2ー8 メッテルニヒ・1848年(マイナス177年)

 2月のフランスに始まった革命の嵐はヨーロッパ全土を揺るがし、ウィーンににじり寄っている。皇帝の特権を守るために貴族たちを結集しようとしたクレメンス・メッテルニヒの試みも、時代の流れを止めることはできなかった。宮廷での足の引っ張り合いとして始まったウィーンの革命は、最悪の事態へ発展している。大衆が目を覚まし、真の革命への道を驀進しているのだ。メッテルニヒが30年以上も守り続けてきたウィーン体制は、崩壊寸前だった。

 その夜のウィーンは、文字通り燃えていた。

 メッテルニヒは、質素な2頭立て馬車で大西洋を目指していた。揺れる窓から、あちらこちらに火の手が上がる市街を見渡す。

「結局のところ、私はナポレオンに破れたのだな……」

 馬たちの息づかいや石畳を走る車輪の乾いた音が、家々の間にこだまする。深夜だというのに、街は不気味な明るさに縁取られていた。主人たちが逃げ去った貴族の館に、無数の暴徒が火を放ったのだ。妻子をいち早く英国へ送り出したことだけが、心の慰めだ。

 狭い馬車では、サロモン・セクフィールが向かい合っている。

「これまでヨーロッパを安定させてきたのは、あなたの力です」

 17世紀末、フランス革命を契機にして皇帝の座にのし上がったナポレオンは、強力な軍事力で国境線を書き変えた。だがヨーロッパ全土を席巻したナポレオンの勢力も、1812年のロシアでの惨敗を期に凋落への道をたどった。

 メッテルニヒが真の政治手腕を発揮したのは、それ以後だ。彼が求めたのは、オーストリアのハプスブルグ家を中心に据えた復古主義だった。国境やヨーロッパ各国の支配圏をフランス革命以前に戻す試みは、半年も続いたウィーン会議によって実現された。ナポレオンの『100日天下』を許したものの、フランス軍のワーテルローでの敗戦によってヨーロッパはメッテルニヒの手中に納まった。それからおよそ30年間――反動体制と陰口をたたかれながらも、ヨーロッパは安穏な日々を貪ってきた。メッテルニヒは、その平和がセクフィールの財力に支えられていたことを忘れてはいない。

 メッテルニヒは、時には激しく対立しながらも、共にヨーロッパを安定させてきたサロモンに言った。

「それも君たちの資金があってのことだ。そして、全ては思い出となった。私は老いた……。年老いた政治家にとって、今は変化が激しすぎる。私には、もう〝時〟が読めない……」

「珍しく弱気ですね。政治に飽きたなら、新たな暮らしを始められては? あなたは充分に働かれました。我々も感謝しております。残りの人生は、ご家族とあなたご自身のためにお使いください」

「確かに、この国に……いや、この時代に、私は必要ないようだ」そしてメッテルニヒは心残りのようにつぶやく。「だが、ルイ・ナポレオンは誤算だった。今はフランスも革命に沸いているが、あの男、いずれは『ナポレオン3世』を名乗る。その後のヨーロッパがどう転がっていくかは、想像したくもない……」

 オランダ国王とナポレオンの姪の間に生まれたルイは、ナポレオンの後継者としての正当性を早くから主張していた。アメリカやイギリスへの逃亡生活を送り、何度か帝政復活の試みに失敗したにもかかわらず、今は革命の混乱に乗じてフランスへ舞い戻っている。メッテルニヒは、半世紀前にナポレオンがフランスを掌握したように、今回の革命でナポレオン3世が誕生することを恐れていた。

 サロモンは、メッテルニヒの心配を笑い飛ばすように言った。

「再び戦乱の世が訪れようとも、あなたの責任ではありません」

「いや、責任は私が負うべきなのだ……」

 メッテルニヒのつぶやきには、聞き流すことを許さない重さがあった。老外交家が、重大な事実を打ち明けようとしている。メッテルニヒは足元の革のカバンを取り上げ、サロモンに渡した。

