第3話 罪深いパスタ
「あのねぇ、先ず言っておきたいのは、致してる最中に話し掛けて来ないでほしいのよ!気持ち良いとかいちいち聞かないでほしいの……!」
「分かるわよ、マリー。男ってそればっか」
ドンッとビールジョッキを机に置いてマリーを抱き締めるのは最近恋人と別れたというイボンヌ。
酒の入った愚痴大会はいつの間にやら周りの女たちを巻き込んで、大騒ぎになっていた。誰かが恋人や夫に対する悩みを打ち明けると、別の女が「私も私も!」と声を張る。
「だいたいさ、生理的に無理になるのよね。もうキスするのもオエって感じ!」
「あら、私はダーリンと毎朝キスするわよ?」
「それはペチュニアが新婚だからよ」
「永遠の愛なんて幻想だし、幸せな家庭もよく分からない。ただあの家に帰りたくない……どこか遠くへ行きたい」
「あぁ、マリー。今晩はうちに泊まる?」
「ダメダメ。今頃きっと真っ赤な顔して私のことを探しているわ。出来損ないの石女が逃げたって知ったら、お義母さんも夫もさぞかし怒るだろうし……」
ふふっと小さく笑ってマリーは机に突っ伏した。
空になったグラスを頬に押し当てる。
もう帰らなければいけない。こんな酒場で見ず知らずの女たちと夫の愚痴で盛り上がっていることがバレようものなら、きっとマイセンは激怒するだろう。
今まで厳しい夫と義母の監視のもと、マリーは一人で外出をすることすら許されていなかった。もちろん友達も話し相手も居ない。田舎で仲が良かった友人たちとも徐々に疎遠になって、今はどうしているのか知らない。
囲い込まれるように逃げ場を失い、マリーの生活にはハワード男爵家がすべてだった。
「これはこれは、恐ろしい会合が開かれてるね」
揶揄うような軽い声が頭上から降って来た。
ぼんやりと顔を上げると、さらりとした金髪を短く切り揃えた美しい男が立っていた。女たちの反応からして、彼が先ほど客が話していた人気者なのだろうか。薄いブルーの瞳がマリーに向けられる。
「見ない女の子が居る。君は?」
「ネイト、ダメだってばぁ!マリーは人妻よ」
マリーが名乗る前に群衆の中の女の一人が口を開く。
ネイトと呼ばれた男は目をぱちくりとさせて驚いた素振りを見せると「それは残念だ」と言った。
とろりとした脳を働かせて考える。
こんなお世辞になんて答えたら良いかを。
しかし、言葉をつまみ出す前にネイトという男は女たちの海に呑まれた。あっちこっちから腕を引っ張られて自分の元を去る後ろ姿を見つめる。
(遊び慣れてそうな人……マイセンとは大違い)
マリーと結婚した時、マイセンはマリー以外に付き合った女の人数は一人だと告白した。しかしそれは、自分に釣り合う女が居なかったためであって、陰では女泣かせの令息だと噂されていたと。
夫の虚言癖と言い訳がましい性分には理解を示していたつもりだったけれど、それも他での不満が積もるにつれて腹立たしく思うようになっていった。
野菜が嫌いなわけではない、料理人の腕が悪いのだ。
肉付きが良いわけではない、貯蓄の才があるのだ。
薄くなってきた頭髪に関して「髪型にとらわれるべきではない」とマリーに力説してきた最近のマイセンを思い出して、込み上げたムカつきを再び酒で流した。飲み過ぎたせいか喉が焼けそうだ。
あれが愛だと言うの?
四六時中妻を手元に置き、自分の感じた不満や鬱憤を壁打ちのように話して聞かせる。夜になると「夫婦の務め」と宣って自分が飽きるまで妻を抱く。そして、自分だけ満足するとそそくさと寝入るのだ。
この生活はいつまで続くのか。
子が生まれたら、解放されるのか。
されるわけがない。
マリーには分かっている。子供が出来たら次は義母が熱心に子育てに参加してくるのだろう。無関心な義父はきっと助け舟など出さず、乳のあげ方から子の食事、果ては教育とは何たるかを意気揚々と指導し始める。
マリー、マリー。
どこに居てもマイセンの声が聞こえるようで。
「あー、えっと……マリー?」
「うるさい………!」
思わず勢いよく叫んだら、声を発した本人は驚いたように身を引いた。
マリーは慌てて顔を上げる。こんな場所にマイセンが居るはずもないのに、勘違いして大声を出したことを恥ずかしく思いながら。
「すまない、気を悪くしないでほしいんだ」
立っていたのは先ほど声を掛けて来たネイトだった。
女たちに揉まれたのか、わずかにクシャッとしたジャケットを脱いで、隣の椅子に腰掛ける。勘違いして怒鳴った手前居心地が悪くて、マリーは机の上に置いた自分の両手を見つめた。
「………ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて」
「気が立っていたんだね。猫みたいで怖かった」
「悪かったってば、」
思わず身体を捻ってそう言うと、ネイトは冗談めいた顔をして笑った。一瞬だけ、時間が止まったように感じる。
「仲直りに握手でもしておく?」
差し出された手をブスッとしたままで握った。
自分より大きながっしりした手のひらに包まれる。
「……貴方の手って大きいのね。なんだか安心する」
「え?」
「あ、変な意味じゃないの!最近ちょっと塞ぎ込んでいて気が滅入っていたから……少し落ち着いただけ」
「そんなこと初めて言われたなぁ、」
ネイトはそう言ってへらっと頬を緩める。
この店はパスタが美味しいんだ、と言ってネイトは慣れた様子でシンシアに注文を入れる。時計はとうに零時を回っていたから、マリーは咄嗟に口を開いた。
「こんな時間にパスタだなんて!」
「こんな時間だから良いんだよ。良い感じに酒に酔ってフラフラした身体にとどめの一撃だ」
「巻き添えは遠慮しておくわ。私はここで貴方が食べてる様子を見ることにする」
「君は保守的だね」
ネイトは小さく笑った。
笑うと目尻が下がって、可愛い顔になる。
知らず知らずのうちに彼の反応を目で追ってしまう自分に驚きながら、恥ずかしく感じていた。
頭の奥でまたマイセンの声がする。「マリー、マリー」と自分の名を呼ぶ忌々しい声に耳を貸さないように、再びマリーはグラスを傾けて目を閉じた。
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