月の満ち欠け

湊 町(みなと まち)

第1話 暗い始まり

1948年、戦後の混乱期にある日本。月明かりが静かに湖面を照らす夜、古びた病院の廊下を歩く一人の女性がいた。彼女の名前は小野寺美咲。看護師として働き始めて数年が経ち、この病院の隅々まで知り尽くしている彼女だったが、この夜は特に重い足取りだった。


美咲は幼少期からこの病院で過ごしてきた。母親も同じ病院の看護師であり、戦争中もここで働いていた。美咲が初めてこの病院で感じたのは、命の重さとそれに伴う責任だった。しかし、今はそれに加えて、優生保護法の名の下に行われる数々の処置が心に重くのしかかっていた。


優生保護法が制定され、病院では日々不妊手術が行われていた。この法律は、遺伝性疾患や精神障害を持つ人々の出生を制限し、国民全体の健康を守るという名目で施行されていた。しかし、その背後には多くの人々の苦しみと悲しみが隠されていた。


美咲は手術室の前で立ち止まり、深呼吸をした。扉の向こうには、これから不妊手術を受ける患者が待っている。彼女の手には手術の準備が整ったことを知らせる書類があった。震える手でそれを見つめながら、彼女は心の中で葛藤していた。


扉を開けると、冷たい空気が美咲を迎えた。手術台の上には若い女性が横たわっており、麻酔が効いているため、意識はない。医師たちは既に手術の準備を進めており、美咲もその一員として手伝うことになる。彼女は手術道具を手に取り、医師に渡す準備をした。


「これから始めます。」医師の冷静な声が響く。美咲はその声に従い、手術の進行を見守る。しかし、彼女の心は別の場所にあった。目の前の患者が持つ命、その命を奪うことの重さが美咲の心を圧迫していた。


手術が進む中、美咲の頭の中には、母親の顔が浮かんだ。母親もまた、この病院で数多くの不妊手術に関わってきた。その母親が、ある日美咲に語った言葉が今も彼女の心に残っていた。


「私たちの仕事は、命を守ること。でも、時にはその命を制限することもある。苦しいけれど、それが私たちの使命なの。」


美咲はその言葉を思い出しながら、自分の手が震えるのを感じた。母親の信念を理解しようと努力してきたが、今目の前で行われている手術に対する違和感を拭い去ることはできなかった。


手術が終わり、患者が回復室に移されると、美咲は手術室を後にした。廊下に出ると、彼女は深い呼吸を繰り返し、涙がこぼれるのを感じた。自分の心に生まれた疑問と葛藤が、胸の奥で渦巻いていた。


その夜、美咲は家に帰ると、母親に会いに行った。母親は老いてなお、力強い眼差しで美咲を迎えた。二人は夕食を共にし、静かな時間を過ごした後、美咲はついに母親に心の内を打ち明けた。


「お母さん、私、本当にこれでいいのかわからない。私たちの仕事が、人々の命を制限することになっているのが苦しいの。」


母親はしばらく黙って美咲の言葉を聞いていたが、やがて静かに口を開いた。


「美咲、あなたの感じるその苦しみは、間違っていない。それは人として自然な感情。でも、私たちはこの法の下で働くしかない。もしもあなたが本当にそれに疑問を感じるなら、その声を上げることもまた、あなたの使命かもしれない。」


美咲は母親の言葉に深くうなずいた。彼女の心には、少しずつではあるが、新たな決意が芽生えていた。このままではいけない、何かを変えなければならない。そのために、自分ができることを見つけようと心に誓った。


翌日、美咲は再び病院へ向かった。廊下を歩きながら、彼女の目には新たな光が宿っていた。自分の疑問と葛藤を胸に抱きながらも、その先にある希望を信じて進む決意を固めたのだった。

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