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四月二十三、朝。生憎の雨模様を意に介さず、心地よい目覚めによって心模様は快晴であった。ここまで気持ち良く新しい朝を迎えたことはない。
いつもと同じように朝食をとり、流れるままに画用紙と色鉛筆を準備する。ウミカと再度接触したことによって、『深層心理の投影』がより明確性を持ったからか、あれよあれよと手が走る。
しかしやはり何かが足りない。ウミカと思しきこの女性はほとんど完成と言って良いだろうが、もう一つ、二つ。明らかにパーツが足りないのだ。その何かはきっと、誰かが失ってしまった記憶が詰まっているはず……。
気づけば時刻は十時半過ぎ。俺は二限の講義に出るため、家を出た。
階段を降りて坂道に出る。折りたたみ傘を開いて歩いていると、見覚えのある人物が前を歩いていた。
「弘海さん、お疲れ様です」
「お、青人じゃん!今から講義?」
「そうなんですよ~。しかもここからニ、三、四、五限と連チャンです……」
「うわぁ……あ。そういえば今日、夜勤一緒じゃん。頑張ろうなー」
「げっ、忘れてた……」
傘をさしながら並んで、歩きながら会話をしていればあっという間に大学だ。それぞれ講義を受ける建物が違うため、会釈をして別れる。
目的の教室に入って適当な席に着く。講義の準備をしてから、おもむろにスマホを見る。……虹輝からの連絡はなし、か……。
あの後きちんとシャワーを浴びて、しかし虹輝に連絡することなく寝てしまった。あの夜は妙に疲れていたからだ。きっと、朝からウミカのことや虹輝のことを考えていたからだろう。
実は過去は変わっておらず、今までとなんら変わらなかったとしたら――黙考し、すぐにやめた。俺はこの時すでに、ウミカに魅せられた奇妙な提案の渦に飲み込まれていたのかも知れない。
若干の不安と、もし過去が変わっていなかったらという考えに対する、なんとも言えない絶望感に堪らず――気づけば白紙のルーズリーフに落書きを始めていた。
絵を描いていると心が落ち着く。今にも講義が始まろうとしているこの空間の緊張感とは裏腹に、どこか落ち着いた、半ばボーッとするような心持ちの俺の横に、誰かが座った気配がした。それは、虹輝だった。
席に着いて黙々と講義の準備をする虹輝。その表情はどこか気だるげで、時折あくびをしている。……これは、どっちだ?人知れず意を決し、虹輝に声をかける。
「お、おはよう」
すると虹輝は、今まで気だるげで眠そうな顔から一変し、目を見開いて、まるで声をかけた俺を異物のような目で見た。その間、体感十秒。……これは、本当にどっちだ?
「……お前って、挨拶出来るんだな。今までそんな声かけてきたことなかっただろ?」
「っ!!……まあ、な」
横の親友に見られないよう、小さくガッツポーズをする。その口調、対応、声音。間違いなく、あの日喧嘩別れする前の、『静波 虹輝』そのものだった。自然と口角が上がってしまう。なんだか胸から熱いものまで込み上げてきた。その俺の機微に気付いたのか、虹輝はギョッとして、小さい声量ながらも動揺するような声音で話しかけてきた。
「お前、泣いてんの!?」
「なっ、泣いて、ねぇし……」
「キッメェ……なんかあったら、話ぐらいは聞いてやるから、講義中に泣くのはやめろよなぁ」
「余計なお世話だっ……!」
それから講義を虹輝と受けていたが、自然と溢れる喜びのせいで、講義の中身はほとんど覚えていない。
***
二限が終わって昼休み。大学『一号館』の一階にあるテーブルスペースで、俺と虹輝は昼食をとっていた。この『一号館』にはコンビニが併設されており、そこで虹輝と昼食を買ってその席に着いた。昼食といっても、二つの菓子パンとウィダーゼリーという簡素なものだが。
向かい合って昼食を食べながら、互いの絵を見合って批評する。どうやらあの夜勤の時の一件以来、今まで互いの絵に意見は出さないという暗黙の了解を無くして、互いに意見を出すようになったらしい。もちろん、その記憶は俺にはない。
一通り意見を出し合い、ちょうど昼食も食べ終わってひと段落ついた頃。おもむろに虹輝が口を開く。
「俺は、自分のイラストをSNSに上げたりしてるの、お前は知ってるよな?」
「ん、前に言ってたアカウントのことか?」
「そうそう。実はそこでさ……『依頼』が最近来るようになってな。お前は、どう思う?」
虹輝と知り合ってそのアカウントのことを聞いた時からずっと追いかけてきた。コイツは知らないが、その時から匿名アカウントで良く反応もしている。それはなにより、俺がコイツの絵が好きだからだ。その絵の上手さはもちろん、自分の欲望と不特定多数のニーズを混ぜ合わせることに長けている虹輝の絵は、見ていて心地が良い。
ちょくちょく人気と知名度が出てきたコイツからその話が出てくるのは別に、不思議じゃない。驚くべきは、その話を俺にいま、相談していることだ。前ならこんなこと相談しなかったはずだが。
初めてのことに戸惑いながらも、きっと彼の一つの転機だということを感じ、しばらく黙考して微笑む。
「良いんじゃないか。なにより金を払ってまでお前の絵が良いと思ってくれたんだし。最終的に決めるのはお前だけど、俺は賛成、だな」
「そうか……なら、やってみようかな」
釈然としない顔はしているが、その瞳には何か熱のあるものが揺らいでいた。なんだかそれが微笑ましく、つい声を上げて笑ってしまった。
「……なんだよ。俺が真剣に悩んでたら可笑しいのか?」
「そうじゃねぇって!なんかこう、嬉しくて、さ」
「……ふぅ~ん。お前、素直に気持ちを言えたんだな」
「おい、どういう意味だそれ」
「なんでもねぇよ、天然ツンデレさん」
「俺はツンデレじゃねぇー!」
「はいはいわかった、分かった」
テーブルスペースで向かい合って戯れていると、チャイムが鳴る。時刻を確認して、二人慌てて席を立ち、一緒に受けている三限の講義へと走って向かった。
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