第9話
3
四時間目。体育の授業。ヒート形式競争組は校庭に集合する。生徒達は参加種目ごとに校庭や体育館、近所の運動公園など、各々の練習場所に散った。
ヒート形式競争の担当は色黒で精悍な初老の先生だ。実は現役の漁師ですって言われても全く疑わない。彼は光の籠った鋭い目で私達を一瞥して、
「全員揃ったな。今から五分の間に各自で準備体操をしてもらう。それから千五百メートル走、ゴムチップコースの右回りと左回りを一回ずつだ。なお、ティックタックマンは各クラスの体育委員にお願いしている」
聞きなれない横文字が登場したけれど、ティックタックマンとやらは、要はタイムの記録係らしい。私のクラスの体育委員は学級委員兼任の角田君だ。ちなみに参考タイムは新聞部が編集して体育祭当日に、赤ペンと共に売り出すそうで。それを賭博の読みに使うのだとか。
「連続して同じ条件で出走はしないんだ。右回り、左回りを変えたり、ゴムチップ舗装から芝のグラウンドに変更して走ったり。競技場には芝コースも設備されているからね」
適当なストレッチを遂行中の私の横で、ストップウォッチ片手に角田君が説明をしてくれた。
体育祭の本番は学校のグラウンドではなく近所の競技場を利用し、そこは芝もゴムチップも両方完備なのだそう。
「分からないんだけれど、右左を変更する意味ってあるの?」
「枠順が固定だからね。例えば、一枠一番だったら右回りだと最内、左回りだと大外の配置になる。トビの大きな選手は外を回る方が有利だし、逆に小さい選手は内回りの方が有利に働く」
トビっていうのは陸上の用語かな? 歩幅の大きさみたいなものだろうか。
「それに、レーンがない代わりにスタートラインが横一列なんだ。普通の陸上だったらレーンが用意されていて外の走者ほど、斜め前がスタートラインになるでしょ?」
あの陸上のオリンピックで見るやつか。
「なるほど。陸上って奥が深いんだね。それで芝の参考タイムはいつ測るの? 学校にはゴムチップ舗装しかないじゃん。ぶっつけ本番とか?」
「いや、今度の体育の時間に競技場で計測するよ。同じく右回りと左回り。雨天決行」
うん? ほんのりと違和感。気にする程じゃないかもだけれど、右回りと左回りで二通り、芝とゴムチップ舗装で二通り。二×二で四通り。ヒート形式競争は五百メートル×三の三通りな訳だから一通り多い。四分の三がランダムで決まるのかな。
ていうか、三回も走らせるなら総合的な順位はどう決めるんだ? 普通に考えるなら着順に応じたポイントを配布されて、それの合計みたいな感じだろうけど。
「そうだね。賭博には複勝もワイドも三連系もあるからポイント配布型だよ」
「二×二で四通りなのは? 一通り多いよね?」
「……まあ、毎年誰かしら実力が抜けているしデッドヒートにさえならなければ、ね。去年とか同じ生徒が三連続で一着だったし」
角田君は苦笑して目を反らす。ううん? 白熱したレースの何がいけないのか分からないし、今のは質問の答えになっていない。意図的にはぐらかされたのかもと、もう少し問い詰めようとしたその時、
「五組の代表はそこの華奢な女子だそうですね。今年こそ角田さんが出走なさると思っていたのに。僕は非常に興覚めですよ」
なんか知らん奴が話しかけてきた。逆三角形の輪郭に丸眼鏡。随分と単純な顔のパーツだ。
「一年生ながらに大穴を開けて、大波乱を巻き起こした角田さんが五組の代表だと信じていたのに。今年も僕に敵はいないでしょう。やれやれ」
逆三角形の彼はお手本のような、作りため息をした。横の角田君がひそひそと私に耳打ち。
「彼は去年のヒート競争準優勝の陸田陸男君。三年四組の生徒。昨年、二年生ながらにヒート形式競争で好走した韋駄天なんだ」
ふむふむ、とそれっぽく相槌を打ってみたけれど正直、関心がない。
興味のそそられない情報な上に闖入者のせいで話題が逸らされた。陸田君とやらを無視して話題の軌道修正を図りたいが、それは社会性のない一手だと認識している。
「陸田君は足が速いんだね! 凄いなあ」
彼の方を向いて自然にほほ笑んで、それっぽい誉め言葉を並べてみた。気を良くして早くどっか行ってくれると助かるんだけどな。
「はん!」
そんな私の思いを露知らず、陸田君は鼻を鳴らして尖った顎を撫でている。
「仲真さんでしたっけ? 最後にヒート競争を女子生徒が制したのは六十四年前まで遡らないといけないそうですよ? よくもまあいけしゃあしゃあと出て来られましたね。いいですか? 僕には夢があるんですよ!」
「夢……そうですか。それでは、お互い頑張りましょうね!」
陸田君に友達っているのかな。今の私にはいるから、こいつは私以下じゃないかな。
「いいですか? 僕は調理部の部長として、この学校にソフトクリーム機を設置するのです。それも非常に安価な価格で提供しますよ。協力者だってたくさんいるのです。協力者に僕に賭けさせて僕が優勝し、その予算で設置するのです。たとえ、退学になってでもソフトクリーム機を設置してみせる!」
彼は聞いてもいないのに早口で捲し立てる。陸田陸男って名前で陸上部じゃないんだ。
「あなたみたいな大義をもたぬうすら阿呆の大衆風情に僕が負けるはずないのです。ぼろ負けしても泣かないで下さいね」
一方的に唾を飛ばして高らかに笑いながら去ってゆく。
「変わった人だなあ」
「彼はいつもあんな感じなんだ。誰に対してもああだから気に病まないでね」
直後、体育の先生から集合の号令が掛かった。
白線のスタートラインに並ぶ。枠順はくじ引きで決まり私はゼッケン一番となった。奇数番の生徒の枠入りが完了し、偶数番の枠入りが始まる。
真っ先に枠入りを終えた私はきゅっと唇を結んでスタートラインで再度、気持ちを紛らわすために軽くストレッチ。ここにきて内なる不安がその存在感を主張し始めた。不安。私はヒート形式競争のルールを正確に把握していない。
茜のスピリチュアルを真に受けた訳ではないけれども、惨敗して恥をかきたくない。それは本番だけでなく練習でも同じこと。
ただ普通に走るだけでいいのか? ヒート形式競争にはまだ何かある気がする。
いや、恐らく今日は普通にやればいい。先生はヒート形式競争ではなく、千五百メートル走を行うって明言していたし。……あれ? じゃあ、この不安感の正体は?
