第26話
目を覚まして最初に見えたのは見慣れない天井だった。そのままぼーっと天井を眺める。華恋はひたすら天井を眺めた後、首を横に向けた。
そこには愛しい人の寝顔があった。男らしい端正な顔を隠す前髪をそっと指で払いのける。きついイメージをもたれがちな切れ長の目は今は閉じられていて何だか可愛く見えた。華恋は思わずふふっと笑い声を漏らした。
「んぅ」
英治の唇から声が漏れ、華恋は慌てて指をひっこめた。が、遅かったらしい。英治の瞼が震え、ゆっくりと開く。
「え、英治?」
恐る恐る名前を呼ぶと、英治は華恋をじっと見つめ「……おはよう。華恋」と言ってはにかんだ。その微笑みにノックアウトされた華恋は声にならない呻き声を上げる。
不意に英治が右手を伸ばし、悶えている華恋の頬に触れた。
「な、なに?」
質問には答えず、左手を華恋の身体に回し強引に引き寄せる。小柄な華恋の身体は英治の腕の中にすっぽりとおさまった。
いきなりのことに華恋は驚きはしたが、嫌では無かった。むしろ、触れた素肌が気になってしかたない。心臓が今にも口から飛び出しそうだ。しかも、昨晩の記憶が蘇ってきて冷静ではいられない。
華恋がプチパニックになっていると英治が溜息を漏らした。
「幸せだ」
「っ」
心の底から溢れたような声色に華恋はなんだか胸が締め付けられた。離れようともがいていたのを止め、華恋からも抱きしめ返す。
「私も」
蚊の鳴くような声で言うと、頭上から英治の笑い声が聞こえてきた。ムッとして顔を上げる。眼前に英治の顔があって固まった。英治はいつになく優しい瞳で華恋を見つめていた。顔が近づいてくる。華恋はそっと目を閉じた。
少しかさついた唇が触れ、漏れた吐息が混じり合う。次第に激しくなっていく口づけ、もしや朝から……と華恋が半ば覚悟を決めた時、英治が離れた。
何事もなかったかのように、上半身を起こす英治。
「飯、食う?」
「う、うん」
華恋も素知らぬ顔で身体を起こした。けれど、立ち上がろうとして、足に力が入らずこけそうになる。咄嗟に英治が支えたおかげで助かったが……危なかった。申し訳なさそうに華恋を見つめる英治。
「悪い。……運ぶ」
華恋は最初その『悪い』が何に対してなのかわからなかった。数秒後、理解して顔を真っ赤に染める。
「だ、大丈夫。ぅわっ!」
英治に抱き上げられ声を上げた華恋。どうやらお姫様抱っこで移動させてくれるらしい。恥ずかしいが、甘えることにした。正直まともに歩ける気はしなかったので……。
皿の上に次々乗せられていく、程よく焼かれたトーストと、目玉焼き、ウインナー、ミニトマト、レタス。相変わらず手際が良い。華恋は目を輝かせた。
「美味しそう。ありがとう~」
匂いにつられて食欲が湧いてきた。今にもお腹が鳴りそうだ。けれど、それに対して英治は苦笑した。
「いや、こんなあり合わせで悪いな」
「全然! 私なんて朝ごはん食べない日もあるくらいなのにっ。それに、誰かとご飯食べられるだけでも嬉しい。ありがとう!」
「そうか……食べようか」
「うん!」
深くつっこむことはしない英治の優しさが嬉しい。昨日もそうだった。華恋の両親に対して思うことは多々あっただろうに口にはせず、ただ華恋の側にいてくれた。
ミルクをたっぷりいれたコーヒーを口にしながら華恋は思う。こんな幸せな時間が長く続いてくれたらいいなと。この願いは叶えることができる願いだ。
英治は先に気持ちを示してくれた。今度は自分の番だ。
華恋は姿勢を正して英治を見つめる。
「英治」
「ん?」
「新しい『お願い』があるんだけど……聞くだけ聞いてくれる? 無理そうだったら気にせず断ってくれていいから」
「どんな『お願い』だ?」
「私も英治の両親に挨拶に行きたい」
想定外だったのか英治が固まった。華恋は黙って返事を待つ……つもりだったが、耐えきれなくなって口を開いた。
「無理、かな?」
我に返った英治が慌てて首を横に振る。
「いや大丈夫。むしろいつ連れてくるんだって言われているくらいだから。そうだな……じゃあ日程決まったら知らせる」
「そ、そうなんだ? ありがとう。お願いします」
「ああ」
華恋はホッと息を吐き、微笑んだ。
◇
「で? もう相手の両親に挨拶しに行くんだ」
「挨拶っていうか、顔合わせというか。そ、それよりこういう時の手土産ってどういうのがいいのかな?!」
前のめりな華恋を見て麻友が苦笑する。
「なんか私が前に言った通りの展開になってるね~」
「う、それは本当にそう」
「婚約が決まったら教えてよね」
「う、うん。それはもちろん!」
麻友からジト目で見つめられ、わざとらしい笑みを浮かべる華恋。しばらく見つめ合った後、先に折れたのは麻友だった。
