魔界の景色
宝箱の底から広がる深淵を前に、俺とシルヴィは息を呑んだ。禍々しい気配が漂い、重苦しい空気が部屋中に満ちている。
「これは……どうするか、とか言ってる場合じゃないかもな」
俺たちの足元から、黒い靄のようなものが立ち昇り始めた。その靄は、まるで生き物のように蠢き、俺たちの足首に絡みつくように上昇していく。
俺はもう迷っている暇はないと判断して瞬間移動の巻き物を次元の指輪により取り出そうとした。しかし、それを拒むかのように深淵が急激な広がりを見せ、俺たちを飲み込んだ。
一瞬の闇の後、目の前に広がったのは、想像を絶する光景だった。
灰色の空が頭上に広がり、赤黒い大地が足元に広がっている。しかし、それは単なる色彩の変化ではない。空は生きているかのように蠢き、時折、巨大な目玉のようなものが浮かび上がっては消える。大地は息をしているかのように、ゆっくりと起伏を繰り返している。
空気は生暖かく、硫黄の匂いが鼻をつく。その匂いは単に不快なだけでなく、吸い込むたびに肺が焼けるような痛みを伴う。遠くには奇怪な形の岩山が聳え、それらは骨や歯のような形状をしており、まるで巨大な魔物の死骸のようだ。
地面には、黒く光る川のようなものが流れている。近づいてみると、それは溶岩ではなく、無数の何かが蠢いているのだと分かる。
「ここは……まさか、S級……!?」
慌てながら次元の指輪を漁る俺の声に、シルヴィが首を横に振った。彼女の長い金髪が、この世界にそぐわない輝きを放っている。シルヴィの表情は冷静さを保っており、むしろ興味深そうに周囲を観察している。
「違うと思う。ロアン。よく見て」
シルヴィの声は落ち着いていて、少し楽しげですらある。
シルヴィの指差す先を見ると、遠くに薄っすらと壁のようなものが見える。目を凝らすと、この空間が四方を巨大な壁で囲まれていることがわかった。壁は霞んでいて歪んでいるように見える。ダンジョンの形を保ってるとはいえ、これをA級と言っていいのか。
「ともかく、もう帰え──」
言葉を言い切る間もなく、突如として轟音が鳴り響いた。空が裂けるように、巨大な雷が降り注ぐ。まるで天空の神が怒りの矢を放ったかのようだ。しかし、この世界に神がいるとすれば、それは慈悲深い存在ではなく、むしろ狂気と破壊を司る邪悪な何かだろう。
白く太い電光が、まるで生き物のように蠢きながら俺たちに襲いかかる。その光は目を焼くほどの輝きを放ち、空気を焦がす熱を帯びている。雷の筋は、途中で枝分かれし、まるで俺たちを追いかけるかのように蛇行する。
避ける暇はなかった。これはS級モンスターが相手でも一撃なら耐える俺の防具の最終魔力障壁を貫通するかもしれない。走馬灯のように流れる景色の中で、俺の前に立ちはだかった。そのシルヴィの表情は、恐怖に歪むどころか、むしろ挑戦的な笑みさえ浮かべていた。
レベル3雷魔法『コズミックアニヒレーザー』
シルヴィの呪文と共に極太のレーザーが杖の先から現れる。虹色に輝くその線は空間そのものを歪めているかのようだ。雷と雷が激突する。まるで二つの巨大な鉄球が高速で衝突したかのような轟音と閃光が辺りを包み込む。
衝撃波が周囲に広がり、地面が揺れる。岩の破片が飛び散り、紫色の蒸気が渦を巻く。黒い川のような虫の群れが、一瞬にして蒸発する。俺は目を見開いたまま、その光景を見つめていた。シルヴィの魔法によって、巨大な雷は霧のように散っていく。電気の残滓が空中を舞い、かすかな静電気が肌を刺す。
「マジかよ……」
感嘆の声を漏らす俺に、シルヴィは少し疲れた様子で微笑んだ。額に汗が滲み、呼吸が少し乱れている。それでも、彼女の目には強い意志の光が宿っており、どこか楽しげですらある。
「久しぶりにちょっと本気を出しちゃった。でも、ロアン。ここは思ってたより危険かも」
シルヴィの声には、恐怖よりも興奮が滲んでいる。彼女にとっては、この状況が刺激的に感じられるのかもしれない。
我に返った俺は、瞬間移動の巻物を手にシルヴィの腕を掴もうとした。しかし、そのとき、シルヴィは身を乗り出して先に駆け出してしまった。
「あれは……!」
シルヴィの声に、俺も視線を向ける。遠くに、何か光るものが見える。それは黒色ながらも眩い輝きを放ち、周囲の赤黒い風景とは明らかに異質でその存在を際立たせていた。
「レアアイテム……かも……!」
シルヴィの声が興奮を含んでいる。目は好奇心に満ちていた。完全に悪い癖が出ている。
「おい、待てっ……!」
