唐突な死闘

 秘境の温泉宿『ぼんぼり』の朝は、部屋の外の廊下を歩く人の気配とその人が囁く「起床」という声で始まる。

 寝ていた布団を畳んで部屋の隅に置き、蜂須賀パイセンから貰った寝間着のジャージから仕事着の作務衣に着替えると宿の外にある研修生用のトイレに向かう。まだ寝ているお客さんを起こさないように静かに、でもなるべく早く。


 宿の外にある研修生用のトイレの数は二つ。座ってゆったりと用を足せる洋式が一つと立って用を足す男性用小便器が一つ。

 現在、宿で新人研修を受けている研修生の数は、俺を含めて9人。うち女性が3人。


 宿の外は走ってもいいが、お客さんの安眠を妨げないように足音はさせてはいけない。

 100メートルほどの砂利道に置かれたつま先が乗る程度の小さな飛び石の上を音もなく駆ける。

 前を走るクソ野郎がわざと飛び石を飛ぶタイミングを遅らせて俺の動きを止めようとしたが、俺に同じ手が二度も通じると思うとは笑止千万。

 俺は気にせずにクソ野郎がまだ居る飛び石へと飛んだ。

 以前の失敗は、このまま行ったらぶつかって音が鳴ってしてしまうと思ったからだが、事前にぶつかることが分かっているならやり様はある。

 ちなみに音を立てるとどうなるかというと、食事が一品減らされる。それも何が減らされるか分からない。漬物の乗った小皿を減らされるのか、主菜が乗った大皿が減らされるのか、ご飯を乗せる茶碗を減らされるのか、それはその時の配膳係の気分次第で変わる。


 俺が躊躇なくまだクソ野郎がいる飛び石に飛ぶと、クソ野郎は俺が飛んでくると思わなかったのか慌てて次の飛び石に飛んだ。

 (馬鹿め。死ね)

 俺は前を行くクソ野郎の背中を押して次の飛び石に置こうとしたクソ野郎の足を砂利の上に落とした。

 クソ野郎が俺を道連れにしようと振り返ろうとするが、こいつならそうすると思っていた俺は、クソ野郎の背中を思いっきり蹴飛ばしてやった。

 (ざまあああー!)

 何度も俺の邪魔をして俺の食事を減らしてくれたクソ野郎に盛大な返礼が出来た俺は、にっこにこでクソ野郎の横を通り過ぎて男性用小便器の列に並んだ。

 

 「すいません。俺の食膳しょくぜんに御茶碗が無いんですけど」

 近くにいた配膳係のおばちゃんに聞いた。

 「あんたね、やり過ぎなのよ。あんな音立てたら宿中のお客さんが起きちゃうでしょ」

 「すいません……」

 配膳係のおばちゃんに頭を下げてクソ野郎の食膳を見ると、漬物の小皿しか載っていなかった。

 「くっくっく」

 宿の主役はお客様なので裏方の俺達が大きな音や声を出すことは厳しく禁じられている。

 だから笑いをかみ殺して指をさす。あいつの食膳見て見ろよ。漬物しか載ってねえぜ。という感じで。

 「殺す」俺に指差されたクソ野郎がそんな事を言いたげな目で俺を睨んできたので、俺はいつでもどうぞという余裕の笑みを浮かべてやった。


 朝の食事が終われば研修生たちはそれぞれの仕事を始める。

 でもそれは誰かに指示されたからでも頼まれたからでもない。その日何をするかは囲炉裏の間に書かれた仕事から自分で決める。

 何が足りないのか何が必要なのか、宿の状況を把握して予測をして他の奴らはどうするのかを考え、自分に出来る事は何なのかを考え、何をするのかを決める。

 仕事は配膳係のおばちゃんたちによって採点され、必要な仕事やいい仕事をした研修生の食事には特別な一品が足される。

 俺は今日お茶碗を減らされたので、いい仕事をして減ったお茶碗を一日でも早く取り戻さなければならない。

 「てめーいつか殺してやるから覚えてろよ」

 誰よりも早く食事を終えた、漬物しか残っていないクソ野郎が俺の後ろを通り過ぎる時に囁いた。

 でも漬物しか食べられないクソ野郎はマジで必死に頑張らないと栄養失調で死ぬ可能性があるから、俺に復讐するとしても最短でも一週間はかかるだろう。もちろん俺はそれを邪魔するから、クソ野郎が元の食事に戻すのに掛かる日数はそれ以上になるのは確定している。


 蜂須賀先輩が送ってくれる漫画と小説を対価に譲ってもらったボウイナイフとそれで作った竹の水筒、山で採った胡桃くるみの実、朝食で出た漬物一切れを持って宿を見下ろす山に登る。

 そこは俺が遭難した時に知らず知らずのうちに登っていた山で、山頂の少し下あたりに朽ち果てた神社がある。俺が一夜を過ごした石垣と石段がある場所でもある。


 正式な参り方が分からないので、鳥居があったであろう場所の手前、石段の前で一礼をして石段を上がる。

 神様専用道路の石畳の横を通って歩いた先には、高さ170センチくらいの洞窟があり、その奥にある壁の石を削って作られた祭壇らしき場所に、持って来た竹の水筒の一つと胡桃くるみの実を3つ、朝食で出た漬物一切れをそなえる。


 正式な作法は分からないので「どうぞ。今日のお供えです」といって一礼する。

 その後、洞窟の中に入り込んだ落ち葉を風呂敷の中に拾い集めて神社の敷地の外に捨てると、神様専用道路の石畳を自作の竹ぼうきで掃いて、その付近と石段に落ちている落ち葉を風呂敷の中に拾い集めて捨てる。


 そしたら神社の入り口にある石段に腰かけて、昨日お供えした胡桃くるみを割って食べて、パリパリに固くなった一口サイズの小さなおにぎりを供えていた竹の水筒に入っていた水でふやかして食べる。

 

 「獲るしかないな」てっぺんを!

