リリィ・スミスについての調査報告書

卯月 朔々

第一章 潜入編

1. 潜入(1)



 

 ここは南洋の島、ポータラカ。

 地図からは消され、存在を秘匿された島。

 この島にあるのは、青い海。白く細かい砂の浜辺。降り注ぐ陽射し。――そしてカジノ街。


 この島には、元から住んでいるアジア系住民と、観光に訪れる外国人観光客が入り混じる。

 

 この島は、マウナという地区にあるカジノが有名で、そこから「カジノ島」とも呼ばれている。

 この島は、各国が所有権を巡り協議しているが、全く進展せず、どこにも属さない状態が半世紀ほど続いていた。

 

 この島では、いろいろな事情のある人間たちが、集まっては離れていく。



 

          *


 

 島は大して広くないので、バイクや自転車があれば、だいたい用事は済む。

 荷物が多い時は仕方なく車を使うのだが、法律も交通ルールも存在しない街なので、渋滞は日常茶飯事だ。


 自転車で、灯台がある高台の麓までやってきた青年は、自転車に括り付けたドリンクホルダーから飲み物を手に取った。

 

 背が高く、痩せ型でひょろっとした立ち姿。厚めのレンズが嵌った眼鏡をかけ、目元を隠すほど伸びた前髪を面倒臭そうに手で掻き分ける。

 上り坂を自転車で来たからか、青年はTシャツの襟元を摘み、ぱたぱたとさせて体に空気を当てようとする。


「レオン・リー」

 どこからともなく、声をかけられる。

 青年がビクッと体を揺らすと、青年の背後から、フードを被った白いパーカーの人間が現れた。

「はい、どうも」

 レオン・リーと呼ばれた青年は、白いフードの相手に向かって頷く。

「お手紙です」

 白いフードの相手は、大事そうに両手で持った白い封筒の手紙を差し出してきた。

「ありがとう」

 レオン・リーはそれを確かに受け取る。

「新入り?」

 レオン・リーは、白いフードの相手が踵を返した瞬間、声をかけた。

 白いフードの相手は、ピタッと動きを止めて、ゆっくりと振り返る。

「はい。一週間前から」

 白いフードの相手はそう答える。声は男にしては高いが、女にしては低い。

「ボスの指令、無茶振り多いから大変だろうけど、頑張ってね」

 レオン・リーはにこっと微笑みかけた。

「あ、ありがとうございます」

 笑いかけられたのが意外だったのか、白いフードの相手は少し戸惑った素振りで返事をし、その場を足早に去って行く。

 その後ろ姿を見送って、レオン・リーは手にした封筒を、指で雑に開ける。

 

「さて」

 中身の便箋を取り出し、その中に書かれていた内容を目で追う。

 

 手紙の内容を読み終わると、こうしてボスの指令が届いた時のために常備しているライターで、手紙を燃やした。

「……ボス、さすがに無茶振りすぎんだろ」

 灰になった手紙を見つめながら、眉を顰めてぼそりと呟く。



 

 


 『親愛なるレオン・リー


 至急案件。

 リリィ・スミスの世話役が辞めたので、「愛と平和」が代わりの人材を探しているとの情報を手に入れた。

 レオンには、ぜひこのチャンスを活かして、リリィ・スミスの世話役として、「愛と平和」に潜入してほしい。

 まず第一目標は、リリィ・スミスの抹殺だ。

 幸運を祈る。


 あと、この前のミッションの経費申請だが、何件か差し戻しがあったので、再度提出書類を揃えるように。申請差し戻しのリストを添付しておく。確認願う。


               ボスより』


 

 


          *




 ポータラカ島は、どこの国のものではない。

 

 通貨は、各国のものがそれぞれのレートで使用できる。

 そのシステムが存在しているのは、各国からポータラカ島へ進出してきた犯罪組織が、ネットワークを作り上げたからだった。

 

