第四章 第一話
僕は濃紺のオーバーコートに深緑のマフラーを身に纏っている。視界が青く青く染まっていくにつれ、僕の体はゆっくりと沈んでゆく。ああ、また追われるのかと諦観していたが、いくら見渡してもあの死の指は見当たらない。
僕は海の中にいる。しかしここには震えるほどの寒さも怯えるほどの恐怖もない。海面に厚い氷はなく、存分に太陽の光が注ぎ込まれている。ただじっと流れに身を任せ、海を漂っていた。しばらくすると遠くの方に町が見えてきた。僕はじっと目を凝らした。ぼんやりとしていた視界がはっきりとしてくる。あれは僕が生まれ育った町、愛し、壊してしまった町だ。我が家も失った。それがなぜこんなところにあるのか。
気づけば僕は町の方へと足を向けていた。湧き上がるかつての感情に思いを馳せながら。
しばらく歩いていると景色が変わった。僕に愛と愛おしさを教え、人間でありたいと強く願わせ、そして絶望を与えた都市・ニューヨーク。あの煌々とした建物も看板も、当時は僕の心を躍らせたものだ。そして続く道は暗い通りへと入っていった。あのとき車に乗せられ、男に連れられて行った道だ。この先にはあの村が待っている。男との闘いは終わっていなかったのだろうか。ああ、またあの悪魔の声を聞かねばならぬのか。
しかしどれほど進んでも村は現れなかった。代わりに抱えきれないほどの光が差し込んできた。あまりに眩しかった。僕は目を覆い隠した。目の前に広がる景色に吸い込まれるようだった。一体どうしてしまったのだろうか。何度も目を瞬いた。しかしこれではじっくり景色も見れないではないか。
僕は一度しっかり閉じた目を、もう一度、今度はゆっくりと開けた。変わらずもの凄い鮮やかな景色が飛び込んでくる。右を見ても左を見ても明るくて眩しくて。
———色だ。これは色だ。そして今僕が見ているものは。
黄味がかったレース模様の天井に白い壁。少しグリーン味のあるカーテンに、横にはブラウンを基調とした小さなテーブルとそこに飾られた可愛らしい黄色の花。なぜ色がわかるようになったのか、そんなことは愚問のように思えた。色がわかるとはこんなにも素晴らしいことなのか。いや、感嘆の声をあげている場合ではない。
僕はやっと、自分がどこにいるのかを把握しようとした。これは夢か現か。少なくともここはあの村でもなければ収容所でもない。全く知らない部屋のようだ。そして僕は再びベッドの上に横たわっている。ヒトになってからというもの、一体何度ベッドに運ばれれば気が済むのだ。けれどここは収容所とは違う、どこか懐かしい香りがした。どことなく人間の香りがした。
結局僕はここがどこなのか理解する前に、耐え難いほどの体の痛みに襲われた。体を動かそうとするごとにその痛みは増していく。また僕は何か別のものに生まれ変わるのか。そういう運命なのか。
そう思っていると誰かが小走りで部屋へ入ってきた。その女性は素早い手つきで僕に管を通していく。何をされているのかわからないまま、僕は黙ってその痛みに耐えた。しかしそれもあっという間に消えていった。女性の去り際、その者の格好を見て僕は気がついた。ここは病院だと。彼女はピンク色の衣服を纏い、間違いなく看護師の格好をしていた。そして少々呆れ顔で、僕には驚くべき一言を告げた。
「自分の年齢を考えてくださいね」
年齢?僕がいくつであれ、彼女には三十歳に見えているはずだ。なぜそんなことを。
しかし僕には一つ思い当たる節があった。色だ。ヒトであれば黒・白・青の三色の世界で生きるのが常。であればこれほどの色を認識できるのはなにゆえか。
先ほど通された管の方へ目を向けた。自分の手を見た。腕を見た。そこにあったのは皺がれて乾燥しきった手。すっかり細くなった腕に、気味の悪いほど浮き上がった血管。僕はゆっくりと体を起こし、壁にかかっている鏡に視線を移した。それは目を疑うほどのものであった。そこに映っているのは老爺。僕の容姿は完全に百九十六歳になっていた。
その後の僕の人生は驚くほどあっさりしたものだった。あの日、男との対峙を最後に僕は完全に能力を失った。全ての力を使い切ったとか、そういう在り来たりなことではなく、僕の身体はヒトには成りきっていなかったというのだ。百六十六年前、ツリーを買いに出かけたあの日、僕は店の前で迸(とばし)りを受けたわけだが、あれが心の臓を突き刺してはいなかったらしい。あれほど願って止まなかった人間が、まだ僕の中には残っていたというわけだ。
幸運なことに人間に戻った僕であったが、その姿はあまりに皮肉なものであった。ヒトとして生を受けたときすでに三十の歳であった僕は、男と対峙したときには百九十六歳にまでなっていた。見た目において歳を重ねないヒトに対し、人間の身体は素直にその年齢を見せる。つまり僕は容姿、身体能力、その全てが百九十六歳として人間に戻ったのであった。
館の前で崩れ落ちた僕を看守が見つけた時にはすでに老爺と化していた僕は、看守を驚かせた。未だかつてヒトから人間へ戻った者はいないというのだから。
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