 お茶碗を減らされるということは配膳係のおばちゃんの機嫌をかなり損ねたということだから、これを今日中に取り戻そうと思ったら生半可な方法では無理だ。たぶんいつも通りにやると、配膳係のおばちゃんがお茶碗が戻してくれるのは3日後くらいになるかもしれない。


 神社の中にある洞窟に戻ってその入り口の近くにぼろ布で隠してある投げ槍とその投げ槍を投げる投槍器を持ち出す。

 投げ槍といっても見た目はちょっと太くて長い弓矢で、オリンピックの投げ槍を想像している人達がこれを見たら、それは投げ槍や無くて投げ矢や、というお叱りを受けること必至である。


 「ええやないか。持ち運びやすくて作るのも簡単なんやから」

 あんな太くて長くて真っ直ぐな握りやすくて適度にしなる(なんかいやらしい)木の枝がその辺に生えてると思うなよ。俺は毎日山に入るけど一度だって見たことないぞ。

 

 狙いは山鳥だが、山鳥は希少で簡単には見つからない。だが宿のお客さんに大変喜ばれる食材だ。宿では月に一羽と狩猟に制限が掛かっているが、今月はまだ誰も獲っていない。

 無難なのは狩猟制限のないキジだが、これも山鳥と同じく見つけるのが難しい。

 でもいくつか居そうな所は見つけている。こういうもしもの時のために。

 

 「一条隼人」

 聞き覚えの無い声に顔を向けると、いつから受けているのか誰も分からないくらい昔から新人研修を受けている50歳くらいのごま塩色の丸刈りオジサンが俺から15メートルほど離れた石垣沿いの道に立っていた。

 「はい。何の御用でしょう?」

 「予言の日は近い」

 「……はい?」

 そういえば蜂須賀パイセンがこのオジサンは特別だって言っていたなぁ。そうか。そういうことか。

 「その力、試させて貰う」

 オジサンがなんか黒い杖を持っていると思っていたら、ほんまもんの刀やないか!

 「やめませんか。怪我しますよ」俺が。

 「悪いが、怪我で済ませるつもりはない。 覚悟!」

 鞘から抜いた刀の柄頭を右肩に乗せるように構えたオジサンが一歩二歩と距離を詰めてくる。

 その滑るように滑らかな歩行は、素人の俺でも分かるくらいオジサンの技量が高いことを窺わせた。


 俺は悟った。このオジサンと真っ向勝負をしても絶対に勝てないと。百回やって百回とも俺が死ぬと。

 「あばよ、とっつあん!」

 俺は全力で逃げ出した。勝てない相手と戦うなんて馬鹿のする事だ。

 「逃がさん!」

 手裏剣!

 オジサンに向けていた背を反転。スプリットステップからの小刻みの反復横跳び。

 気分はエージェントスミスの銃弾をかわす救世主のネモだ。

 オジサンは手裏剣を投げながら距離を詰め、俺は手裏剣を避けながらバックステップでオジサンと距離を取る。

 じりじりと俺とオジサンとの距離が詰まる。

 でもオジサン、その前に手裏剣が尽きるんじゃない?

 バックステップした俺の背中に追突された様な衝撃が走った。

 さすがは達人のオジサンだ。まさか俺が逃げる方向を手裏剣で誘導していたなんて。

 そのせいで背後の木に気づかずにぶつかった俺は何が起きたか分からずに大慌てをしてしまった。刀を振り上げたオジサンが全速力で迫って来ているというのに。

 そして気づいた時にはもう刀を振り上げたオジサンが俺の目の前にいた。

 「もらった!」

 とっさに振った手に持っていた三本の投げ槍がオジサンの刀を横から叩いて反らす。 一瞬でも遅れていたら間に合わなかったし、一瞬でも早ければ投げ槍ごと叩き斬られていた。二度とは出来ない完璧なタイミング。

 そして、いつの間にか投げ槍を持つ手とは逆の手に握られていた抜き身のボウイナイフが俺の意思に反してオジサンの胸を突き刺す。


「あ……」と俺が言ったのかオジサンが言ったのか分からないが、オジサンの体から力が抜けて、俺が握っていたボウイナイフの柄が倒れるオジサンの動きに合わせて動く。

 ギュッとボウイナイフの柄を握ると、手首にオジサンの体重がずしっと掛かって、ずるりとオジサンの胸から鉈のように大きくて長いボウイナイフの刀身が抜けた。

 

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