第6話

「はあ、やっぱり健ちゃんは最高だな~」


 大学の講義も終わり、推しグッズを取り出して眺める。その瞬間に疲れが吹っ飛んだ気すらする。隣に座っていた麻友が何故か感心したような声を上げる。


「本当に華恋は健ちゃんが好きだね。華恋にそんな表情をさせることができるのは健ちゃんくらいじゃない?」

「私もそう思う」

「ねえ、もしもの話だけどさ……偶然道端で健ちゃんと出くわしたとしたら華恋はどんな反応するの?」

「え、そんなのダッシュで逃げるに決まってるじゃん。そんで、一人になった後叫びまくる」


 真面目なトーンで答えた華恋に、麻友が目を丸くする。そして、次の瞬間爆笑した。「叫びまくるって……発狂してるじゃん。そんな華恋見てみたいわ〜」と目尻の涙を拭いながら笑う。この時、至って真剣に考えて答えた華恋は何故そんなに笑われないといけないのかと仏頂面になったものだった。



 ◆



 そして、今。華恋の目の前には推しがいる。まさに、発狂案件だ。にも拘わらず……華恋の意識は違うところに向けられていた。気もそぞろな華恋に伊藤は全く不機嫌そうな顔はせずに、むしろ楽しそうに華恋の様子を窺う。


「ねえ、君の名前ってなんていうの?」

「……はい?」


 隣の会話に耳を澄ませていた華恋が、数秒遅れで反応する。内心ニヤニヤしている伊藤は華恋をじっと見つめたまま返答を待った。

 伊藤と目が合い、華恋の心臓がドキリと鳴る。それはトキメキ……とは違う。バレてはいけないものがバレてしまった時の感覚に似ていた。


「あ、あの……申し訳ないんですけど、もう一度言ってもらえますか?」

「もちろん。君の名前、教えてくれる?」

「あ(そういえば自己紹介してなかった)。えっと、私は渡辺 華恋です」

「渡辺ちゃんね! 俺は伊藤 健太っていいます」


『知っています』と心の中で返しながらも華恋は頷き返した。この時、華恋の中でファンとしての意識が薄れていた。

 本来、推しに認知されるということは大事件のはずだった。でも、華恋にはどうしても気になることが他にあったのだ。


「あの……つかぬことをお伺いしますが。もしかして、一緒にいた方って……」

「俺の奥さんだよ」

「そう、なんですね」


 人妻奥さんという響きにホッとする。そして、そんな自分に困惑した。

 ――――なんで私は今ホッとしたんだろう?

 わかるのは、健ちゃんが奥さんと一緒にいるところを見ても別にショックではなかったということ。 

 やっぱり、麻友の言う通り、健ちゃんへの想いは恋ではなかったのだろう。そんなことをぼんやりと考えていると……


「渡辺ちゃんってさ」

「は、はい」


 伊藤の真剣な眼差しとぶつかり、華恋の緊張感が一気に膨らむ。

 恋ではなかったとしても、推しは推しだ。目の前にいるのは華恋が長年推し続けている人。その推しの瞳に自分が映っているということを理解した華恋はパニックに陥った。


 ――――え? 何で私が健ちゃんと二人きりになってるんだっけ? いつから? もしかして、さっきから話しかけられてた? 私、何て返したっけ? 失礼なことしちゃった?! え、どうしよう。こわいっ。は、はやく戻ってきて森さんー!!!!!


 一人百面相大会を繰り広げている華恋。伊藤はすっと瞳を細めた。


「もしかして……」


 ――――な、何?! いったい何を言われるの?!


 心境的には親にいたずらがバレそうになった時の子供と一緒だ。心当たりがあり過ぎて顔が強張る。その時、救いの女神の声が聞こえてきた。


「健。困らせてないでしょうね」

「もちろん」


 伊藤の奥さん登場に、前傾姿勢だった伊藤はすっと身体を後ろに戻して両手を上げた。そんな伊藤の態度に伊藤の奥さんは目を細めた後、華恋に視線を移した。華恋の背筋が自然と伸びる。


