ずっと見守ってるからね
午後十一時すぎ。年が明けるまであと一時間を切った。リビングの電気は消え、みんなそれぞれ部屋に戻っている。いつもなら一人の部屋に、今日は彼女が居る。
「葉月ちゃん、ぎゅーして」
「……甘えますね」
「駄目?」
彼女は答えず、仕方ないですねという顔をして私を抱きしめた。背中に腕を回す。心臓の音が、とくんとくんと伝わってくる。相変わらず少し速いけれど、付き合ったばかりの頃よりは落ち着いている気がする。
「……お母様にも、こうやって甘えてたんですか?」
「……自分からはあんまり甘えられなかったけど……母さんの方からこうやって甘えに来ることはたまにあったかも」
今考えるとあれは、私が母を甘やかしていたのではなく、母が上手く甘えられない私を甘やかしてたのかもしれない。そして私も多分、無意識に同じことをしている。『甘えるのは下手だけど甘やかさせるのは上手い』という彼女の言葉の意味がようやく、なんとなくだがわかった気がする。
「……大晦日は、いつも日が変わるまで起きてます?」
「うん。いつもはね。葉月ちゃんは耐えられずに寝ちゃいそうだね」
「そうですね……でも、今日はあなたに付き合いますよ。あと一時間ないくらいですし」
とか言いつつ、もうすでに寝落ちしそうだ。とんとんと背中を叩いてやると「寝かしつけようとしないでください」と文句を言いながらもゆっくりと眠りに落ちていった。
「ふふ。結局寝ちゃったね」
彼女を起こさないように腕の中から抜け出してスマホを取る。時刻は十二時前。あと十分ほどで日付けが変わる。一旦スマホを置いて、彼女の寝顔を眺めながら時間を潰していると、スマホが光出した。恐らく、友人達からのあけおめメッセージだ。スマホを確認すると、もう日付けが変わっていた。メッセージに個別に返信をしていくが、彼女は全く起きる気配はない。安らな寝息が聞こえてくる。
「葉月ちゃん、年明けたよ」
返信を終えて、彼女に声をかけて軽く叩く。うっすらと目が開いた。もう一度年が明けたことを伝えると、むにゃむにゃと言葉にならない言葉で返事をしながら私を腕の中にしまい込んだ。背中に腕を回して目を閉じると、母の姿が脳裏に蘇る。
「明菜、仕事はどう? 辛くない?」
「全然。むしろ楽しいくらい」
働き始めて間もない頃。心配そうに問う母に私はそう言った。それは別に母を心配させたくなくて言ったわけではなく、本心だった。それはきっと、母にも伝わっていたと思う。
「良い会社に入れて良かったね」と言いながら私の頭を撫でる母は、どこかホッとしているように見えたから。
「それで、今はどう? 楽しい?」
記憶の中の母が私に問う。「今?」と聞き返すと「そう。今。幸せ?」と母は微笑む。
「明鈴と明音も、もう高校生になったんだっけ?」
「……ああ、うん。もう三年生になったよ。シュウとちぃも大学生になって、一人暮らしを始めて……吉喜は、結婚してオランダに移住しちゃって、前より少しだけ寂しくなったけど……でも、凄く、幸せだよ」
「そう。良かった」
「……うん。……あと、私ね、大切な人が出来たんだ」
「前に連れて来たよね。葉月ちゃん、だっけ?」
「うん。中学の後輩。可愛いでしょ」
そうだねと微笑む母の隣には、いつの間にか父も居た。私が最期に見た姿と変わらない姿で現れた父は「良い子だよなぁ。あの子」と頷く。
「あと、シュウの彼女も。みんなあんなに小さかったのに立派になって」
「吉喜なんてもう既婚者だよ」
「あぁ、あの木靴くれた外国人の男の子な」
「オランダ人だよ。向こうに住んでるんだ」
そういえばと思い、ふと二人の足元を見ると、色違いでお揃いの木靴を履いていた。以前ルーカスがお土産にくれたやつだ。
「履いてるんだ。それ」
「ああ、うん。木靴なんて履き慣れないから足痛くならないか心配だったけど……よく考えたら俺達もう死んでるから関係なかったわ。わはは」
「なんだそれ」
父の笑えないジョークに苦笑していると、父は急に真面目なトーンで言う。「明菜は、海外に移住しないのか」と。
「……しないよ。私はこの国で……父さんと母さんと暮らしたあの家で、最期を迎えたい」
以前、彼女に一緒に住まないかと言われたことがある。双子を理由に断ったが、他にも理由があることはまだ彼女には話していない。
「……俺も母さんも、もうここには居ないよ」
父は言う。母もそれに頷く。それは分かっている。それでも私はこの家に残っていたいと思う。どうしてと問われて、改めて考える。答えはすぐに出た。私はみんなで育ったこの家を守り続けたいのだ。秀明が、千明が、いずれ家を出て行く明音と明鈴が、帰りたくなったらいつでも帰って来れるように。出した答えを両親に伝えると、二人はなるほどと頷いて言った。「葉月さんともちゃんと話し合いなさいね」と。
