第五話 先生、お茶しませんか?



 ――ピンポーン。




『はいっ』

『すみません、家庭教師の今葉です』

『あ、先生! 今から門を開けに行きますので、ちょっと待っていて下さいね!』




 火曜日の十七時、俺は授業のために水無瀬家へと足を運んでいた。

 インターホンから聞こえてきたのは、教え子である水無瀬玲歌の声。


 俺が来たとき応対するのはいつも彼女の父親だ。今日は何を教えるのか父親と確認してから授業は始まる。

 

 だがそんな彼も今日は不在で、それ故に返事をしたのは水無瀬さん本人――というかそれ以外にありえない。

 

 なにせ、この日は彼女以外誰も家にいないのだから。

 

 


 先日水無瀬家の当主からメールを受け取ったとき、俺は正直、懸念を通り越して不安になった。

 

 だって、教え子と教師が家に二人きりなんだぞ? 相手の親が家にいないんだぞ?   

この際、親の不用心さは脇に置くとしよう。

 

 俺が不安なのは、水無瀬さんがどんな行動をとるか、だ。

 あの日「愛してる」と告げられてから、彼女のスキンシップが妙に激しい。抱きしめることこそしないものの、授業中に腕を絡めてきたり手を繋いできたり、或いは名前で呼ぶことを求めてきたり(もちろん断った。そんなことを親に知られたら色々とまずい)。


 おそらく彼女はふざけてやっているのではない。

 

 だから――信頼されている、そう捉えることもできるだろう。

 家庭教師というのはどこまでいっても教師職だ。教えられる側にとっては「学校の先生」となんら大差はない。だからこそ距離が詰まったということは、家庭教師の存在は、義務的に関わる「先生」とは違うと判断されたということだ。関係を築く価値のあるとして認められたとも言える。


 パーソナルスペースの距離はもれなく心の距離。向こうから積極的に近づいてくるようになったのなら、本来であれば喜びべきだ。


 ――でも、彼女の場合は。そう安直には喜べない。

 言動一つひとつに、不自然さというか、歪さのようなものを感じるのだ。

 

 彼女の境遇ゆえに生まれた独占欲から来ているのだろうけど、それだけではないような気もする。ただ独占欲があるだけでは距離が近いことはあっても「愛してる」なんて言うことはない。

 

 ……もしかしたら、どこか心が「病んで」いるんじゃないか。そう思っているからこんなにも不安になるんじゃないか?

 そんな自問が頭に浮かんだが、しかし――


「考えても意味ない……よなぁ」


 そうだ。俺にできるのは、家庭教師としての仕事のみ。水無瀬さんが俺を好いていようとその気持ちに答えることはできないし、境遇を改善してやることもできない。

 

 俺はずっと彼女の想いを断りつつも傷つけない方法を模索していた。でも、きっとそれに意味はない。

 単純なこと。依頼者の水無瀬さんと、雇われた俺――その関係が保たれる限り、彼女は何をしようと自由なのだ。首を切るのも愛するのも、全ては水無瀬さんの一存。

 だから、俺が頭を悩ませるのは無駄なことなのかもしれない……


「……これが家庭教師、か」


 教え子の意向に従う。そこに口出しはしない。

 

 散々悩んで出した結論は、よくよく考えれば当然のものだった。経験不足が顕著に表れている。朱莉なら、中林さんならとっくに理解しているんだろうな……


 ……いいや、もう考えたって仕方がない! 

 今葉蒼真、お前はなんのためにバイトを始めた? 生徒に好かれる立派な家庭教師になるためか? 悩める生徒を己の手で導くためか? 某有名サービス「家庭教師のト◯イ」よろしく青スーツを着込んでCMを牛耳るためか? 

 あれ、いたるところに出没するよな。某有名テーマパーク所属黒ずくめの半人半ネズミよろしく。キャラクター性っていう点では家庭教師の鏡だなあの男。

 

 ……とにかく。俺の本来の目的はお金を稼ぐこと、そして金欠を脱することだ。

 

 バイトは真面目にやる。でも上を目指そうとしなくていい。余計なこともしなくていい。ただただ、依頼を忠実にこなすのみ、

 そして教え子の言うことを聞くのみ――。




「お待たせしました、先生っ。今日はお願いしますね」


 そんなことを考えていると、門が開かれて制服姿の水無瀬さんが出てきた。普段と何ら変わらない、優しい微笑みをたたえている。


「……ああ。水無瀬さん、こちらこそよろしく」


 対する俺も、普段と同じようにそう返した。





 門をくぐって家に入っていく。


「ところで先生」

「なんだ?」

「今日は私以外誰も家にいないって話、聞いてますよね?」

「……ああ。メールで聞いた」

「そうですか。です」

「……?」


 そう言って、水無瀬さんはにっこり笑ってみせた。


「それはどういう――」

「いえ、なんでもないです。ほら先生、中に入って下さいっ」


 何が「よかった」なのか尋ねようとしたが、それは水無瀬さんの言葉によって遮られた。

 まあいい。俺は家庭教師として、彼女の意向に従うと決めたのだ。

 

 十数回訪れた水無瀬家に足を踏み入れる。中央の廊下にだけ明かりがついていて、確かに他には誰もいないようだった。


「それで、水無瀬さん。今日はなにをやる? 特に指示はされてないから今までの復習とかでもいいけど」

「あっ、ちょっとその前に――お茶でもどうですか、先生?」

「っ?」


 水無瀬さんが唐突にそんなことを言った。

 ……い、今から授業だぞ?