 無言でカバンを開けたサロモンは、中の絵を見て首をかしげた。奇妙な人物の肖像が、全部で12枚――。

 サロモンは、はっと目を上げた。

「これは……⁉」

「ウィーン会議の数ヵ月前に、タレイランが持ってきた品物だ」

 タレイラン=ペリゴールは、聖職者からナポレオン政権の外相にまで駆け昇った先見性のある政治家だった。しかし彼は、ナポレオンの衰退を見抜くとすぐさま袂を別ち、ロシア皇帝に接近してブルボン王政の復活に力を尽くした。ウィーン会議でフランスの利権を守った功労者と讃えられる一方、無節操な風見鶏とも蔑まれ、評価は極端に分かれている。

 サロモンは絵から目を離せないままつぶやいた。

「『黄金の砦』の伝説の……?」

「思えば、あれがタレイランの計略に目をくらまされた魔の一瞬だった。伝説の黄金が手に入れば、ロシア皇帝の思い上りを叩きつぶしてハプスブルグ家を中心にしたヨーロッパを建て直せる――そう欲を出してしまった。そして、罠から足を抜けなくなった。ウィーン会議で敗戦国のフランスが発言力を持てたのも、私がタレイランを正面から攻撃することができなかったからなのだ……」

「ではこの絵は、ナポレオンが?」

「モスクワでの戦利品だそうだ。ナポレオンはこの絵をタレイランに託し『アレクサンドルに返せ』と命じた。『ロシア皇帝に黄金の砦を探す権利を返せば、フランスが踏みにじられる危険は避けられる』と言ったと聞く。しかしタレイランはナポレオンを裏切り、独断で私に接近してきた。奴はその時すでに、ブルボン家の復活に政治生命を――いや、本当の命さえ賭けていた。一方の私は、ナポレオンをフランス皇帝の座に戻そうと工作していた。もちろん、軍事力という〝牙〟を抜いた上で、だ。ナポレオンほど巧みに革命をコントロールできる人材はいないのだからな。だがそうなれば、ナポレオンを裏切ったタレイランは確実に首を落とされる。奴は身を守るために、私をブルボン派に転向させなければならなかった」

「だからといって、ナポレオンに敗れたことにはなりますまい?」

「ナポレオンは、始めからタレイランの〝裏切り〟を予測していたのだ。むしろ裏切るように仕向けた。ブルボンの間抜けどもが再びフランスを支配すれば、民衆は必ず自分の復活を求めて立ち上がる――そう確信していたのだ。だから不名誉な降伏を拒んだ。皇帝への返り咲きを実現させるための武器が、この絵とタレイランの狡猾さだった。タレイランはそうとも知らずにナポレオンに操られ、望まれた以上に働いた。この絵を私への賄賂に使っておきながら、ロシア皇帝――田舎貴族のアレクサンドルには『メッテルニヒに奪われた』と密告したのだ。当然、私とロシア皇帝との仲は険悪になった。にらみ合いの隙に、フランスが生き残る道が開けたわけだ」

「タレイランもしたたかな外交家ですからな」

「その頃の私は、アレクサンドルの幼稚な野望を打ち砕くことに気を取られていた。あの愚か者は、自分が〝ヨーロッパの主人〟になれる器だと自惚れていたのだから恐れ入る。とはいえ、勢いに乗ったロシア軍を田舎者と笑ってばかりはいられない。結論は『ウィーン会議』だった。何ヵ月も踊り続けるだけの会議に各国の要人を招くことで、『ハプスブルグ家が伝説の黄金を手に入れた』と世界中に信じ込ませたかったのだ。オーストリアが巨額の軍資金を手に入れたとなれば、ロシアは汚らしい爪を引っ込めざるをえない」

「それで、我々からあれほど巨額の資金を……」

「世話になったな。だが、アレクサンドルも一筋縄ではいかない男だ。どうせタレイランの入れ知恵だろうが、『メッテルニヒはナポレオンに買収された』と触れ回った。そのために反ナポレオン勢力が結集し、ブルボン家の返り咲きが会議の流れになってしまった。私一人の力では、流刑地をエルバ島に止めるのが精一杯だった。あの男はすぐに戻る。その時こそ、フランスの手綱を握らせよう――と賭けたのだ。私の計画は成就した。だが肝腎のナポレオンが、ついに政治家にはなれなかった……。たった100日で歴史の舞台から身を引くとは……。軍事力を捨て、類い稀な統率力を国内に集中していれば……ワーテルローの敗北などありえなかったのに――」

