2ー10 ナポレオン・1812年(マイナス213年)

 1789年に封建制を粉砕したフランス革命は、ナポレオン・ボナパルトの運命を決定づけた。砲兵士官として革命軍に参加したナポレオンは、95年には国内軍司令官に昇格し、イタリア、エジプトとの戦争に勝利を収め、99年のクーデターで政治の実権を掌握した。新たな世紀が始まってからも、ナポレオンの勢いは衰えを見せなかった。1802年には終身執政となり、4年には『皇帝』を名乗るまでに勢力基盤を固めた。以後も敗けを知らないフランス軍は、ヨーロッパ各地を併合して強大な帝国を作り上げた。そして膨張の一途をたどる帝国の先には、ロシアが横たわっていた。フランス皇帝の侵略を待つ、広大な大地が――。

 1812年5月、ナポレオンはクレムリン宮殿をめざしてサン・クルー宮殿を出発した。ロシアに侵入したのはフランス兵30万、ドイツ兵18万、ポーランド兵9万、イタリア兵3万、スイス兵1万人の混成部隊だ。だが、ナポレオンの意に反して軍の指揮は乱れ、補給は途絶えがちで、ロシアの抵抗は激しかった。ようやく入城したクレムリン宮殿も、モスクワ提督のロストプティンが市街に放った火災の拡大に脅かされていた。侵攻の全てが、ナポレオンが思い描いていた状況とは違っていた。皇帝の凋落が始まったのだ。


         *


 宮殿のバルコニーから焦土と化したモスクワ市街を見下ろすナポレオンは、振り返りもせずにつぶやいた。

「これで3度目だぞ……。アレクサンドルは、また和平交渉を拒否したというのか……」

 ナポレオンの信頼が厚い副官――馬事総監のコレンクールは、夕日を浴びた皇帝の背中から、怒りよりも困惑を嗅ぎ取っていた。宮殿は占拠した。ナポレオンがロシア皇帝の居室に寝起きしてから、すでに1ヵ月が過ぎている。なのにまだ、何も得ていない。それどころか、ペテルスブルグに敗走したアレクサンドル1世は、フランスからのあらゆる提案を無視していた。軍神と崇められ、不可能を可能にし続けたナポレオンが、敵地深くで進退極まっていた。

 コレンクールは、モスクワ撤退に合意を取りつける時だと意を決した。撤退が1日遅れれば、何万という部下が危険に晒される。

「陛下……」

 ナポレオンは振り返りもせずに叫んだ。

「分かっている! ロシアの冬はイタチのように素早く、オオカミのように厳しい……。私も、それを考えている」

 コレンクールは、震える声で懇願した。

「お願いします、皇帝陛下。どうか撤退のご決断を。敵は、すでにロシア兵ではありません。人は、天と戦えるほど強くないのです」

 ナポレオンはコレンクールと2人きりの時は本心を覗かせることがあった。ごく稀に、ライオンが手負いの獲物を見逃す程度に、ではあるが。今が、その一瞬だった。モスクワ市外に頻発する火災に宮殿を取り囲まれたナポレオンは、自信を失い、迷っていた。

「私とて、神とは戦えぬ……」

 コレンクールはその率直さに度胆を抜かれた。うつむきかげんのナポレオンの声は、張りを失って痛々しいほどだ。

「陛下……」

 弱みを見せたことに気づいたナポレオンは、不意に胸を張った。

「だが、今モスクワを退いたら、ここで失った時間と兵をパリでどう説明する? まだ士気の高い兵たちに、撤退をどう納得させる? 鐘楼の十字架を奪っただけで充分だというのか? 私はロシアを征服した。アレクサンドルを敗った。勝利をフランス国民に、いや、世界に知らしめなければなければ、これまでの苦難が茶番になる」

「これまでのことは、これまでのこと。やり直しは効きませぬ」

「敗北を認めろと⁉ 軍人にとって、誇りは命よりも大事だ!」

「陛下は一介の軍人ではありません! 全将兵の生命は、陛下の決断にかかっております。明日をお考えください! アレクサンドルの煮え切らない態度は、陛下を足止めする方便です。こうしているうちにも時は過ぎ、ロシアの冬がアレクサンドルの武器となります。冬服すら持たない兵士たちの半数は、戦わずして屍と化すでしょう。過ちを過ちと認め、犠牲を最小限に押さえなければ――」

 ナポレオンはようやく振り返って、コレンクールを見つめた。血に染まった亡霊のような姿が、コレンクールから言葉を奪う。

「出ていけ。独りで考える」

 首をうなだれて扉を閉める直前、コレンクールはナポレオンのうめき声を聞いたような気がした。


         *


 それでもコレンクールの使命は、撤退に備えることだった。宮廷の厩舎へ向かう。皇帝の愛馬アミールは、凍った大地を覆う吹雪の中にあっても、疲れを見せずに兵の先頭に立たなければならない。と、コレンクールはロシア兵を追い立てる2人の衛兵に出くわした。ロシア兵は、軽騎兵士官の服装をしている。彼らに走り寄ったコレンクールは、喜びを隠しきれずに叫んだ。

