微かに見開いた。
死ぬ前の守城に悲壮感は見受けられなかった。死ぬとわかっていて、口にできる言葉ではない。
次の生があることを知っているかのような口ぶりは、守城である前世から今を生きるタイランへと託すかのようにも聞こえた。
記憶に残る。守城が口にした十四の数字。もしこれに意味があるとするならば、あれは守城が死んだ回数じゃないのか。
そこまでして、何度も死に戻りを繰り返してまで守城が山主を解放したかった理由に気がつき、タイランの喉がごくりと上下する。
記憶の中の守城が、タイランに微笑んだ気がした。
(ドウメキは、死に際まで守城の名前を呼ばなかった。それは、呼ばなかったのではなく、呼べなかったんだ……)
守城は、役職名だ。そして、山主に命を捧げる為だけに育てられてきた生贄そのものだ。
蘇った記憶は、あまりにも優しくて辛かった。十四の数字は、免れぬ死を意味する。不吉な数字で縛ることで、呪いを重ねがけにしたのだろう。守城の体を奪ったのは、山主だけではない。
「名前が、……なかったんだな」
「っ……」
タイランの言葉に、ドウメキが息を詰める。
守城が名前を持たないのは、必要がないからだ。だからドウメキは、守城の名を呼べなかった。
「タイラン、お前は」
「俺は、……望んだことだった。この呪いに、終わりがあることを知っていた。だから、死ぬのも怖くなかった」
思い出したのは、物心ついた頃から聞こえていたドウメキの声。あれは死んでいった守城に向けられた言葉だ。
運命に呪われているからこそ、身に濃く残ったのは宿命だけではない。
あの時守城が口にした、任せると言う言葉。それは、同じ輪廻を繰り返した守城からの、今を生きるタイランへ向けられたものだ。
「だが、俺は!!」
「道の先には、お前がいる」
頬に触れる。輪郭を確かめるように、タイランはドウメキの顔を両手で包み込んだ。
紅い瞳に宿るのは、痛いほどに相手を想い続けた自責の色だ。悲しみで深くなった紅の中に、タイランがいる。
こんな顔をドウメキにさせてしまうほど、二人は互いの想いを差し出せぬまま、胸に秘めて生きてきたのか。
「……俺は、お前に死んでほしくなかった……っ」
悲痛な懇願は、懺悔でもあった。ドウメキは最初に守城の死を見送った日から、ずっと心を縛り付けられている。
ドウメキの手のひらが、タイランの手を握りしめる。飲み下せないほどの深い悲しみを必死に堪えるドウメキが縋るのは、今を生きるタイランだ。
「守城の運命の先を、お前は最初から知っていたのだろう」
「……それは」
タイランは、気づいてしまった。運命を繰り返す守城に寄り添うドウメキが、本当に恐れていることを。
なぜ頑なに山主から遠ざけようとするのか、その理由を。
「ドウメキ、おまえは……」
タイランが口を開いたその時、ひゅるりと猛禽の鳥のような声がした。言葉を遮るかのようなそれに、足元にいた喰録が羽を散らすようにして本性を現す。
黒く大きな体は飛び上がるように屋根へと乗り移る。市井は突如として現れた喰録の姿を前に、戸惑うようなどよめきが起こった。
「岩屋戸の方角へ……九魄が向かった」
喰録は、屋根の上から二人を見下ろすようにして宣った。一瞬にして張り詰めた空気がその場を支配する。
タイランは握り返したドウメキの手を額に当てるようにして瞼を閉じる。何かを決意するかのような、それでいて祈るかのような仕草にも似ていた。
怖じるな。
それは、己に向けたものだ。そして、ドウメキへと向けたもの。
ドウメキの手を取り、喰録を見上げる。妖魔しかりとした恐ろしい顔が、固い意志を宿したタイランを見て満足げに口元を釣り上げた。
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