 メッテルニヒは不意に口をつぐんだ。セクフィール家が、その情報戦で爆発的に富を拡大したことを思い起こしたのだ。サロモンにとってのワーテルローは、黄金の冠に刻むべき神聖な名だ。

 サロモンはメッテルニヒのためらいには気づかぬふりをした。

「この絵を受け取らなくても、結果は同じだったのでは?」

「今となっては、神にすら判断できない。しかし私は後悔している。タレイランが訪れた時にこの絵をアレクサンドルに譲っていたなら、ウィーン会議でナポレオン支持を訴えられた。後ろめたいところがなければ、耳を貸す者もいたはずだ。ナポレオンを説得し、フランスに封じ込めることもできたかもしれぬ。少なくとも、アレクサンドルにつけ入る隙は与えなかった」メッテルニヒは燃える市街に目を移した。馬車に吹きつける生温かい風は焦げ臭く、火の粉が混じっている。「こんな暴力も避けられたかもしれない……」

 サロモンはかすかに首をかしげた。

「そのような裏話を、どうやって確かめられたのですか?」

「ナポレオンがセント・へレナ島から手紙をよこしたのだ。全てを失ったナポレオンは、好敵手だった私を哀れんでいたのだろう」

「哀れむ? ヨーロッパの主人を?」

「力を競い合う相手を失った者の生き様は、虚しい。私は、あの男となら折り合っていけると信じていたのだ。ナポレオンは私の政治手法を嫌ってはいたが、その道の専門家としては信頼していたらしい。彼は軍事の天才であり、私は政治の才に恵まれていた。利害は対立していても、話は通じたのだ……」

 と、馬車の窓に小石が当たった。暴徒が立ちはだかり、さらに石を投げようと構えている。怯える馬たちを御者が必死に押さえた。

 が、サロモンは落ち着いていた。

「暴徒がこんな街外れにまで?」

「この国が滅びるのも、時間の問題かもしれぬ。むろん、新しい国が生まれるのだろうが……私は住みたくもない」

 サロモンが窓の外に目をこらす。

「大学生らしいですな。嘆かわしいことです」

「若者たちが自由を叫ぶことが、残酷な不自由を招き寄せる。フランスもまた、新たなナポレオンの独裁に耐えることになるだろう。誰もが皆、同じ場所でぐるぐると踊り続けるばかりだ……」

 建物の陰からさらに群衆が現われ、馬車の行く手を完全に塞ぐ。

 サロモンはメッテルニヒを見つめて尋ねた。

「革命が恐ろしいですか?」

「時の流れは止められぬ。避けられぬものは、無視するか受け入れるしかない。どちらを選ぶかはロンドンで考える。君はどうだ?」

 サロモンは凄味のある笑みを浮かべた。

「私は商人です。波乱は商売の種でね。生きのびてみせますよ」

「愚問だったな」

 サロモンは絵をカバンに戻し、足元の小型金庫を開いた。中には、一千デューカの金貨が詰まっている。

「差し上げたばかりで恐縮ですが、少々お貸しください」

 メッテルニヒは声を上げて笑った。

「律儀な男だ。好きなだけ取るがいい」

 サロモンは窓を開いて金貨をばらまいた。

「それ! 金貨だ!」

 若者たちは石を捨て、金貨に群がった。メッテルニヒは学生たちを見下ろしながら、哀しげにつぶやいた。

「私も商人になるべきだった」

「あなたが商人になられたら、セクフィールは眠れません。いつ寝首を掻かれるか分かりませんので」

 メッテルニヒは笑顔で応えた。

「サロモン、その絵は持っていけ。これまで支えてくれた礼だ。君の一族に『黄金の砦』の謎を解く力があるなら、セクフィール家はさらに100年栄えるだろう」

 サロモンはしかし、列像の謎を解くことはできなかった。それでもセクフィールは度重なる革命を切り抜け、100年を越えてもなお勢力を拡大し続けていった。

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