4. カエルのアップリケ
急いで祖母の古びた原チャリにまたがった。夕暮れの空がすでに赤く染まり始めている。
(い、急がなきゃ……)
ハンドルを握る手が小刻みに震えた――――。
「行ってきます」と呟いた声に、自分でも驚くほどの覚悟が滲んでいた。
グリップをゆっくりとひねると、エンジンが小気味よく唸り、原チャリが動き出す。
裏通りを行くと懐かしい風景が次々と目に飛び込んでくる。小学生の頃、祖母と二人でよく歩いた並木道。その向こうに、かつての繁華街が見えてくる。
シャッターの下りた商店街を通り過ぎ、美咲の胸に子供の頃の記憶が蘇った。
「おばあちゃん。覚えてるかな? ここのお団子屋さんで、いつも私にきな粉餅を買ってくれたこと」
美咲は呟きながら辺りを見回す。風に乗って、かすかに祖母の声が聞こえてくるような気がした。
「美咲、お手伝いありがとう。はい、ご褒美よ」
「わぁい! おばあちゃん大好き!」
記憶の中の幼い自分の声に、思わず微笑んだ。その笑顔は、すぐに悲しみに変わる。認知症で祖母が変わってしまってから、もうご褒美をもらうこともなくなってしまったのだ。
舗装された道路が終わり、荒れ果てた山道に差し掛かる。原チャリは激しく揺れ、何度も転びそうになった。
汗が目に入り、視界がぼやける。それでも、必死にハンドルにしがみつく。この先に陽菜ちゃんがいるかもしれないと思ったら手は抜けないのだ。
直後、大きな穴にハンドルを取られた――――。
うわぁぁあ!
何とか転倒は回避できたものの、とっさに踏ん張った足に鈍い痛みが走る。
くぅぅぅ……。
停車して痛む足首をさすった。
誰もいない草ぼうぼうの山道の上に空は真っ赤に輝いている。
何の確証もなくこんなところまで来てしまったが、下手したら自分自身も遭難しかねない。このまま進んでいいのだろうか……?
誰かに言ったら嗤われることを自分はやっている。そう思うと胸が苦しくなる。
「帰りたいよぉ……」
泣き言が口をついた。
ずっと祖母に守られてきた人生。東京に出ても気後ればかりして結局逃げ帰ってしまった。そんな人生ももう守ってくれる祖母はいない。むしろ自分が守らないといけない側に回っている。何しろ来月で三十代の大台に乗ってしまうのだ。
見なかったふりをして帰ればいい。何しろ警察にまで行ったのだ。もう十分だ。そんな言葉が脳裏をかすめる。
うつむき、唇をキュッと噛む。
『美咲ちゃんなら大丈夫よ』
その時、ふと祖母の声が、リフレインした。何度も助けられた祖母の応援……。しかし、何が大丈夫なのか今の自分には何もわからない。
痛む足首をそっとなでてみる。くるぶしの所を触ると鋭い痛みが走った。
「痛たたたた……。大丈夫って言われてもねぇ……」
目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。
帰るのは簡単だ。来た道を逆戻りするだけ。
しかし――――。
(陽菜ちゃんはどこかで辛い思いをしているんだろうな……)
そう思うと足首の痛みなど些細な事に思えてきた。
ドコドコと響くエンジン音が応援してくれているかのように心に染みてくる――――。
顔を上げ、前を向いた。
「うん、行ける! 大丈夫。私、頑張るから」
草に覆われている砂利道をじっと見据え、グッとグリップを回した。
◇
薄暗い林を抜けると、生い茂る雑草の向こうに朽ち果てた鳥居が見えてきた。その姿は幻視で見たそのまま。隣には錆びた青いトラックも見える。
「ビンゴ!」
場所はここで間違いはない。であればここに陽菜ちゃんもいるに違いない。
はやる気持ちで原チャリを降り、足首をかばいながら草をかき分け、神社の境内に入る。
「陽菜ちゃーん! おーい!」
荒れ放題の境内を必死に探し回った――――。
しかし、少女の姿は見当たらない。すでに日は沈み、急速に辺りは暗くなってくる。
「な、なんで……? ここにいるはずなのに……」
もしかしたらもう別のところへ行ってしまったのかもしれない。疲労と失望でガックリとうなだれる。
その時、ポケットの中の祖母手作りのお守りが、不思議なほど温かく感じられた。
美咲はそっとお守りを取り出した。赤い布地に、カエルのアップリケが不器用な文字で「ファイト!」と叫んでいる。祖母の温もりが、その一針一針に込められているようだった。
両手でお守りを包み込むように握りしめ、美咲は目を閉じて祈る――――。
「おばあちゃん、お願い。力を貸して」
すると、かすかに少女の笑い声が聞こえた気がした。
え……?
辺りを見回すと、倒れた石燈籠の上に青いワンピース姿の少女が座っている。
「は、陽菜……ちゃん?」
慌てて駆けよってみたが、そこにいたのは、写真で見た失踪少女とは似ても似つかない、おかっぱ頭の祖母そっくりの顔をした少女だった。
「だ、誰……?」
少女は美咲を見て、安心したように微笑んだ。
「美咲ちゃん、待ちくたびれたぞ。判断が遅い!」
その、叱咤するしっかりした目は、元気だったころの祖母そのものだった。
「お、おばあちゃん!」
懐かしさと驚きで、つい涙が溢れてくる。
少女の手を取ろうとした美咲だったが、手は空を切るだけだった。少女には実体はなかったのだ。
「お、おばあちゃん……。これは……どうなってるの?」
「知らん! ただ、探してる子はその壊れた社殿の縁の下におる。助けてやれ」
祖母はゆっくりと空中に浮かび上がりながら社殿を指さした。
「わ、分かったわ。でも……、家にいるおばあちゃんとあなたはどちらが本物なの?」
「わしに聞くな。わしもどうなってるのか調査しとるんじゃ」
少女の姿をした祖母は、肩をすくめながらふぅとため息をつく。
その仕草は往年の祖母そのものであり、胸が熱くなってくる。認知症でまるで別人のようになってしまった祖母。でも、祖母の魂は喪われたわけではなく、こうやって分離しただけだったのだ。
「いいから早く助けてやれ!」
「は、はい!」
◇
急いで懐中電灯を点け、声をかけながら社殿の下にもぐった。暗闇の中、か細い泣き声が聞こえる。光を向けると、そこには小さくうずくまる少女の姿があった。
「大丈夫よ、もう安全だから」
優しく声をかけ、少女を抱きかかえて縁の下から這い出した。少女は美咲にしがみつき、小さな体を震わせている。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」
美咲は少女の背中をさすりながら、顔を上げた。
そこには、もう少女の姿をした祖母はいない。夕闇の中、ただキラキラと黄金の光の微粒子が渦を巻いて、やがて消えていった。
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