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 五月十日。遮光カーテンから差し込む陽光――は無く、時間外れの街灯の明かりとそれに照らされて透明性を失い篠突く雨が、真っ先に目に入って来る。そして曇天、灰色の壁が広がる空を遮る。


どうやら昨日の夜から雨自体は降っていたようだが、絵を描くことに集中しすぎて気付いていなかったようだ。そして机に突っ伏したまま眠ってしまったからだろうか、立ち上がってみると腰と腕に鈍い痛みが走る。大きな伸びをして身体をほぐしながら時計を見れば、なんと早朝六時。目覚まし時計のアラームをセットせず、これだけ早起きしたのはいつぶりだろうか。


 そんなことを考えながらもう一度椅子に座り、机に向かえば、完成した絵が二枚、並んで置かれている。眠りから覚めたばかりの新鮮な思考状態で見ても、それらが同一人物でありながら全く違う道へと進むものであると理解出来る。……いや、理解出来るのではなく、そういう運命を感じるようなものに近い。


赤黒くも生きる俺と、青く透き通って死んでいる海歌。思わず、一つの答えに辿り着く。死者は不変で、戻ることもなく、固定されたある種の美しさを持つ。生者は移り変わり、過去に思いを馳せ、未来に向かって醜く足掻き苦しむ。


自身は生きる身である。そして死者とは本来二度と逢うことのないはずの者だった。俺も海歌も、一般的な道から外れ、こうして数奇な運命の中、出逢うことが出来たのだ。しかしそれも、もう閉じようとしている……




「俺が出来るのは――」




 ――運命を、全うすること。


海歌の望んだことを叶えるのだ。決して蘇ることのない、静かに消えゆくだけの彼女がこの世に遺した最後の願いを、他の誰でもない俺が叶えるのだ。それが、別れを望まない俺であったとしても。












         ***












「行ってきます」




 誰もいない部屋に向けて外出の意を口にする。しーんと静まり返った部屋から当然返事はなく、それに一抹の寂しさを覚えながらも、玄関扉を閉じ、鍵を閉める。


朝食を食べ終えた後、この雨模様の一日に何故か散歩に行きたくなった。ここ最近に起こった出来事から少しばかり逃げたかった、というものもあるだろうが、それよりも俺は散歩が好きなのである。


階段を降りて見れば、先ほどよりは弱まったにしても、依然として降り続く雨が、視界と聴覚を支配する。雨特有の匂いも、これから散歩に出ようとする俺を足止めする。しかし傘をさし、ピチャピチャと地面とスニーカーの間で鳴る水音を奏でながら歩き出した。目的地はない。ただ、行ったことのない場所へと目的もなく歩き出した。


 大学の敷地内を抜け、坂を下り、駅舎を横切って普段行かない道を行く。青々と茂る草木を風が撫でて、やがて風は身体を貫き、すぐに遠く遠くへと進んでいった。


滅多に行かないスーパーやコインランドリーも通り過ぎ、恐らく入学当初に散歩として来た時以来通る道の、その先へと歩み出す。ここから先は大学前駅の隣駅に位置する場所である。


散歩が好き、それは確かにそうだが、基本的に短く近場を歩くことが好きであり、こうして数キロ先まで歩くという散歩はそこまで好きではない。さらにこの雨模様。路面は少ない光を反射し、いつもよりピカピカしているような、散歩日和ではないこの日に、少し遠出の散歩。普段ならばこんな日に出ることはないのだが――今日に限っては歩きたい気分だった。いつもより遠く、よくは知らない道を――。


さらに駅舎を通り過ぎて、なお歩く。やがて普段では目にすることのない風景となり、少しの緊張感と少年心が湧き上がってくる。言ってしまえばこれは、一種の冒険だ。それはまた、一種の逃避を意味しているのかも知れないが。


こうして遠出の散歩をしているのも、きっと今、あの部屋から逃げたかったのもあるのだろう。ウミカと出逢い、過去を変え、そして海歌との再会の後、来たる運命的な別れ。前日描いた、二人で一つの『絵』。これらの始まりを持つ、あの浴槽を抱えた自宅からの逃避行なのだ、きっと。


 そうして思いふけり、混在する別れへの拒絶と受容との矛盾に対する答えを探していると、いつの間にか、隣駅のさらにとなり。つまり二駅分も歩いていた。雨は依然として降り続いており、ひとまずの休憩として駅舎の屋根へと入って、傘につく雨水を振り落とした。