「大丈夫だった? 健に嫌な気分にさせられなかった?」


 嫌味とかではなく心底心配そうに華恋に聞いてくる。華恋は直感した。あ、この人すごく良い人だ、と。麻友と同じ、面倒見がいい姉御肌のタイプだ。華恋はコクリと頷いた。


「はい。大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます」

「それならよかった」


 伊藤の奥さんが微笑む。華恋はその笑顔に見惚れた。


「あ、そうだ。英治を返すわね」


 伊藤の奥さんの視線の先には英治がいた。華恋は目を丸くする。英治の様子が明らかにおかしかったからだ。

 いつもは無表情で感情が読み取りにくい英治が、今はわかりやすくしょんぼりしている。


 華恋は戸惑いながら伊藤の奥さんを見上げた。伊藤の奥さんが首を傾げ、そして「ああ」と声を上げた。


「私、伊藤 裕子ゆうこっていうの。旧姓は森」

「あ、私は渡辺 華恋っていいます。……って、え? 森?」

「そう。そこで亡霊のように立っている森 英治の正真正銘血が繋がった姉よ」


 にっこりと微笑む裕子。

 華恋は絶句して、英治と裕子の顔を見比べた。――――言われてみれば似ている……気もする。

 今の英治だとピンとこないが、あの夜見た英治を想像するとしっくりきた。

 そして、もう一つ気づいたことがある。あの日、華恋が渡された服はもしかして裕子のものだったんじゃないだろうか。


「あの、森さん」

「ん?」

「この前泊めてもらった時の服って」

「え?」


 大きな声が聞こえてきて驚く。裕子が目を丸くして華恋と英治を見ていた。


「今、泊めてもらったって言った?」

「あの、それは」

「姉さんには関係ないだろ」


 慌てて華恋が説明しようとするのを英治が遮る。裕子がキッと眉を吊り上げ、英治に吠えた。


「関係ないことはないでしょう! そういうことは隠さずに」

「まあまあ、英治ももう成人済みの男なんだからさ~」


 そう言って、すかさず健太が間に入る。そして、強引に裕子の手を引いて自分達の席へと戻って行った。

 英治が溜息を吐く。ビクリと華恋の身体が揺れた。

 英治は何事もなかったかのように席につき、華恋も座りなおした。


 ようやく二人きりになったものの、英治が纏う空気感に戸惑い何と話しかけていいかわからない。健太と二人きりだった時とは違う緊張感だ。

 それでも、勇気を出して話題を振ってみたが、会話らしい会話は成り立たなかった。

 明らかに空気が悪い。そのうち、隣の席から舌打ちが聞こえてきた。

 今度は英治の身体がビクリと揺れる。華恋は驚いて英治の顔を見た。


 ――――もしかして、裕子さんと何かあったのかな。……聞きたいけど、聞けない。


「帰りますか?」


 絞り出して出てきたのはそんな言葉だった。何故か一瞬英治が傷ついたような表情を浮かべる。慌てて華恋は取り消そうとしたが、英治は頷いた。


 店を出て、二人並び、もくもくと歩く。

 あっという間にコンビニ付近まで辿り着いた。ここから先は二人の帰る道が違うので別れなければならない。


「それじゃあ。あの、今日はありがとうございました。お姉さん達にもよろしくお伝えください」


 元々、英治に驕るつもりだった華恋。ところが、いざ会計しようとしたらすでに健太がしれっと華恋達の分の会計を済ませてくれていた。一応本人にも感謝を述べたが、英治が仏頂面で先に店を出てしまったのできちんと挨拶ができなかった。


 ――――今日はダメだ。今度改めてお礼をしよう。

 色んなことが重なり、精神的に華恋は疲れていた。

 とにかく、今日はもうさっさと帰ろう。そう思って足を進めようとした。


「ゴメン」

「え?」


 突然の英治からの謝罪に驚いて足を止める。振り向けば、英治がじっと華恋のことを見つめていた。ドキリ、と心臓が鳴る。

 まるで叱られた子供のような表情を浮かべている英治。こんな英治を見るのは初めてだ。

 ――――今日はいろんな森さんの一面を見ている気がする。


「何のことですか?」

「健太が、姉さんと一緒にいるところに会わせてしまったから……見たくなかったよな」

「え?」


 言葉の意味がわからずに固まる。何故英治がそんなことを言うのかわからない。……理由を考えて気づいた。

 ――――そっか。森さんは知っていたんだ。私が健ちゃんのファンだってこと。でも、なんで?


「なんで、私が伊藤さんのファンだって知っているんですか?」

「それはっ」


 英治の目が左右に泳ぐ。華恋の眉間に皺が寄った。

 今まで会社では私的な会話は避けてきた。それは誰に対してもだ。特にオタクバレは後々面倒なことになりそうだから徹底的に隠してきたつもりだ。

 それなのに、なぜ英治は知っているのか。華恋は訝しげな視線を英治に浴びせ続けた。


 とうとう諦めた様に英治が話し始める。


「俺、昔あいつの……健太のマネージャーをしていたんだよ」

「……え? まって、本当に?」

「本当に。高校が一緒で、当時一緒にバンドも組んでて、その延長でって感じで」

「それで……」


 ――――だから、健ちゃんと仲良さそうにしていたんだ。え? ちょっとまって。森さんがバンド?! 想像できないんだけど?! 何してたの?! ギター? ベース? ドラム? まさかのボーカル?!


 華恋が脳内パニックになっている中、英治が真面目な顔で華恋を見つめる。その視線に気づいて、華恋は慌てて一旦考えるのをやめた。目の前にいる英治の話に集中する。


「それで、何度か渡辺さんをイベント会場で見たことがあった」

「え"」

「現場スタッフが足りない時に俺が助っ人に入ることもあったから」

「なる、ほど……」


 華恋は推しに認知されたくないタイプのファンだ。SNSはもっぱら見る専門でコメントはしないし、握手会のような直接会うイベントはわざと避けていた。その代わり、それ以外のイベントにはほぼ参加していた。周りは同じ推しを持つ者同士ばかり。だから、華恋は遠慮なく素をさらけ出していた。普段の華恋からは想像もできないテンションで。


 そんな自分を英治に見られていたと考えると、過去のこととはいえ恥ずかしくてたまらなくなってくる。

 華恋は両手で顔を覆い、呻き声を上げた。

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