本当に良くないな、テンパっている。思考が取り留めなく上手く統合しない。
頬を二回パシパシと叩く。落ち着け、私。
手に「人」の字を書いて飲み込んでみる。それから軽くジャンプをして、気持ちの切り替え。
落ち着くんだ。不安なんて漠としているからよくないのだ。ちゃんと言語化すればいい。
私の不安は二点。一点目は惨敗の不安。他の走者の実力が不明瞭だからだ。これは今すぐ判明する。そして二点目。ヒート形式競争のルールの未把握の不安。これは誰かに訊けばいいし、なんなら授業後にスマホで調べればいい。独自の造語ではないだろうし。
……なんだ、テンパる程のことじゃない。最後に屈伸をして、準備完了。いつでも来い。
「では、第一回参考レースを開始する。録画しているので、不甲斐ない走りはしないように」
偶数番の枠入りも完了。スタンディングスタートの構え。
「一周が八百メートルだから、ほぼ校庭二周だ。最後まで手を抜くなよ、位置に着いてよーい」
空砲と同時に全員が飛び出す。それに合わせてどっからともなく、放送が聴こえてきた。
「スタートしました。揃ったいいスタートだ」
朝礼台の横。双眼鏡を覗きながら誰かが実況をしている。
「さてハナを主張したのは最内、三年五組の仲真です。単騎の逃げで快調に飛ばしていきます。その後ろ、前をじっくりとみながら……」
実況って集中が途切れるしちょっと嫌かもしれない。ていうか、陸上の実況を聴いたことがないんだけれど、こんな感じなの? 私が知らないだけで人間に単騎ってフレーズ使うのか? 「騎」って騎馬兵とかに使う漢字だよね?
無我夢中で足を動かしていると、ちょうど一周に差し掛かった。未だに先頭をキープできているし後続の足音は聞こえてこない。
「飛ばす、飛ばす先頭三年五組の仲真。半マイルを通過して、一分五十七秒九!? 一分五十七秒九という超ハイペース! これはとんでもない波乱になりそうだぞ!」
実況に合わせてちらりと後方を確認。信じられないって風な形相の他の走者達。第三コーナー前。田舎って面積だけはあるから直線が長い。そのお陰でバッチリ彼らの顔を確認できた。
「さあ、第四コーナーを曲がって最終直線。差は縮まらないぞ。脚が違う、次元が違った! 三年五組仲真、今、圧勝でゴールイン!」
ゴール板を駆け抜けて徐々に減速。実況ってこんなに褒めてくれるんだ。最初はノイズだったけれど途中からはむしろ、リスニングが楽しかった。
爽やかな汗と勝利の栄光でスタート前の不安を黙殺。嫌味に響くかもだけれど、この実力差はルール一つで埋まるものではない。
心配して損した。内なる不安なんて全くの的外れだ。
「まさか……そんな馬鹿な……信じられない」
眼をかっ開いて、まじまじと私を見てくる陸田陸男君とその他の走者達。
「……これってレコード記録じゃない?」
ストップウォッチ片手に角田君の声は震えていた。
いやはや、この競技を選択したのは正しかった。敵がいない。これなら天地がひっくり返っても勝つのは私だろう。
休憩を挟んで二周目も私の圧勝だった。「後ろからはなーんにも来ない! 後ろからはなーんにも来ない!」って実況が良かった。
授業の終わりにルールブックだけ貰って解散となった。ペラペラと最初のページだけ眺めてみたけれど、イギリスの貴族とかサラブレット? とかいう生き物について書かれていてよく分からなかったから閉じた。学校独自の細かいルールがあるようだけれど普通に先頭走ってゴールするだけだし、どうでもいい。
うん。ヒート形式もわざわざ調べなくてよさそうだ。有象無象に私が負けるとは思えない。
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