 もともとその土地にいた人間、外からやってきた人間。

 彼らが持つ金を動かすには、どこでも種類を問わず金を使えるようにしなければならない。

 各国の通貨が、価値を落とさずに使用できる経済を作るために、公的機関が存在しないこの島で機能したのは、裏社会の面々だった。

 

 そのような経緯から、この島の裏社会には、いくつもの犯罪組織が根を張って活動している。

 

 最も構成員が多い犯罪組織「愛と平和」。ポータラカ島にもともと住む住民たちが立ち上げた、アジア系の組織である。


 二番目に構成員が多いのが「黒山羊くろやぎ」。ヨーロッパ系の組織だ。

 そしてレオン・リーは、この「黒山羊」に所属している。

 

 レオン・リーの組織での仕事は「何でも屋」。

 格闘や戦闘は得意でないので、そういうこと以外なら何でもやる。だから何でも屋。



 

          *


 

 

 雑居ビルの2階、お世辞にも綺麗とは言えない古びたオフィスの一角。

 ここは「愛と平和」が堂々と名前を出して事務所を構えている。

 レオン・リーは「潜入せよ」とボスの指令を受け、足を運んだのだ。


 

「困るんだよなぁ、いきなり来られて、仲間に入れてくれって言われてもよぉ」

 どこからどう見ても堅気には見えない、室内なのにサングラスをかけた大柄な男が、腕組みをしながらソファに座っている。

 

「お前、何が得意だ? 腕っぷしは期待できそうにねぇな? あれか、ハッカーみたいなヤツか? 俺、そういうのはよくわかんねぇけど」

 見た目のイメージ通り、酒やけしたのか、ガラガラの野太い声で、男は喋る。

 

「家事が得意です」

 向かい側のソファに座っていたレオン・リーは、着慣れないスーツを着込んで、堂々と答えた。

 

「はぁん?」

 何を言っているのだ、と目の前の男が怒り出しそうな空気が一気に漂ったが、レオン・リーは気にしない。

 

「家事が、とっても得意です!」

 はっきりと、堂々と胸を張って、レオン・リーは言う。


 

          *



「というわけで、先ほど電話でお話ししたのが、こいつのことで」

 サングラスを外しながら、ガラの悪い大柄な男は、隣にいるレオン・リーの背中をばんと叩く。

 

「愛と平和」うちに入りたいって、急にドア叩いてきて、家事できますって言ってきたんで、試しに事務所の掃除させたら、随分と綺麗になりまして、家事は本当にできそうなんで」

 

 ここは、この男がいた事務所よりも遥かに綺麗な室内。

 海が一望できるオフィスは、開放感に溢れている。

 毛足の長い赤い絨毯が敷かれ、窓辺にはヴィンテージ品らしいデスクとチェアが置かれていた。

 

 レオン・リーと、その隣にいる大柄な男の視線は、チェアから小刻みに震えながらゆっくり立ち上がる、背中が丸まっていた老人に注がれていた。

 

 杖をついて、ゆっくり歩を進める老人。額がだいぶ露出しており、白い髪が後頭部にふんわりある程度。しかし、髭はたっぷりと口の周りを覆っていた。

 垂れ下がった瞼に隠れた瞳。ほとんど虹彩は見えない。

 老人はポロシャツにハーフパンツ姿で、レオン・リーや隣の大柄な男と比べ、かなりラフな装いだった。

 

「君、お名前は?」

 レオン・リーの前まで来て、足を止めると下から覗き込むようにして、老人は尋ねる。穏やかな口ぶりだった。

 

「レオンです」

 相手の歳を考えたレオン・リーは、気持ち声を張り上げ、ゆっくりめに発音して答えた。


 老人は首を傾げる。

 伝わっていないようなリアクションに、もう一度名乗ろうとしたのを、隣にいた男に肩を掴まれて止められる。

 この老人には、あまりしつこく話しかけてはならないようだ。

 

「こいつ、あの女の世話役にはちょうどいいかもしれないと思いまして」

 レオン・リーの隣にいる男は愛想笑いを浮かべて、老人に言う。

 