「いやなんで……? もう十七時だから授業しないと」

「そ、それはそうですけど。でもお願いします先生っ!」

「そんなこと言われてもな……俺もお金をもらってるわけだし」

「……いいじゃないですか、少しぐらいっ!」


 ぷくぅっと頬を膨らませて、水無瀬さんが言った。初めて見る表情だ。


「じゃあお願いじゃなくて、いつも授業をしていただいている先生への私からのお礼です。これならいいですか?」


 あんまり変わってないぞ水無瀬さん。

 

 ――でも教え子の言うことには従うと決めたんだ……こういうことにも慣れていかんとな。依頼を反故にする罪悪感はあるので条件はつけるけど。


「……わかった。ただし三十分だけだ」

「ほ、ほんとうですか!? やったぁ、先生とお茶ができる……っ!」


 俺と水無瀬さんの二人は、二階の勉強部屋ではなく食卓に向かった。いつも依頼主の父親と話をする場所だ。


「ちょっと待っていて下さい!」

「ああ」


 そんな言葉を残して彼女は奥の方へと消えていった。俺は食卓の椅子に腰掛け、水無瀬さんが戻ってくるのを待った。


 

 ――五分後。水無瀬さんはトレイを持って戻ってきた。



「お待たせしました先生。どうぞ、私がつくったものです。お口に合うかはわかりませんけど」


 コトリと机に置かれたのは、白い陶磁のティーカップと花模様の皿。


「ありがとう……これ、チーズケーキか?」

「はいっ! 紅茶の方は私が好きなアールグレイです!」


 水無瀬さんは前の席に腰を下ろした。同じティーカップを手にしている。


「食べないのか、チーズケーキ?」

「ええ、私はこれだけで。それよりも先生とお茶しながらお話をしたいんですっ。気にせず召し上がって下さい!」

「そうか……なら、ありがたくいただくよ」


 家庭教師が教え子の家でお茶するとは、なんとも奇妙な状況になったものだ。

 促されるままフォークに手を伸ばす。

 チーズケーキは四角い形状にカットされていた。焼きめは絶妙な狐色で美しく、滑らかなクリームと上に乗ったイチジクらしき赤い果実がよく映える。素人目にも相当腕がいいとわかる。


「手作りなんだよな?」

「はい。昨日、夕食のためにデザートをつくったときの余りですが。……実は先生に食べていただくために、ちょっと頑張っちゃいました」


 夕食のデザートって。そんなものまでつくれんのかよ水無瀬さん、料理スキル凄いな。俺にはできそうにない……これは腕前とか以前に、お金がないからだな。

 というか俺、デザートとかスイーツなんてものを最後に食べたのいつだっけ。レストランでバイトしてたときの賄い以来な気がする。


「い、いただきます」


 フォークで一口大に切って口に運ぶ。


 



  ――舌に乗せたその瞬間、チーズの薫りと優しい口溶けが俺の中で広がっていく。

 なんだこれ……!? 本当にチーズケーキか!? 

 味も食感もとんでもなく上等な気がする……! 

 年中金欠の俺には菓子の味なんてこれっぽっちも判断できない。

 でもこのチーズケーキ……形容するのであれば「極上」が的確だ。それ以外はあり得ない……!


「……うまい。すごいなこれ……めっちゃうまい。こう、なんか言い表せないんだけど」

「ふふっ、いいですよ。言葉にしなくても。そのだけでわかりますから。喜んでいただけたのなら、つくってよかったです」

「これが手作りって、ほんとに凄いな……すごい滑らかだし、味付けも少し甘いぐらいなのが良いし、焼きめも綺麗で――――あれ」


 二口目を味わっていると、不意に。


「中になにか入ってるな……トロっとしたやつ」

「あっ、お気づきになりましたか! それが美味しさの秘密ですよっ」

「へぇ……ちなみに何を入れたんだ? 確かに一段と滑らかになったけど、味があんまりわかんなくてな」

「それはですね、先生――」


 水無瀬さんはもったいぶるように言葉をためた。


「――秘密、です! いくら先生にも教えられない秘伝のものなのでっ」

「そう、か。ならそういうことにしておこう」


 一口目もだったが、二口目は明らかに滑らかさが増した。トロリとしたものが柔らかな生地と腔内で混ざり合い、それはもう至高と言うに相応しい食感だった。だが不思議なことに味はせず、いうなればトロっとした水のような。正直何が入っていたのか気になったけど……彼女が秘密と言うので、深くは聞かないことにした。

 

 まだチーズケーキは半分以上残っている。大事に大事に味わおう、なにせ久方ぶりのスイーツだ――


「そういえば先生。先生って、彼女とかいるんですか?」




 なんやて工藤ぅ――――っっっ!?