俺の警告も聞かず、シルヴィは光る物体に向かって走り出した。彼女の姿が、この異界の風景の中で一際目立つ。その動きは軽やかで、まるでこの危険な環境を楽しんでいるかのようだ。
「くそっ……!」
俺は迷う間もなく、シルヴィを追いかけた。足元の地面は不安定で足を取られそうになる。紫色の蒸気が視界を遮り、呼吸を困難にする。その蒸気を吸い込むたびに、喉が焼けるような痛みを感じる。それでも、シルヴィの姿を見失うまいと必死に走る。
「シルヴィ、待て!」
叫びながら走る俺の耳に、再び雷鳴が響く。今度は複数の雷が、まるで俺たちを狙うかのように降り注ぐ。シルヴィは走りながら、次々と雷撃魔法を展開する。
その光景は、まるで天変地異の中を駆け抜ける天馬のようだった。しかし、現実はそれほど甘くない。シルヴィの動きが少しずつ鈍っているのが分かる。魔力の消耗が激しいのだろう。それでも、彼女の表情は冷静さを保っており、むしろ挑戦を楽しんでいるようにさえ見える。
光る物体まであと数十メートル。しかし、その直前で地面が大きく揺れ始めた。亀裂が走り、地割れが俺たちの行く手を遮る。地割れの底からは、赤い光と共に熱気が立ち昇る。そこには何か、得体の知れないものが息を潜めているように見える。
「シルヴィ!」
俺は全力で跳躍し、地割れを飛び越えた。着地の瞬間、バランスを崩しそうになったが、何とか持ちこたえる。足元の地面が柔らかく、まるで生き物の肉を踏んでいるような感触だ。シルヴィも同じように飛び越え、光る物体のすぐそばまで到達した。
そこにあったのは、拳大の結晶だった。その中で、何かが脈動しているように見える。シルヴィが手を伸ばし、結晶に触れた瞬間、眩い光が辺りを包んだ。
「うわっ──!」
目を開けると、俺たちは元のダンジョンに戻っていた。薄暗い石造りの空間。湿った空気。遠くで滴る水の音。全てが、あまりにも現実的で、先ほどまでいた異界との落差に戸惑いを覚える。壁に刻まれた模様や、床の質感が、急に愛おしく感じられる。
シルヴィの手には、深い黒色の輝きを放つ結晶が握られていた。その表情は、興奮と達成感に満ちている。
「これって、どう?」
シルヴィの声には、好奇心と喜びが混ざっている。
俺は言葉を失い、ただその結晶を見つめていた。結晶は、まるで内部に小さな宇宙を内包しているかのように、複雑な光の模様を映し出している。触れると、かすかに脈動を感じる。まるで、生きているかのようだ。
「こんなものは見たことがないな……時間をかけて調べてみないと」
異界での経験が、まるで夢だったかのように感じられる。しかし、手の中の結晶が、その全てが現実だったことを物語っている。シルヴィは結晶を丁寧に布で包んだ。
「そっか。なんにしても、久々の緊張感が味わえて面白かったね、ロアン」
シルヴィの声には、冒険を終えた子供のような無邪気さがあった。彼女はこんな少女然とした性格をしているようで、根っからの戦闘狂なのだ。だから、復興に力を入れたいと聞いたときには耳を疑った。あれはもうあのような世界は存在しないと諦めての発言だったのかもしれない。あるいは、B級程度のダンジョンで魔物討伐目的の活動をしたくなかったという線もありうる。まあ、相応に少女らしい一面も多分にあるんだけどな。
「命知らずにも程があるぞ」
俺は呆れながらも、少し安堵の息を吐く。シルヴィは軽く笑い、肩をすくめた。
「でも、新しい発見があったでしょ? これが何なのか、ロアンが調べてみて」
シルヴィは謎の結晶を俺に手渡してきた。
「いいのか? 少なくとも、A級のアイテムではあるぞ?」
「それはそうなんだけど。ここのダンジョンを見つけられなかったら手に入れられなかったものだし。そこはロアンのおかげでしょ?」
このダンジョンを降りてきたのも、ほとんどが俺の活動のおかげ。そうシルヴィは言ったが、俺なら絶対にあそこまでの危険を冒さなかった。素直に受け取っていいのかは、悩むところだった。
「私は……それよりも、調べたいことができたから」
シルヴィはあの異空間ダンジョンで、俺の気づかなかった何かを見つけたらしい。
俺とシルヴィは、ここでしばらくは別行動を取ることになった。俺はあくまでのクラフトスキルでの活動がしたかったので、ダンジョンの謎にまで迫るつもりはない。
この結晶の謎を解くために、そうした行為が必要にならなければ、ではあるが。いま最優先すべきは、物件の修繕なのだ。
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