「そうかい、そうかい」

 老人は、大袈裟と思うほど大きく頷いてみせる。

「うん、うん」

 不意に伸びてきた老人の手は、レオン・リーの頭を撫でてくる。

 まるで子供にやるような仕草に、思わずその手から逃げたくなったが、グッと堪えた。

 

「とてもびっくりするかもしれないけど、頑張ってくれるとありがたいな」

 にこにこと朗らかに、老人はレオン・リーの頭を撫でながら言う。

「お世話係の子がね、すぐ辞めちゃって困っていたところでね、お試しだけど、ぜひやってみてほしいんだ」

 老人はそう言い終えると、レオン・リーの頭から手を離す。

 レオン・リーは、この屈辱的な頭撫でからやっと解放されたと思い、小さく息を吐く。

 

「とてもびっくりするかもしれないけど」

 レオン・リーの溜め息に気づいたのか、気づいていないのか、老人の手はまた頭を撫で、念押しするように言ってくる。

 

「……が、頑張ります」

 ただの好々爺のような立ち振る舞いながら、この老人は人の隙を見逃さない。なんとなくだが、そう思った。

 

「うんうん、ありがとう」

 髪がボサボサになるくらいの勢いで、老人はレオン・リーの頭を撫で続けている。

わしのことは先生と呼んでおくれ。みんなそう呼ぶ」

 

 先生。

 

 この島で最大勢力を誇る犯罪組織「愛と平和」を一代で築き上げた、その男。

 今の見た目は、歳相応に動作が少し遅くなった老人でしかない。

 

 だが、レオン・リーが聞いた噂では、この老人は今でも、自分に逆らう者は全員墓場へ送り、隆盛を誇っているのだという。

 それができる配下を従え、意のままに動かすことができる存在だと。

 


 

          *



 

 レオン・リーが乗る車は、「愛と平和」が一棟借り上げているアパートメントに向かっていた。


 そのアパートメントまで案内するのも、レオン・リーを「先生」のもとへ連れていった、あの大柄な男だった。

 

「いきなり先生に会えるなんて、お前ラッキーだなぁ」

 車を運転しながら、こよ大柄な男は心なしか、はしゃいでいた。

 この男はおそらく、「先生」に会うことがそう多くないのだろう。

 図体は大きいのに、身のこなしや喋り方に、重厚さのかけらもない。


「あ、まだ名乗ってなかったな! 俺の名前はジェットだ。うちの組織じゃ幹部クラスの男。すげぇだろ」

「はは、すごーい」

「あん?」

 レオン・リーが適当に受け流すような返事をしたために、ジェットはイラっとした顔をする。


「あの女、ってどういう人なんですかぁ?」

 不穏な空気を漂わせるジェットの気を逸らすために、話を強引に変える。

 

「あぁ……あの女はな、殺し屋としては優秀なんだ。8歳の頃から殺しを専業にしてる、冷酷無慈悲なヤツで」

 このジェットという男、語尾を「〜で」で終わらす癖がある。気になる人は気になる喋り方で、実際、レオン・リーは気になって仕方ない。

「だがな、他のことはからきしダメで。まぁ、見りゃわかる」

 ジェットは車を停め、降りる。レオン・リーも降りた。

 

 レオン・リーが見上げたアパートメントは、少し古い様式の建築だった。壁は塗り替えたばかりなのか、白さが際立っている。

 居住人はさほど多くないのか、ベランダに干されている洗濯物がある部屋、もしくはエアコンが稼働しているような部屋は、片手で借りる。

 

 建物名は「アパートメント・白鳥ホワイトスワン」。

 