「捕虜か⁉」

 運がよければロシア軍の動向が探れる。フランス軍内ではあらゆる物資が底を突いていたが、何より足りないのは新鮮な情報だ。

 衛兵の1人がうなずいた。

「スパイか、盗人か……その両方かも……」

 コレンクールは、両腕を押さえられながらも堂々と胸を張っている捕虜を見つめた。

「どこで捕らえた?」

「フランス兵に化けて逃亡しようとしたところを、宮殿の庭で発見しました。挙動が不審なので尋問しますと、下にロシアの軍服を着ていたのです。これを盗みに忍び込んだようでして……」

 衛兵の一人が捕虜の腕を放し、抱えていた大型の書類入れを差し出した。受け取って中を覗き込んだコレンクールは息を呑んだ。

「これは……」

「その絵は、いったい何なのでしょう?」

 コレンクールはペテルスブルグへ大使として赴任していた際にロシア語を学んでいた。衛兵の質門を無視して、捕虜に問う。

「貴様、この絵をどこで手に入れた⁉ なぜ、これがクレムリンにある⁉ 宮殿はくまなく調べた。どこに隠してあった⁉」

 にやりと笑ったロシア兵は、流暢なフランス語で言った。

「私の名はピョートル・オルローフ。軽騎兵少尉――」

「どこから持ち出した⁉」

「私の名は――」

 コレンクールは、いつになく激しい口調で衛兵に命じた。

「私の部屋に連行しろ!」

 捕らえられたロシア兵の任務が絵を盗み出すことなら、彼は〝失敗〟したことになる。なのに捕虜の目には、自信と落ち着きが満ちている。ロシア兵の笑みは、コレンクールを怯えさせた。


         *


 いきなり部屋に入ったナポレオンは、怒りをこらえていた。

「コレンクール……何があったのか話してもらおうか。事情によっては、越権行為を見逃すかもしれん。期待はできないがな」

 長椅子で振り返ったコレンクールは、ナポレオンを見上げた。

「陛下……」

「兵の話では、私に会わせる捕虜をおまえが奪ったと――」その目が、捕虜の顔に止まる。「そいつか。骨のありそうな面構えだな」

 ナポレオンは長椅子から腰を浮かせたコレンクールを制し、素早くその横に座った。

 2人の前には、両手を縛られたロシア兵捕虜が立たされている。両側に立つ衛兵がサーベルを脇腹に当てていた。捕虜が逃亡を図れば、2本の剣が肺の中で交差する。しかしロシア兵は、恐れを見せない。軍神とうたわれたナポレオンの前で、超然と薄笑いを浮かべている。テーブルには、たくさんの肖像画が広げられていた。

 ナポレオンは絵に目を落とした。

「このロシア兵が盗もうとした絵か……?」

 コレンクールは焦りをあらわにして答えた。

「陛下、これは罠です! フランス軍を壊滅させる策略です!」

 ナポレオンはコレンクールを見つめた。コレンクールの怯えた態度に困惑し、さきほどまでの怒りを忘れていた。

「こんな絵がか? クレムリンから盗み出すことが、なぜ罠に?」

 コレンクールはすでにロシア兵の、そして彼に命令を下したアレクサンドルの意図を見抜いていた。きっぱりと答える。

「盗まれたのではありません。ペテルスブルグから持ち込んだのです。これはエルミタージュに保管されていたものです。盗人に見せかけてわざと捕らえられることが、この男の任務だったのです」