「まあ、華恋が幸せならそれでいいよ」
「ありがとう」
へへっと微笑む華恋を見て麻友も微笑む。英治と付き合い始めてから、華恋は随分変わった。麻友も見たことのない一面を見せるようになった。華恋と華恋の両親の歪な関係性にやきもきしていた身としては……この変化は悔しくもあり、それ以上に嬉しく思う。
――――いや、やっぱり悔しいが勝つかも。私ができなかったことをこんな短期間でやってのけやがって。……でも、華恋にこんな顔をさせることができるのなら。この先も華恋を幸せにしてくれるのなら認めてやろうじゃないか。
と英治は己が知らないところで
◇
英治の両親との顔合わせは比較的早く実現することになった。華恋の両親の時のようにどこかで待ち合わせ、ではなく、今回は英治の実家への招待。それはそれで緊張する。
華恋は大きな一軒家の前で強張った顔で立っていた。
「大丈夫だから」
「う、うん」
華恋が頷いた瞬間、英治がピンポンを鳴らした。止める間もなかった。な、なんでっと英治を見上げるが、英治は素知らぬ顔。
そうしているうちに家の中から複数の足音が聞こえてきた。華恋は慌てて背筋を伸ばす。すぐに扉が開いた。
中から出てきたのは華恋とさほどかわらない背丈の女性。華恋は目を丸くした。――――もしかしてこの方がお母さんだろうか。
尋ねていいものか迷っていると、さらに奥から英治によく似た大柄の男性が現れた。
女性が柔和な笑みを華恋に向ける。
「あなたが華恋ちゃんね。いらっしゃい」
「お、お邪魔します! これ、どうぞ」
「あら。ありがとう」
この日の為に行列に並んで買った有名な和菓子。女性が受け取ろうとすると、後ろから大きな手が伸びてかっさらっていった。小さく目礼して踵を返して部屋へ戻って行く。華恋が呆然とその背中を見送っていると女性がふふふと笑った。
「お父さん、和菓子大好きなのよ」
「そうなんですか。それはよかったです」
どうやら目の前の女性とあの男性が英治の両親で間違いないらしい。
「お母さんそこで話してないで中に入ってもらいなよ」
「そうね。どうぞ」
通されたリビングには健太もいた。目が合うと片手を上げてきたのでぺこりと頭を下げて返す。裕子は健太の隣に座り、英治と華恋は空いた席に腰を下ろした。
会う直前まではかなり緊張していた華恋。だが、帰る頃にはすっかり打ち解けていた。というのも、なぜか森家は想像以上に歓迎ムードだったからだ。華恋が戸惑う程に。
後でこっそりお母さんが教えてくれたが、最近まで森家では『英治は生涯結婚しないだろう』という認識だったそうだ。昔からそれなりにモテるのに全く浮いた話がない。女の影すらない。結婚願望もない。孫は諦めるしかない。そう思っていたところに、まさかの華恋の登場。両親はもろ手で喜んだ。しかも裕子から見てもいい子だという。これは逃したらダメだ。ということだったらしい。
何とも言えない理由だが、受け入れてもらえたことは素直に嬉しい。特にお母さんから気に入られたのが。英治の母親は華恋に親近感を覚えたらしく、今度一緒に買い物に行かないかと誘ってきた。英治は止めようとしたが、華恋は「是非に!」と即答した。
「お母さんとの買い物憧れてたんです!」
何気なく放った言葉だったが、一瞬皆が固まった。いち早く我に返ったのは英治だ。
「なら、俺が車をだそうか?」
「英治は仕事があるだろう。俺が出そう」
被せるようにお父さんが言う。
「いやいや、華恋が休みなら俺も休みだから」
すかさず英治も言い返す。睨み合う男二人に割って入ったのは裕子だ。
「それなら私が出すわよ! そのまま女子会しましょうよ」
「それいいわねえ」
「いいですね! たのしそう!」
盛り上がる女性陣。こうなってくると男性陣は口を挟めない。仕方なく三人(裕子が行くなら俺もと騒いでいた健太を含む)は諦めたのだった。
夕飯までしっかりいただいた後、二人は帰路に着いた。お母さんは泊まればいいのにと二人を引き留めようとしたが、さすがに今回は遠慮した。着替えもないんだからと援護してくれた裕子のおかげですんなり帰ることができた。
歩きながら思い出し笑いを華恋が漏らす。英治は首を傾げた。
「いい家族だなあと思って」
「……華恋ももうその一員みたいなものだろ。母さんなんてすっかりその気だからな」
「ふふ。本当なら嬉しいなあ」
「本当だよ。華恋はうちの家族の好みドンピシャだからな」
「ええ?」
くすくすと笑いながらも嬉しくてたまらないと微笑む華恋。そんな華恋を見て、英治は目を細めた。
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