 最上階のある一室が、他の部屋とは一線を画した異質さを醸し出しているのがわかる。

 ベランダにぎゅう詰めにされた、ゴミの山。

 そのベランダに出しっぱなしにされた洗濯ピンチは、長らく使われてないようで、すっかり色褪せている。


 まさか、と思い、レオン・リーはその部屋を無言で指差す。ジェットはニコッと笑い、頷いた。

 レオン・リーはその瞬間、「ここから逃げ出したい」と心から願った。逃げなかったが。


 アパートメントにあるエレベーターに乗り込んだ時、ジェットが行き先階ボタンを押すのを凝視しながら、どうか最上階を押すな、と祈った。

 だが無情にも、ジェットが押したのは最上階のボタンだった。


 エレベーターのドアが開くなり、廊下の突き当たりにゴミ袋が山積みになっているのが見えた。

 レオン・リーには、嫌な予感しかない。

 

 言うまでもなく、ジェットが真っ直ぐ突き進んでいったのは、廊下の突き当たりの部屋だった。

 

 ジェットがインターフォンを連打し、しつこいくらいドアを叩くが、返事はなかった。

 舌打ちしたジェットは、ボトムスのポケットから鍵の束を取り出し、その一つを鍵穴に挿し込む。

 

「おーい開けるぞー!」

 ジェットが扉を開けた瞬間、ジェットとレオン・リーの視界が一瞬閉ざされる。

 ドアに押さえられていたゴミ袋が、開けられたことによって崩壊してきたのだ。

 

「なんですか、このゴミ屋敷」

 レオン・リーは、顔にぶつかってきたゴミ袋を廊下に置く。

 廊下の端に放置されたゴミ袋はきっと、こうやって溢れてきたものを退かした結果なのだろう。

 

「ゴミ屋敷じゃねぇよ。ここがリリィの部屋」

 ジェットは、廊下へ雪崩れ込もうとする玄関内のゴミ袋を、室内に向けて蹴り飛ばす。

 おそるおそる覗き込んだ室内は、床が見えないほどゴミやゴミ袋に埋め尽くされていた。

 

「足の踏み場もないけど?」

 レオン・リーは室内を指差し、ジェットに惨状を訴える。

 

「ここに足の踏み場を作るのが、お前の仕事ってことで」

 ジェットはにこやかに笑い、レオン・リーの肩をぽんと叩く。

 

「え、これ手伝っ」「悪ぃな、俺は忙しいから」

 レオン・リーの言葉を遮ると、ジェットは図体に見合わないほど機敏な動きで、エレベーターに向かってダッシュした。

 フロアに停まっていたエレベーターはボタンを押されるとすぐ開き、ジェットだけを乗せて降りて行ってしまう。

 レオン・リーは、それを見送るしかなかった。


 

          *

 

 

 袋に入ったゴミもあれば、そのまま打ち捨てられているゴミもある。

 部屋に踏み入ったレオン・リーは、玄関から居室に繋がる廊下だった場所で、ゴミに突っかかり、派手に転げた。

 転げた先にもゴミがあり、ゴミがクッションになって、衝撃は和らいだ。

 だが、押し潰したゴミからえた臭いがする。

 

「なんでこんな部屋で暮らせるんだ」

 かけていた眼鏡が、転んだ拍子に吹き飛ばされてしまい、明瞭ではない視界の中、手を伸ばして眼鏡を探す。


 レオン・リーが落とした眼鏡を手にした人物が、部屋の中から――厳密にはゴミ袋の山の隙間から、のっそり現れる。

 

「あれぇ」

 気の抜けた、女の声。

 窓から陽射しが入り、レオン・リーから見ると逆光になっていた。

 

「あぁ、新しいお世話係の人かぁ」

 裸眼のぼやけた視界の中で、はっきりわかるのは、背丈はレオン・リーより20cmは低いことと、髪の長さはショートに近いボブヘアであること。

 

「え、うっそ」

 レオン・リーの目の前に屈み込んだ、その人物はレオン・リーの顔を覗き込んで、驚いた声を上げる。

 

「わわ、おにーさん、ライルに似てるぅ!」

 ほわほわと、足が浮いているよう声音は、どうにも緊迫感がない。

 

