画面の中の奥の君

スライム系おじ

第1話

 人生という道の上で、おそらく就職というものは最大の分岐点なのだろう。と、大人であれば誰しもが言いそうな言葉を、社会人二年目となって、僕はようやく実感しはじめた。


 教職に就いて分かったことは、現実は漫画やドラマとは違う、ということだ。素行の悪い生徒と対峙して絆が芽生えたり、突拍子もない行動で学校を救ったりなど、そんなことは起こらない。起こる暇が、そもそもないのだ。


 激務に次ぐ、激務。それが高校教師の実態。


 まだ担任という立場にない僕ではあるが、それでも休みを削らなければならないほどの仕事量がある。


 まず、朝出勤してから数十分の間は、今日一日の予定を確認。そして、職員会議始まり、それが終わると同じ担当教科(僕の場合は生物)の先生同士の引継ぎが行われる。解放されて一人になると、一時限目の準備。器材や書類だけではなく、知識も用意しなければならない。ベテラン教師となればいちいち復習する必要ないのだろうけれど、僕のような新米の場合は、授業で行う部分の知識をもう一度頭に叩き込んでおく必要がある。教える側の人間が、『分からない』では、話にならない。


 だから僕の場合は、前日の夜の時間、つまりは帰宅してからの自由時間を使って、翌日の授業内容を勉強し直している。当然、給料など出るはずもない。


 一時限目の授業が終わっても、僕ら教師には、生徒たちのような休息は許されない。テストの採点、配布するプリントの準備、そして、二時限目の用意など、授業の合間にこなさなければならないことは山積みなのである。


 二年目となれば、更に業務が増える。


 息つく暇のない作業が終わると、部活の顧問をしている教師は、部活動に参加しなくてはならない。幸い、僕にはまだ請け負っている部活はないけれど、おそらく間も無く、なのだろう。


 放課後になって、僕は帰り支度を始める。大多数の教師が学校に残ったまま雑務を行っているけれど、僕は周囲に人がいる中でやるよりも、家で一人の方が落ち着く。プライベートと仕事を分けるためには、家に仕事を持ち込まない方が良い、なんて言うけれど、そもそも、プライベートと仕事の境界線など、既にない。強いて言うなら、食事と睡眠の時間がプライベートの時間と言えるだろうか。


「藤巻先生、今、帰りですか?」


 職員室で鞄に物を詰め込んでいる僕に声をかけて来たのは、二年先輩の男性教師だった。整ったルックスに、柔らかな声色。香水だろうか、彼が近づくと爽やかな香りが漂ってくる。女生徒から絶大な人気があるのが、男である僕でも納得できる。


「ええ。一人の方が仕事が捗るんで。永井先生は、残業ですか?」


 最低限のコミュニケーション。以前ならば、『ええ』の一言で逃げていたけれど、会話が苦手な僕だからこそ、社会に出てコミュニケーションの重要性は、痛いほど知った。


 人間なてもののほとんどは、会話もまともにしたことのない同組織の人間を助けようとはしない。傍観して、放置して、そして嘲笑う。


 この学校に来て、すぐに味わった。そんな半年間の地獄の中に再び放り込まれないためにも、社交辞令の会話は必要なのだ。


「俺はもう、今日の仕事は終わってますよ。サッカー部も休みなので、俺も今から帰るところです」


 イケメンで仕事が出来て、おまけに運動も出来る。


 人間を創った存在がもしいるとしたら、どうしてこんなにも人間の差を残酷なほどに大きくしたのだろう。イケメンじゃないし、仕事も要領も悪いし、運動音痴。彼が誇りにすら思っていないその内のどれか一つが、もし僕にあったとしたらそれは、僕の一生の誇りになることだろう。


「久しぶりに早く帰れるので、飲みにでも行こうと思っているですが、藤巻先生ももし時間があれば、一緒にどうです?」


 屈託のない笑顔で、彼は言う。僕は……どんな顔をしている?


「すごく嬉しいお誘いなんですけど、すいません。まだやらないといけない仕事が残っていて」


「そうですか。可愛い女の子がいるお店、でもだめですか?」


「…………仕事がない時に、お願いします」


 永井先生は笑いながら「分かりました」と一言だけ言って、自分の席へと戻り帰り支度を始めた。


 仕事が残っていることは事実だけれど、心情としては、面倒事を回避できた安堵感の方が大きい。永井先生の一言だけの言葉が、なんとなくそれを見抜いているような気がして、職員室を出るまで僕は、もう一度彼の方に目を向けることが出来なかった。


 廊下を歩いていると、幾人もの生徒とすれ違う。僕はその度、小さな声で「さようなら」と告げる。声が届ているのかいないのか、返事をしてくれる生徒は一人もいなかった。まるで、一人で呟いているかのよう。だとしたら、僕は一体何に向けて別れの言葉を告げているのだろう。


 昇降口に向かう途中で、僕は一つの教室の前で足を止めた。扉の上部にあるプレートには『二―四』と書かれている。今日の一時限目に、僕が授業を行った教室だ。


 教室から聞こえてくる、複数の声。それらは全て女性のようで、一つだけ、妙に掠れていた。泣き声のような、呻き声のような。

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