未知の領域

 着替えを終えた後、閃迅は長く伸びる後ろ髪を鬱陶しそうに掻き上げ、チラリと晩猶を見る。ヘアゴムのような何かがあればいいのだろうが、彼にはおおよそ縁遠そうな代物だ。閃迅と目が合い、晩猶は首を傾げて自分の後頭部に手を回した。

「……オレの首に何か着いているのか?」

「いや、そうじゃなくて…髪を縛りたいんだけど、紐みたいなものとかある?」

「ああ、少し待て」

 晩猶が寝室内に置かれている棚の引き出しを引っ張り、鋭い爪先で白いリボンのようなものを慎重に取り出した。そして閃迅の近くまで戻ると、器用に彼の後ろ髪を纏めてリボンでひとつに括る。

「…これで良いだろ」

「お、ありがと。もしかして手馴れてる?」

「まぁな。人間になった時は自分でやっているから、嫌でも慣れてしまうわ」

「そっかぁ」

 意外そうに頷き、閃迅はまだ彼のことをろくすっぽ理解出来ていないのだと悟った。迅の部屋には「夜想帝国」の公式ガイドブックが並び、とりわけ晩猶のページは暗記できるまで読み込んでいる。しかし、実際に触れてみないと分からないことが多すぎるのだと実感した。

「…なぁ、晩猶ってさ」

「ん?」

「冬の寒さが厳しい日に人狼の棲む区域・狼邪ろうやで生まれ、元々血の気が多い人狼一族をまとめ殺戮ではなく対話で諸外国への外交を進めた後、次期皇帝になる為に穣華を訪れ夜想帝国前皇帝との一騎打ちに勝利し、皇帝の座に着いた…んだったよな」

「…そんなこと、誰から聞いた?」

「お、俺はばんちゃんの大ファンなんだ!それくらい常識だろ?」

 訝しげに問う晩猶の鋭い眼光に、閃迅は一瞬怯んだが気を取り直してそう返す。さも当然だろうと肩を竦める彼に、晩猶は渋々納得せざるを得なかった。

「……よく分からんが、まぁ大体そんなもんだな。他に聞きたいことは?」

「…人に変わってしまうことには、何か決まりがあるのか?」

「満月の夜だ。満月の夜には人になり、新月の月がない夜は…いや、これ以上は機密故に言えん」

 大筋の人物像が「夜想帝国」の資料通りであることに安心しつつ、閃迅は話題を変えようと寝室を出る。機密事項とやらも気になるが、今は街に出てみたい一心だった。

「そういえば寝室と風呂場しか見てないけど、おまえんちかなり広そうだな」

「歴代皇帝が住んでいた屋敷だから、そりゃそうだろ。それなりに年季も入っているし、増改築も繰り返されてきたからな。まぁ、要らぬものは廃したが」

 晩猶の住んでいる邸宅は皇帝という身分なだけあって、当初は羅紗の絨毯に大理石造りの壁と全体的に豪勢だった。しかし床面が大理石では冬季間特に冷たく、毛足の長い絨毯も晩猶の爪に引っかかる為、敷かれていた大理石を掘り起こして基盤から作り直し、板張りの床と安価な絨毯に張り替えられていた。工事費用は国庫から出たが、掘り起こした後の大理石は輸出目的の調度品に代わり、高値で取引されむしろ黒字になった。夜想帝国そのものは周辺の国家に比べて武力を誇る国だが、首都・穣華じょうかは数多くの職人を輩出・諸外国から迎え入れ、民芸品や調度品などの伝統工芸で財を成す、職人の街でもあった。皇帝の邸宅を改修した費用で浮いた資金は、技術者や職人たちの賃金だけでなく国境の外壁強化や外交のために使われ、無駄が一切無いという。

「人狼を護るための治世が、結果的に国全体を護ることになる。それは民を思えばこその結果となろう。賄賂や小細工など我には通用せぬわ」

 ただ野蛮で暴力的なだけではない、人狼ならではの施策やアイデアで、今まで夜想帝国の皇帝に君臨している。

 そこまでは迅も知っていた。

 問題は、なぜ非の打ち所がないように思える晩猶を「閃迅」が陥れたのか、そして何がきっかけで彼が罪人となってしまったのか未だに分からない点である。

 それもこれから向かう、穣華の街中で知ることができるのだろうか。

 謎は多いに包まれたままである。

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