「ライル?」

 話の流れから、「ライル」は人名なのだろうと思った。

 

「ほらこの、天からの贈り物みたいな佇まいの、涼しいお顔をしたビジュアル百点満点ボーイ」

 レオン・リーの目の前にいる人物は、スマートフォンのケースを見せる。スマートフォンの画面ではなく、ケースを。


 レオン・リーが見たものは、長めの青い髪を靡かせる、いかにもクールそうな顔をした、青い目のキャラクターの姿だった。

 

 デフォルメされた絵柄で、そのキャラクターがケースいっぱいに描かれている。

 

「1ミリも似てない」

 レオン・リーは、髪も目も青くない。なんなら、そこまでクールな顔立ちとも言えない。

 

「もちろん別物だけど! ちょっと歳取って生活にくたびれたライルみたいな雰囲気あるよ」

「眼科行け」

「きゃあぁぁぁ! その毒舌っぷりもライルっぽい!」

 目の前の人物は、片手にレオン・リーの眼鏡、もう片方の手にスマートフォンを持ったまま、うっとりとした声を漏らした。

 ほわほわとしたトーンで、わけのわからない話をマシンガンのように畳み掛けてこられ、レオン・リーは思わず舌打ちしてしまう。

 

 要領得ない話をされていることにも苛立つし、はっきりしない視界にも苛ついていた。

 

「ちょっと、このポーズしてみて! このポスターと同じポーズ!」

 ふわふわ喋る人物は、ゴミ山の中でも綺麗な上辺に置いてあったポスターを見せ、はしゃいでいる。

 

「眼鏡……」

 レオン・リーは苛立った顔を露骨にし、ゆらりと立ち上がった。

 

「ほあぁぁ! いいねいいね! 10年後くらいのライルっぽい雰囲気してるぅぅ」

 レオン・リーが眼鏡を求め、目の前の人物に向かって手を差し出す姿は、奇しくもポスターに描かれた「ライル」の構図と一致していた。

 

「眼鏡返せ……」

「あっごめん!」

 目を見開いて、眼鏡を返せと言ったレオン・リーのただならぬ雰囲気に、ふわふわ喋っていた人物は慌てた様子で眼鏡を渡してきた。

 眼鏡をかけ、やっとクリアになった視界で改めて目の前の人物を見る。


 長いまつ毛に縁取られた右目はブルー、左目は茶色と緑が複雑に混じるヘーゼル色。オッドアイだ。

 右サイドの髪の方が長い、アシンメトリーなボブカット。

 その髪色は、白味の強いブロンドにピンクが混ざったような、独特な色をしている。

 目が大きいが、鼻や唇は小さい。両耳にはピアスが五、六個ついている。

 150cmそこらの背丈、細くて華奢な手足。

 

 襟元が伸び切って、プリントされていた柄が剥げたオーバーサイズのTシャツ。毛玉ができたルームウェアのボトムス。

 


 ――これが、「愛と平和」で、最も人を殺してきた殺し屋・リリィだと?


 

 特徴的すぎる外見に、喋る言葉は十代半ばにしか見えない幼さ。

 想像とあまりに違う人物が、レオン・リーの目の前にいる。


 想像とは違う殺し屋・リリィの姿に、見渡す限りのゴミ。

 この部屋は、情報量が多すぎた。

 

「今日からは、俺がガンガンこの部屋の片付けをする!」

 今の自分は世話係として潜入しているのだ、となんとか気を取り直し、目の前にいるリリィに声をかける。


 


          *

 


「終わらない。無理だ、これ」

 玄関の外にゴミ袋を放り出しながら、レオン・リーはげっそりと呟いた。

 

 アパートメントの廊下の端に、要塞の如く積み上がったこのゴミ袋を、ゴミ捨て場に輸送することを考えると、より一層、苦悩は深くなる。

 

 玄関から居室に向かうルートは、やっと床面が見えてきたところだった。

 だが居室では、リリィがゴミ袋の一つを開けて中身を確認している。

 

「ちょっと待て! 片付けたそばから散らかしてんじゃないよ!」

「えぇぇ?」

 リリィは袋の中から見つけた、未使用品らしき鍋を、怒鳴りつけたレオン・リーに見せる。

 

「だってこれ、まだ使うかもしれないよ?」

「まだ使うかもしれないって残しておいて、使ったことあった?