「まだ止みそうにないな」




 ポツリと呟く。帰る時に厄介な存在となるであろう雨を睨み、誰もいない駅舎のベンチに腰掛ける。傘を乱雑にベンチへと投げ、深いため息と共に手を組んで、前かがみのまま床を見る。


駅舎の屋根に打ちつける雨粒は数多く、静けさだけが取り柄の寂れた駅舎を、水と風の音楽隊が涼しげな音を激しく奏でる。存外、心地の良いものである。そんな中、身体の休息はとりつつも脳だけはその休息を拒否し、また考える。


 俺は別れを恐れている。きっと、今まで失うだけであった人生がなんの因果か、その運命が好転してしまったお陰で、たった一つの、大切になってしまった存在を唯一失うことに恐怖しているのだ。


しかし、それこそ海歌の願い。どう受け入れなければならないのか。どう見送ることが出来るのか。――いや、見送る資格も、その度胸も備わっていない、今も小さな子供のような俺が、覚悟なんてあるはずないのだが――それでも。



 

迎える運命に対して、俺に出来ることは。




 ベンチから立ち上がって投げ捨てた傘を拾い、無数の水滴を空中に飛び散らせて、再び歩き出す。


向かう先は決めていないからこその冒険心。雨足はいっそう強くなっていたが、なぜか嫌な気はしなかった。雨に慣れたからだろうか?


なだらかな坂を登ったり下ったり……そうして見つけた散歩の中継点は――ある寂れた、小さな神社だった――。木の葉が集まって出来たトンネルの下にある石階段の右端を通り、小さな社を眼前に置く。賽銭箱すら付いていない、まさに放置された状態の小さな神社は、来ぬ誰かを待っているような佇まいである。


 木の葉の屋根のお陰で雨風を凌げるようになっており、傘をたたみ、地面に置く。そして社へと向き直って、二礼、二拍手――手を合わせたまま目を閉じ、今なお混濁とする願いを、合わせた手のひらの間を通るよう、真っ直ぐにして祈る――。




 誰かに祈りを、願いを捧げる立場でもない俺。


 そんな俺でももし、願うことが許されるなら、どうか――


 どうか、俺の海歌を――




「――お主の願いは聞いとらんよー」


「……え?」




 閉じていた瞼を上げるとそこには、ボロ切れを纏い、長い長い顎髭を蓄えた翁がいた。眼前で杖をつきながら、こちらをにんまりと覗き込んでいる。その姿はさながら、神様である。




「そうじゃよ、わしは神様で合っとる」


「え、あ……」




 俺が思っていたことを、読み取ってる……?またもその翁はにんまりと笑い、頬の皺を何重にも動かして目を細めながら言う。




「そうじゃ。お主の考えていることなど、わしには筒抜けじゃ」


「……あんたは、やっぱりここの、神様……なのか?」




 地面に杖を一突きし、その言葉を待っていたかのように答える。




「いかにも!わしはこの寂れたちぃさなちぃさな社に住む神様じゃ。……しかし。ちぃ~っとばかし、お主が想像しとる神様とは違うがの」


「……少し、違う?」


「お主、先ほどわしに願ったなぁ……じゃがな、わしは人の願いを、おいそれと叶える者じゃあない」




 翁はまたも杖を突き、一呼吸置いたのち、続く言葉を言う。




「わしは特定の条件を満たした死者の願いを叶える神。だから、お主のその願いは聞き入れんよ~」


「……」




 唖然とした。口をあんぐり、目をぱちくり。そんな神様も、この日本には居るというのか。




「それにお主……お主はここに来る前からずぅーーーっと、知っておる。……海歌さんや、元気そうかの?」


「っ!?どうして、海歌のことを……」




 突然の、海歌の名前。一歩、また一歩と下がろうとした、が――身体は硬直し、まるでその場に固定されているかのように動くことはなかった。その横をゆっくりと、杖を突きながら翁は歩いてゆく。そして俺の背後で翁は確かに、海歌の名とともに、見えずとも分かる不敵な笑みで、こう答えた。




「なんせ、お主の過去改変そして、海歌さんやの願いを叶えているのは、わしなんじゃから」

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