「うん。大丈夫。ちゃんと話し合うよ」
そう答えると、両親はどこか寂しげに微笑んで、私を抱きしめた。「ずっと、見守ってるからね。私も、お父さんも」母のその言葉に頷いて、目を閉じる。次に目を開けた時にはもう、二人とも居なくなっていた。そして昨晩私を抱き枕にして眠った彼女も居ない。時刻を確認する。まだ夜中の三時だ。待っていれば戻ってくるだろうと思い、スマホを置く。ほどなくして、部屋のドアが開いた。おかえりと声をかけると驚くように一瞬だけ仰け反った。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「いや。大丈夫だよ。出てってたの全然気づかなかったから。今たまたま目が覚めただけ」
「そうですか」
「……うん」
「……なにか、嫌な夢でも見ました?」
ベッドに戻りながら、心配そうに彼女は問う。ついさっきまで夢の中で両親と話していたのだと話すと、彼女は相槌を打ちながら聞いてくれた。暗くて表情はよく見えないけれど、声は優しい。
「二人とも君のこと気に入ってくれてるみたいだったよ」
「そうですか。良かったです」
「……うん。……あとさ。大した話じゃないんだけどね、君に話さなきゃいけないことがあって」
「なんでしょう」
「……いや、やっぱり後で話すよ。今話してもきっと忘れちゃうから。二度寝しよ」
「起きられますかね」
「かといってずっと起きてるのは無理でしょ」
「そうですね。おやすみなさい」
彼女は再び私を抱き枕にして眠りにつく。彼女の安らかな寝息と心音に導かれて、私も再び眠りに落ちていくが、両親はもう現れなかった。
再び目が覚めたのは午前七時前。まだ寝ている彼女を起こさないようにベッドを出て、部屋を出る。
キッチンで朝食の準備をしていると、足音が聞こえてきた。この足音は千明だ。いつもは一番最後なのに珍しい。
「おはよう。千明」
「……はよ。……友達に初詣行こうって誘われたから、飯食ったら先行くわ」
「……ほう?」
初詣はいつも元旦の昼過ぎに行く。朝は混んでいるから。千明は特に人混みを嫌がる。友達に誘われたとしてもこんな朝から行こうと言われたらきっと断る。断らないということは、よっぽどその人と会うのが楽しみなのだろう。
「友達ねえ……?」
「……なにニヤついてんだよババア」
「朝一は混むぞー?」
「わーってるよそんなの」
「それでも会いにいくんだぁ? よっぽどその人に会いたいんだねえ」
「言っておくけど、ただの友達だから」
「はいはい。まだね」
「まだとか言ってねぇし!」
「ははは。私も早めに出ようかな」
「来んな。ぜってぇ来んな」
「それはつまり来いということだな」
「来るなつってんだろうがボケ!」
「はーい。ピーク過ぎるまで待ちまーす」
「クソが……」
と、やり取りをしていると、秀明と双子も起きてきた。しかし葉月ちゃんはまだ起きてこない。目玉焼きを千明に託して、様子を見に行く。部屋のドアを開けると、布団にくるまっている彼女と目が合った。
「おはよう」
「……おはようございます」
「まだ眠そうだね。三度寝する?」
「しません。起きます」
と言いつつも布団から出ようとしない彼女を強引に引きずり出す。
「……初詣、お昼食べてからですよね」
「ん? うん。シュウと双子と、あと吉喜たちも一緒に行くよ」
「……じゃあ、朝ご飯食べたら、少しお散歩しませんか」
「なに。私に話したいことでもあんの?」
「え、いや、あなたが話したいことがあるって……言いましたよね? 私の夢だったらすみません」
彼女に言われて、夜中に彼女と何かを話していたことを思い出す。半分寝ぼけていたから忘れていた。
「そうだね。うん。話さなきゃいけないことあるって言ったわ」
「……また今度にします?」
「いや、良いよ。話すよ。別にそんな深刻な話じゃないからさ」
朝食を済ませた後、千明と一緒に外に出る。行き先は特に決めていないが、とりあえず千明と逆方向に向かって歩く。
「前にさ、一緒に暮らそうって言ってくれたじゃない?」
「はい」
「双子を理由に断ったけどさ、もう一つ理由があったんだって、今日父さんたちと話してて気づいたんだ」
「……あの家から離れたくないから、ですか?」
私が言う前に答えを出されてしまい、思わず足を止めて彼女を見る。彼女はふっと笑って言った。「分かりますよ。それくらい」と。そして続ける。「私はあなたと一緒ならなんでも良いですよ」と。それは想像していた通りの返事で、思わず笑ってしまった。
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