 コレンクールの知性は、幾度も敵の策略を見抜いてきた。耳を傾ける価値があることは、ナポレオンが最もよく知っている。

「分からんな……。なぜそのような面倒なことを?」

「アレクサンドルは、陛下に絵を手渡すために、この兵士を捨て駒にしたのです」

 ロシア兵が叫ぶ。

「違う!」

 捕虜は初めて狼狽を顕にした。

 コレンクールはナポレオンを見た。

「異常な慌てようではありませんか?」

 ナポレオンはそれには応えず、絵を取ってじっくりと眺める。

「美しいな。この絵の男たちは何者だ? 目の鋭さは只者ではないが、ロシア兵か? アレクサンドルは、なぜこんな絵を……?」

 コレンクールはぽつりと言った。

「その絵には、ある言い伝えがあるのです」

 ナポレオンはコレンクールに目を戻した。

「ほう……言ってみろ」

「申し上げられません」

 ナポレオンは不意に怒りを噴出させた。

「逆らうのか⁉ 忍耐にも限度はある!」

 コレンクールはたじろがなかった。

「この絵は、陛下をモスクワに足止めさせる手段として運ばれてきたのです。秘密を知れば、クレムリンから動けなくなります。撤退をご決意なさるまでは、教えできません」

 ナポレオンはコレンクールをにらみつけた。彼の意志は容易に揺るぎそうはなかった。しばらく考えてからうなずく。

「どうせ、決めておったことだ。撤退は、明日の午後からだ」

 コレンクールの口から、安堵の溜め息がもれ出た。

「ありがとうございます……」

 そして彼は、あまりの喜びにナポレオンの真意を見誤った。

 ナポレオンは無関心を装いながら言った。

「では、話せ。どんな言い伝えがある?」

 フランス全軍が崩壊の危機から救われたと確信したコレンクールは、激しい緊張から解放されて穏やかに語り始めた。

「ロシア皇室に伝えられる秘密です。この絵のどこかに、膨大な量の黄金を隠した場所が暗号として記されているというのです。『黄金の砦』、あるいは『エカテリーナの砂金』と呼ばれています」

 ナポレオンは関心がなさそうにつぶやいた。

「信頼できる情報か?」

「分かりません。謎を解いた者はおりませんので……」

「アレクサンドルは信じておるのか?」

「あらゆる手段で情報を集めておりました」

「そもそもこれは、どんな絵だ? 誰が誰を描いた?」

「東洋の国からエカテリーナ2世に送られたもので、ロシアの外れに住む民族の酋長を描いております。彼らは自らの国を興すために黄金を貯え、その場所をこの絵に潜ませた、と……。アレクサンドルは貴族たちに『黄金は必ず捜し出す』と豪語しておりました」

「東洋……? 正確には、どこだ?」

「シナの向こうにある――」

 ナポレオンは椅子から腰を浮かせた。

「日本か⁉ 『金銀島』のありかが隠されているのか⁉」

「さあ、それは……」

 ナポレオンは、オランダ人たちが東洋の黄金を求めて大洋を渡っているのを知っていた。それは14世紀半ばのマルコ・ポーロの探険以来、連綿と続く船乗りたちの夢想だ。黄金に彩られた島、ジパング――。今や、そんなユートピアが存在するのは、長い航海で現実を見失った船乗りの頭の中だけだ。それでも彼らは何世紀もの間『金銀島の伝説』に命を賭け、破れ去っている。一方では、無謀な冒険が紅茶や香辛料などの〝財宝〟を発掘してきたことも事実だ。

 あるいは、正しいのは船乗りたちなのかもしれない。もし『金銀島』が実在するなら……。ここに、『金銀島』へ導く地図が存在するなら……。その時、賭けは事業に変わる。夢想は政治に変わる。フランス軍は巨額の軍資金を得ることができるのだ……。

 興奮で立ち上がったナポレオンは、コレンクールを見下ろした。

「ペテルスブルグでこの絵を見たのだな⁉ 本物なのか⁉」

 コレンクールは口ごもりながら答えた。

「これほど精巧な複製画を作ることは容易ではありません……」

 ナポレオンの頬には凄味のある笑みが浮かんでいた。

「この絵の謎は、誰なら解ける?」

「あるいは、日本からの漂流民なら……」ナポレオンの目の異様な輝きに気づいたコレンクールは、叫んだ。「いけません! それこそアレクサンドルの思う壷です!」

「いるのだな、このモスクワに、日本人が⁉」

「陛下、先程のお約束を……全軍撤退を……」

 ナポレオンはロシア兵に向かって言った。

「モスクワには日本人がいるのだな⁉」

 ロシア兵は、ニヤリと笑っただけだった。

 ナポレオンは誰にともなく命じた。

「探せ! 何としても日本人を見つけ出し、パリに連れて帰る! まわりの村を徹底的に捜索しろ!」そしてナポレオンはコレンクールに命じた。「この件は記録には残すな。噂が広まってはまずい」

 コレンクールはアレクサンドルに敗れたことを思い知らされた。


         *


 10月19日、モスクワ撤退が開始された。しかしコレンクールの恐れは現実となった。フランス軍には冬服がなく、食料も乏しかった。急激に低下していく気温は、容赦なく兵士たちから行動力を奪う。ロシア軍は、敗走するフランス軍に執拗に襲いかかった。

 モスクワを出発する時、ナポレオンは主力10万の兵を従えていた。だが、1ヵ月後のスモレンスクでは、戦闘に耐える者はわずかに4万人を切った。フランス・ナポレオンの時代は終わりを告げ、オーストリア・メッテルニヒがヨーロッパを牛耳ろうとしていた。

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