初めて明かす夜

 ろくすっぽ身体も拭かず、浴衣のようなものを纏っただけの閃迅が後を追う。しかし晩猶は閃迅を待っていたかのように、緩慢な動きで前を歩いていた。流れる銀色の髪の間からいつの間にか、頭部には狼の耳が生えている。

「…俺を待っててくれたのか?」

「その…屋敷の中で迷われると、困る」

 追っていた背後から見える、晩猶の獣耳が小刻みに動き、彼が人狼であることを彷彿とさせる。迅は心の中で「ちくしょう可愛いじゃねぇか」と悪態をつきつつ、黙って彼の隣に並んだ。

「なんというか…俺が今まで知っていた晩猶は、ひたすら格好良くて強くて、誰にも弱みを見せない…そんな皇帝なんだよ。少し意外だな」

「そんなもの、御伽噺か何かの間違いだろう。おれは友に出会えただけで舞い上がる、ただの人狼だ」


 ぽつりと言葉を返しながら、晩猶が寝室の扉を開くと室内から芳醇な香りが漂ってくる。天蓋付きの寝台脇には、瑞々しい様々な果物の籠盛りが乗せられたワゴンが置かれていた。

「腹が減っただろうから、水菓子を用意させた。本来なら食事の方が好ましいが、生憎と厨房係は休んでいるのでな」

「いやいやいや、最高の選択だぜ…!ありがとう」

 閃迅は唇から零れそうになる涎を拭いつつ寝台に腰掛け、籠から葡萄のような果物をひと房手に取った。ひと粒もぎとり、皮ごと口に放り込んで噛み締めると薄皮が弾け、口の中に甘酸っぱい果汁が溢れる。果肉は適度な弾力があり、噛む度に甘さが増して広がった。種子はなく、食べやすい。

「うん~~~!!まっ!」

 再び粒をもぎとり、口に放り込む。その様子を見ると晩猶は満足そうに閃迅の隣へ腰掛け、自分の肩に掛けていたタオルで彼の長い黒髪を拭いていく。

「…んあ?」

「濡れたままでは風邪をひくだろう。おまえはそのままでいい」

「あ…ありがと…」

 もいだ葡萄のような粒を取りこぼしそうになりながら、閃迅は頬を赤らめ俯いてしまう。この世界に来る前に、自分の部屋でたぬこから聞いた『傍若無人な人狼の皇帝』という晩猶のキャラクター性が未だに信じられずにいる。

(傍若無人どころかめちゃくちゃ良い奴じゃねぇか…確かに第一印象は怖かったけど)

「…どうした?」

「ん」

 閃迅は手にしていたひと粒を晩猶の口元に持っていくと、晩猶はキョトンとその指先を見つめた。次いでゆっくりと口を開けば、その隙間にねじ込むように閃迅が果物を押し込む。

「むぅ…」

 もごもごと口を動かし、緩慢な動きで葡萄を咀嚼すると、晩猶の口許が僅かに綻んだ。

「…美味いな」

「だろー?ひとりで食べるには勿体ないぜ」

 閃迅がからからと快活に笑えば、突然彼の指先をぱくりと口に入れ、晩猶が舌先で舐った。閃迅が「ひゃ!?」と悲鳴を上げるが、構わず指先にざらりとした舌を這わせ、ようやく口付けを落として解放する。

「指に…果汁が着いていた。勿体ない、だろう?」

「やっ、あの、その…」

 自分の鼓動が耳元で大きくなり、閃迅は呼吸もままならぬくらいに顔を赤く染めた。この行為が何を意味しているのか、果たして晩猶は分かっているのだろうか。当の本人は上機嫌で桃のような果物を手にし、長い爪で皮を剥いている。

「…食うか?」

「食う」

 間髪入れず閃迅が皮の下から剥き出た柔らかく白い果肉に齧りつき、溢れる果汁を舌で受け止める。熟れて柔らかいその果物の味は白桃のようでいて後味は黄桃以上に濃く、とてつもなく甘い。

 晩猶も閃迅の噛み跡の横から齧り付いて、果汁を唇で受け止めた。閃迅と目が合って、思わずニヤリと笑みを浮かべる。

 こんなにも天然であざとく顔のいい皇帝が自分を構いっ放しでいいのだろうかと、閃迅は兼ねてから聞きたかったことを決死の覚悟で伝えた。

「あ…あのさ…晩猶って恋人とか妃とかいないのか?俺の世話ばかりしてていいの?」

「そのような存在はおらぬ。気にするな」

「…嘘だろ?!」

 即答が返ってくると閃迅が吠えるように言い、晩猶の顔に指をつきつけてまくし立てた。

「こんな…こんなにカッコよくて優しくてスパダリな上に可愛い獣属性もふもふのイケメンなのに!」

「急にどうした?すぱ…?何を言っている…おれにわかる言葉で説明しろ」

「だから!なんで俺が好きになるいい奴に限って、恋人がいないんだよ…!これじゃあ…」

 言い終えてから閃迅は晩猶の顔を見てハッとした。彼の表情は嬉しそうでいてなんとも言えない悲しみや憂いに満ちており、それは長年の苦労や様々なものを抱えているからこそなのだろうと悟ってしまう。突きつけた指は行先もなく彷徨い、ぱたりと閃迅のすぐ側に降りた。

「あ…悪い…その…いきなりごめん。俺、先に寝るな…」

「そうしろ。かなり疲れているのだろう。ゆっくり休め」

 寝台の掛け布団を捲ってもそもそと潜り込み、閃迅は大きく鼻から息を吸う。布団に染み込んだ晩猶の匂いをたっぷりと嗅ぎ、うつらうつらと瞼を瞬かせた。

「ばんちゃん、ずっとここにいてくれよ…離れたら怒るからな」

「ああ…わかった」

 寝言のように拙い言葉に苦笑を漏らし、晩猶も寝台へ横になる。閃迅のあどけない寝顔を見つめ、何か言おうとしたが口を噤んでそのまま枕に身を預けた。

(明日の朝おれの姿を見て、果たしておまえは同じことが言えるのか?…閃迅よ)

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