 このゴミ山の中から、見つけたことがあった?

 この半年で、このゴミ山から何かを探し出して使ったことが、一度でもあった?」

「うぅ……ないですぅぅぅ」

 終わらない片付けに駆り出されているレオン・リーの指摘に、リリィはコテンパンに言い負かされる。


 ぶつくさ言いながら、レオン・リーは壁際に積まれたゴミ袋を何袋も持って、玄関へ向かおうとする。

 だが、その顔の真横めがけ、ナイフが飛んできた。

 

「なっ」

 ナイフを投げたのは、言うまでもなくリリィだ。慌てて振り向くと、リリィは顔の前で両手を合わせ、申し訳なさそうにしている。

 

「ごめん! 名前を出さない方がいい虫が、そこにいたから」

 たしかに、レオンの顔の真横には、壁に刺さったナイフに貫かれた、とある虫の姿があった。

 

「ホント、だ……」

 やたら動きの速いこの虫を、正確に捕らえるナイフ投げの素早さもそうだが、この状態でも手足をバタつかせている虫の生命力にも驚く。

 

「ジェットさんから聞いてると思うけど、私、殺し屋なのね」

 リリィは、ゴミ袋に入っていないゴミを、手にしたゴミ袋に放り込みながら言う。

 それは穏やかな声音で、発せられた言葉とのギャップに風邪をひきそうだ。

 

「本当はね、そういう仕事してる人は、定期的にお引越しした方がいいって言うんだけど、お部屋のお掃除してからじゃないとダメって、先生に怒られちゃって」

 リリィは困った顔で笑っている。

 

「だろうね。これじゃ、現状復帰できるか怪しいレベル」

 対してレオン・リーは眉間に皺を寄せ、部屋全体を眺めた。

 俯瞰で部屋を見ていくうち、レオン・リーは、ゴミで埋め尽くされたベランダに目を留め、窓に向かおうとする。

 

「ダメ」

 首根っこを掴まれた、と思えば、易々と部屋の真ん中まで放り投げられていた。

 

「あんまり窓際行かないで」

 話すスピードと、声のトーンが変わる。リリィが纏う空気が、一気にピリッと張り詰めた。

 

「ごめんね。怖がらせたいわけじゃないの。

 私、「黒山羊」の狙撃手スナイパーとかに狙われてるから、窓辺は危ないって言いたかったんだけど、怖かったよね? ごめんね」

 床にへたり込んだか形のレオン・リーのもとに、リリィが寄ってくる。

 窓からの陽射しを背に、逆光の中、リリィはふわふわした喋り方で話しかけてきたが、取り繕っているようにしか見えなかった。

 

「……だい、じょうぶ」

 リリィの口から「黒山羊」という名前が出て、嫌な汗がレオン・リーの背中を伝った。

 

 リリィの言葉に焦りつつも、脳裏の片隅では、今後どうやってベランダを掃除すればいいのだと考えていた自分がいて、レオン・リーは溜め息をつく。

 これは、自分への溜め息だ。

 

 狙撃手がいるなんて、ボスの指令には一言も書かれていなかった。

 ボス宛てにクレームをつけよう、と固く誓う。

 

「狙撃手なんて聞くと、みんな驚いて逃げちゃうんだけど、あなたは逃げないんだね」

 ふふっ、と笑い声を漏らし、リリィは明るく言った。

 その瞬間、自分が「黒山羊」の仲間、もしくはその筋の人間だと、いよいよバレたか――とレオン・リーは息を呑む。


「これからよろしくね、お世話係さん」

 リリィが何を思っているか、わからない。だが、今リリィは、レオン・リーに微笑みかけ、嬉しそうにしている。

 

