第三章 第四話
この町での生活にも慣れ、一ヶ月ほど経った頃だろうか、僕はこの町に対して、やはり何かがおかしいと思うようになっていた。それは人々の暮らしぶりでも、男の行動でもなかった。ここで暮らす者の瞳の色であった。
ヒトである以上、皆、青色の瞳を持っている。そこに濃淡の差はあるものの、そこに違和感は覚えなかった。違う、彼らの振り向きざまに見える妙な眼光だ。これまで出会ってきたヒトの中で、黒光りを持った者には出会ったことがなかった。唯一、男だけだ。
そう、男は青い瞳の中に黒く光る何かを持っていた。この村に住む者、皆、男と同じように瞳に黒光りを持っていたのだ。
瞳の色だけで判断すべきではないのかもしれない。それでも明らかに僕だけが違う種族のような、そんなふうに思えてならなかった。僕は、ここに僕が呼ばれた理由を知りたいと思った。
違う者であろう僕がここにいるのは正しいのか。何かの間違いではないかと。やはり僕は収容所にいるべきヒトだったのではないかと。気づくと僕は導かれるようにして、再びあの書斎へ足を踏み入れていた。
書斎は相変わらず暗がりの中にあり、机だけが照らし出されていた。これだけの本が並ぶ中から確実な一冊を見つけ出すのは容易なことではない。始める前から心が折れそうだ。それでも皮肉なことに僕にはいくらでも時間があった。
じっくり本棚を眺めていると所々、題名の書かれていない本が置かれているのに気づいた。それも一冊や二冊ではない。ゆうに百冊は超えるだろうか。僕はその中の一冊を手に取った。その本には背表紙の下のほうに小さく一と番号が振られていた。
中を開くとそこには「一六二七年四月二十九日 結婚式を挙げた」と書かれている。次をめくると見事に整った字で、細やかに結婚生活が綴られていた。
やはりかつてここで暮らしていた家族には二人の子どもがいたようだ。この題名のない本は、日記であった。
すっかり引き込まれてしまった僕は、次々と日記を読んでいった。かつてここで暮らしていた者は几帳面だったのだろう、一ページ目を書いた一六二七年四月二十九日から一日も絶やすことなく日記を書き続けていたようだ。
二人の娘のことをそれは大切に思っていた。そして妻のことをとても愛していた。しかし日記を書き始めたわずか五年後、この男は妻に先立たれていた。その後彼はパタリと日記を書くことをやめた。十一冊目に到達していた日記は、その日以降白紙のまま続いた。
気づけばすっかり日は落ちたようで、僕は書斎から日記を持ち出して、灯りのある寝室へと移動した。
一六三七年十月二日———
私は一体何者だ?
一六三七年十一月三日———
ああ、妻よ。お前だったら何と言う。こん
な姿の私を見て何を思う?一度でいいから
姿を見せてくれ。帰ってきてくれ。まだ子
どもたちも幼いというのに。これでは子ど
もたちを危険に晒してしまう。
一六四〇年三月六日———
ついにこの日が来てしまった。本当に申し
訳ない。私としたことが子どもたちをこの
手から離してしまうとは。幾度となくこの
悍ましい姿を子どもたちの前で晒してしま
った。あの子たちは怯え、苦しみ、そして
去っていったよ。自ら望んで。ほら、いた
だろう、甲斐甲斐しくやって来ていた、あ
の隣町の女のところだ。私は気に入らんが
な、そいつが二人を引き取りに来たんだ。
十一冊目の最後のページに突如書かれた三日間の日記を読み、僕は気がついた。この男は僕と同じヒトだったのだと。いや、ヒトになったのだ。
妻に先立たれ、二人の子どもを抱えながら能力に溺れまいともがき苦しんだことがはっきりと手に取るようにわかった。
一九一七年二月九日———
ああ、何ということだ。私としたことが。
本当にやってしまうとは。愚か者!手を下
すことはしないと何度も言い聞かせてきた
ではないか。それなのに。もう終わりだ。
二度とするものか。
一九一七年二月十日———
私は間違っていない。何も間違っていない。
あのトパーズ色に光る瞳。私と同じ瞳の色。
同じ家系に生まれ、この私だけが苦しめに
合うのはおかしいだろう。奴らはこうなっ
て然るべき存在なのだ。この私の子孫なの
だから。
ヒトであるのにも関わらず、この男は色がわかるようであった———。
一九一七年六月二十三日———
もうやらないとあれほど誓ったではないか。
痴れ者、痴れ者、痴れ者!こんなことをし
て何になる。人の苦しむ顔を見るのはそん
なに快楽か!お前は化け物だ。悪魔だ。人
間じゃない。
一九二一年十月二日———
お前は何になりたい?人間か悪魔か?聖人
か化け物か?
日記にはしばらくの間、自問自答が繰り広げられていた。この男がヒトになってから実に二百八十四年もの月日が流れていた。これほどの年月を経てもなお、能力は我々を苦しめ続けるということか。
僕はまだヒトとして百六十五年しか生きていない。これでももう十分と言いたいところだが、この先もまだもがき続けろということか。これ以上の出来事は起こらないでくれと切に願わずにはいられなかった。
一九三六年八月七日———
ついにやったぞ!私は成し遂げたのだ!こ
れでもう私が苦しむことはない。ここでは
自由だ。何をしようと誰に咎められること
もない。こんな日が訪れようとは!ああ、
なんて晴々しい気持ちなんだ。
一九七二年四月二十九日———
こんなことがあってもよいのだろうか。あ
の真っ赤なワンピースに肩まで伸ばした暗
色の髪。トパーズ色の瞳。愛らしい白い肌。
そっくりじゃないか。あの娘はお前の生き
写しか?
一九七三年四月三十日———
どうしたらいいんだ!手に入れたくて仕方
がない。この衝動をどう抑えたらいいのか。
けれど壊してはいけない。あの娘だけは。
さあ、私のもとへ来なさい。そのままの姿
で、ここで幸せになるのだ。
一九八五年五月四日———
なぜだ、なぜだ、なぜだ。なぜ言うことを
聞かない?素直に付いてくれば良いだけの
ことだ。なぜ避ける?そんなに恐ろしいか、
この私がそんなに醜い姿に見えるか!絶対
に逃がさない。何があってもこの手の中に
収めるのだ。
一九九〇年十一月三十日———
どこへ行った?あの娘はどこへ消えた?
来る日も来る日も僕は日記を読み続けた。どこかでこれ以上は止めておくべきだと囁かれているような気がしながらも、読む手を止められなかった。
光の入らなくなる時間まで書斎にいると、時々うっすらと人影を見たような、そんな気がしていた。
館に住む男はこれといって干渉してこなかった。助けると言いつつも、自ら何か手を差し出すわけでもなく、話を聞くわけでもなく、ただ家を与えただけであった。そこに何の意味があるのか、僕は気づけずにいた。
しかしこの日記の持ち主はこの男なのだろうと、そんな予感があった。もしこの村に住む者が彼の子孫であるのなら、それは瞳の輝きが同じであることの答えになる。
彼らは男と同じ瞳の色、そう、トパーズ色を持っているのだろう。人間に紛れて苦しみの中生きてきた男が、自由を手に入れたと言うのであれば、この村はまさしくヒトにとっては自由そのものであった。
では、この赤いワンピースを着たという娘は?一九九〇年十一月三十日———まさか。
そんなことがあり得るだろうか。
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