「ぅぐふッッッ!? ――ごほっ、ごほっ!」


 咀嚼途中で喉につまらせたが、咳き込んでなんとか復帰。チーズケーキで窒息しかけた。


「わわわっ、大丈夫ですか!?」

「い、いや、ちょっと喉につまっただけ……彼女とか、なんでそんなこと聞くんだ」

「それはもちろん、知りたいからですよ。先生のことを、今よりもっと」


 などと供述する水無瀬さん。優しい笑顔を浮かべているのが非常に罪深い。

 紅茶を喉に流し込む。


「まあ……別に隠すようなことでもないか。いないぞ俺には、彼女なんて」

「おおー……そうですか……それを聞いて安心しました。ふふっ」

「なんでちょっと嬉しそうなんだ?」

「なんでもないですよっ! それより先生、彼女がいないのは今だけですか? それとも昔はいたんですか?」


 おおう……どんどん聞いてくるな水無瀬さん……。こういう類の話が好きらしい。女子高校生なんだからそれもそうか。


「いや、今も昔もいない。というかほしいと思ったことはない」

「ん、それはまたなぜですか? 好みの女性がいないから?」

「違うな。理由は……想像に任せるよ」

「じゃあ、そうですね……トラウマがあって女性が苦手、とか」

「ないな」

「一人でいるのが好きとか」

「特段そんなことはない」


 ううん、と顎に手を当てる水無瀬さん。どんなに考えても多分当てられないだろう。


「……はい、わかりました」

「なっ、ほんとか?」

「ええ――つまり先生は、」

「俺は……?」

「先生は、幼女趣味なんですね?」



 んんんなんでそうなった――!?



「全力で否定する」

「えっ、違うんですか!? てっきり制服やランドセルを身に着けた少女しか愛せないのかと、」

「だから違うっ!」

「でも先生、私のこと嫌いじゃないんですよね? ずっと優しくしてくれるから――先生も私を愛しているんですよね?」


 おっと、これはなんだか盛大な誤解がある模様。


「あのな、『嫌いじゃない』っていうのは『好き』と別物なんだ。例えば……水無瀬さん、担任の先生は男性か?」

「はい」

「なら、その先生のことは異性として好きか?」

「いえまったく」

「なら、逆に嫌いか?」

「はい。大っ嫌いです。今すぐにでもこの世から消えてほしいぐらいの汚物ですあれは」


 ……唐突に呪詛が。学校で何があったっていうんだ。


「……ま、まあいい。とにかく、俺は別にそんなものじゃない。ただお金がないってだけだ。いわゆる金欠、何年も前からな」

「お金がない、ですか……なるほど。それでは洋服も買えないですし、行ける場所も限られてきますからね」

「ああ。彼氏彼女って関係はなにかとお金を消費するんだ。だから万年金欠の俺には無理ってこと」

「ふふふ。ちょっと意外です」


 水無瀬さんは口元に手を当ててくすりと笑った。


「そうか?」

「そうですよ。だって先生は、いつも身だしなみは綺麗ですし清潔感もありますし、体も強そうで、お金に困っているようには見えませんでしたから」

「ああ、家事は毎日やってるからな、その辺りは勝手に身についた。体の方は、バイトを何個も経験してきたからだろ」

「頑張っているんですね、先生も。私と同じです」

「お金はいっこうに貯まらないんだけどな。親へ仕送りしてる上に都会で一人暮らしだし」

「じゃあ、今回水無瀬家から依頼を受けられたのは幸運ってことですね? 報酬が多いので」

「……そういうこと、子供が言うもんじゃないぞ」

「いえ、冗談ですよっ!」


 水無瀬さんは朗らかに笑ってみせた。それに少しドキッとしてしまったのは、なぜだろう。


「先生とのお話、とても楽しいです。私を変な扱いしないですし、なにより優しいです」

「お褒めに与り光栄だ、水無瀬さん」

「ふふっ、なんですかそれっ! 可笑しいです!」


 彼女の顔が一層明るくなる。今はもう咲く花の如き笑顔だ。


「じゃ……水無瀬さん。そろそろ時間だ。授業始めないと」


 腕時計を見ると、もう三十分を過ぎていた。




「え? 何言ってるんですか先生」




 だが、彼女はそんな言葉を返した。


「……? でもさっき、三十分って約束、」

「確かに言いました。でも、それは『お茶する』だけです」

「な、」


 水無瀬さんが見せた笑みは、先ほどとは違う。どこかおかしい笑みだった。


「授業なんてしませんよ――明日までずっとここにいて、私と愛し合いましょうねっ、先生?」




 ――この家に、明日まで?




「え……」

「いえ、間違えました」




言葉を失う俺に。水無瀬さんは楽しげに言う。




「私、先生のこと――絶対に帰しませんから。この家から出ないでくださいねっ!」

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