「……はい」

 敵に潜入するということは、自分が、敵の内側から喰い千切るチャンスを作ること。

 だが、その逆もある。そうなる可能性の方が高い。

 口に溜まった唾を飲み込み、レオン・リーは答えた。


 

  

         *


 

「レオン・リー」

 無地の白いTシャツを着た中年の男が、灯台の麓のベンチに座っていたレオン・リーに声をかけた。

 レオン・リーはベンチに座ったまま、ひらひらと右手を挙げる。その手には、白い封筒がある。

 

「お疲れ。これをボスに」

 少し距離を取って立っている男に、レオン・リーは封筒を差し出す。

 その封筒を受け取ると、白いTシャツの男は苦笑いを浮かべる。

「死んだような目、してますけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃない。今までとは異次元のつらさ」

 レオン・リーは、ほぼ徹夜でリリィの部屋のゴミ袋を片付けた。

 そして、このベンチに来るまでに、ホームセンターで掃除に必要なものを見て回っていた。


「頑張ってくださいね、応援してますから」

 白いTシャツの男は、身につけていたウェストポーチから、エナジードリンクを一本出し、レオン・リーに渡す。

「ありがと。優しさが身に染みる」

「では、確かに」

 笑顔を見せた白いTシャツの男は会釈し、踵を返していく。



 白い服を着てレオン・リーの前に現れる、彼らは『白山羊しろやぎ』。

 

 レオン・リーが所属する組織『黒山羊』の協力者であって、手下ではない。

 各々がボランティアで、『黒山羊』のボスからの指令を、『黒山羊』のメンバーへ人力で運んでいる。

 また、『黒山羊』のメンバーからボスへ連絡をしたい時も、このように『白山羊』を使っている。

 

 

 

           *


 


『親愛なるボス


 潜入1日目の報告、及び連絡事項。


 私レオン・リーは、本日よりリリィ・スミスの世話役として潜入することとなった。

 リリィ・スミスは「愛と平和」が借り上げている物件の一部屋に住んでおり、一人暮らしである。

 その生活は荒みきっており、ゴミが部屋中を埋め尽くし、足の踏み場もなかった。

 ゴミの隙間の中で寝ているリリィ・スミスは、すぐに抹殺できると思ったが、さすがに初日で行動を起こすのは時期尚早と判断。

 暗殺のタイミングについては、今後また相談要。

 

 本日は、居室内のゴミ片付けのみで終わった。明日より本格的な清掃に取り掛かる予定。

 なお、数日中にベランダ清掃を実施したいため、配置している狙撃班は一時撤退、もしくはベランダ清掃時のみ狙撃中止などの対応を求める。

 

 また、リリィ・スミス宅には掃除道具一式がなく、それらの購入が必要と判断した。

 ホームセンターにて価格調査したものをリストアップしたので、購入代金の経費申請をしたい。

 

レオン・リーより』




          *

 


 

「おいおい、内容の半分が掃除の話になってるってば。

 えぇぇ? 掃除道具買い出しリスト、こんなに?」

 便箋三枚、うち二枚は、掃除に必要な道具の購入リストだった。

「まぁいいや。ベランダ掃除やってる時は狙撃しないように、って言わなきゃね」


 レオン・リーの手紙を読み終わると、掃除道具リストではない、報告書の一枚だけ、オイルライターで火をつける。


 燃え尽きる寸前で、火のついた便箋を、水が入っていたグラスに落とす。

 その燃え滓を見つめる、青い目。


 赤いジャケットに白のボウタイブラウス。黒いスラックスに黒いピンヒール。右足首にはゴールドのアンクレット。

 胸元辺りまで伸びた茶色い髪を一つに結い、青い目の周りには少し皺が見える。

 

 彼女の名は、アマンダ・グレース。

 この人物こそが、レオン・リーの手紙の宛先。レオン・リーを従える、「黒山羊」のボスである。


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