他より解かれて自ら在らん


 一陣の風が吹き抜ける。

 次いで、静寂に包まれている筈の地下空間に似合わず、数度の硬質な音が反響する。

 

 その瞬間、無風たる空間の中に大気の流れとはまた異なる力の波動が生まれようとしていた。

 

 最後の破裂音の後、投げ飛ばされるように宙を舞ったアリアが身を捻って着地をする。

 彼女は魔力に白髪を棚引かせ、構える剣に負けぬ鋭利な眼光を携えてガグを見据えた。

 

 大きく吸い込んだ空気が血に動力を与え、血が全身へと力を巡らせる。

 生傷に軋む身体は鞭を撃つ精神だけが源泉であるとばかりに熱を沸かせ、その戦意を魔力の顕現を以て証左していた。

 

 正眼に構える鋒は歩み寄るガグの眉間に定め、御柱の如くブレる事の無い体幹を捉えて離さない。

 いつ踏み込んできても対応するべくその剣身にまで廻ような神経を研ぎ澄ませる。

 

 その先でガグはゆっくりと両腕を水平に上げる様な構えを取る。

 

 

「まあ、悪くねぇな」

 

 

 瞬間、ガグの腕にビキりと血管が浮き上がり———

 

 

「《斬耳———バチ》」

 

 

 ———両腕を交差させるように撃ち合わせると同時、火花を伴ったけたたましい金属音が鳴り響く。

 

 両手を交えた中心からは風の魔術にも似た不可視の槍が放たれ、呼吸を置く間も無く一瞬にしてアリアへと到達する。

 

 アリアは剣を返し、腹に沿わせて受け流す。

 剣身を滑る槍が僅から角度を得て彼女を肩を切り裂く様にして後方へと駆けた。

 

 浅い傷口から飛ぶ血が頬を弾くも、アリアの視界は眼前の敵一人を映すのみ。

 

 その眼に映るガグは風を味方につけたかの如く地を泳ぎ、彼女の喉を目掛け旋棍を突く。

 

 大きく懐に踏み込んだ一撃をアリアが紙一重で翻せば、彼の挙動に応ずように踏み出し、交差する形でその胴の中心へと体重を乗せた鋒を突き立てる。

 

 

「———ッ!」

 

 

 だが強靭な肉を破ったかと思われた一刀はガグが胴を捻ると同時、グリップを握る掌へと伝わる奇妙な感触と共に後方へと流された。

 

 

「《———吽鼻》」

 

 

 彼はその挙動と連動する様に反対側の腕を振るい、加速した旋棍を真正面から顔面へと見舞う。

 

 

「———くッ…!」

 

 

 滑らかな動きから一転、弾き出されるような苛烈な打撃が防御に徹する剣身の腹を打つ。

 内に内蔵するエネルギーを打点へと集中させるような一撃は、身軽なアリアの肉体を強制的に離脱させた。

 

 ただ殴りつける不格好な喧嘩術とは比較にもならない理合いの一挙。

 余すことなく吐き出される力流は護りに構えるアリアの剣身を伝い、腕や肩に無視できない負荷を与える。

 

 

「《斬耳・刖》》」

 

 

 身を翻すガグは反転し、独楽が回転するように旋棍を二度振るう。

 鋭利さの欠片も無いはずの先が弧を描き、魔力を介して二つの斬撃が放たれる。

 両傍から迫る二つの三日月は標的を定め、意思を得た様にアリアへと駆けた。

 

 追従するようにガグが飛び込む。

 

 

「《風裂リド=テムナ》」

 

 

 アリアはガグの動きを注視しつつ右の斬撃を翻し、左の斬撃を魔術で相殺する。

 そうして拳を固め肉薄するガグを迎え入れる様に視界の中央に見定めた。

 

 

「《———破身》」

 

 

 旋棍の柄を掴み水月を狙う一手を、身に沿わせるように添えた剣身が阻む。

 

 得物の迫り合いが火花を散らす。

 

 だがガグの一撃は瞬間的なものに留まらず、その奥から奇襲の如く襲い来る衝撃の波が剣身を飛び越え、担い手であるアリアの胴へと揺さぶるようなダメージを加えた。

 

 動きの鈍るその一瞬を彼が見逃すはずもなく、続け様に巻き込むような猿臂を放ち、体制を崩したところに踏み込んだ足を軸とした回し蹴りを撃ち込む。

 

 アリアは受け身さえ取る間も無く投げだされるも、叩きつけられる衝撃以上に全身を打つ内臓を押し潰されるような鈍い痛みに苦悶の表情で悶える。

 

 しかし胸部を押さえ、歪んだ顔を上げる頃には既に鼻先にまで振るわれた脚が迫る。

 

 横合いに飛び出すようにして回避したアリアは次々と放たれる追撃を地を這うように翻す。

 

 そうして繰り出される技と技の隙間、僅かな間を狙い跳ねるように斬り上げ、虎視眈々と狙い定めたカウンターを見舞う。

 首を捻りその一振りを見送ったガグの髪先を刃が切り裂いた。

 

 

「分かりやすいんだよ」

 

 

 ガグの手が振り上げられた手首を掴む。

 

 直後、アリアの身体———その重心が前方へと大きく傾いた。

 再び襲い来る不可解な感覚に、地に立つべく脚を眼下へと踏み出さんとするも、その脚さえ前へと運ぶ事が許されず、蝋で固められたが如く硬直する。

 

 地面から迫り上がって来るように倒れて行く身体。

 最適解を探らんと思索する脳が迫り来る結果を遠くへと追いやる。

 

 

「———」

 

 

 そうして弾き出した答えに、ただ愚直に身体は従った。

 

 

「———グォ!?」

 

 

 重心を崩された瞬間、アリアは強化した肉体で地を後方へと蹴り抜き、その全体重を以てガグの懐へと突進する。

 

 自らの肉体ごと放り投げた一撃は彼を巻き込み、胴へと深く突き刺さる。

 ガグが大きく吹き飛ばされ、アリアは勢いを殺しきれずに地を転がった。

 

 即座に跳ね起き、片足から地面に着地しつつ距離を取る。

 

 そうする間も決してガグを感覚の外へと逃すことはしない。

 灰色へと近づく世界の中、ガグの一挙手一投足へと視線を注ぐ。

 

 やがて遠くから足音が近づいて来るように頭痛を感じ始める。あの時よりは幾分かマシな衝撃が頭の中を蹴り付けている。

 神経を駆け抜ける信号がゴールしようと手を伸ばしても、減速した世界に取り残された肉体が言うことを聞かない。

 

 だがそれでも———向かう敵の呼吸は見える。

 

 

「中々痛えじゃねぇか!」

 

 

 楽しげに吠えるガグが右脚を前へと運びながら息を吸い、肺を膨らませる。

 アリアは鏡写しのように息を吸い込み、右脚を踏み出す。

 

 次第に彼の踏み出した脚に体重が乗り始め、同時に阿の呼吸へと移行する。

 即ち、攻めへ転ずる合図である。

 

 目線の先、ガグはアリアが戦闘の最中でもう数度は目にしている『型』へと没入した。

 

 敵ながら見れば見るほど美しい呼吸。

 常時であれば相対する者に読ませない、複雑な旋律を奏でる息吹は、されど的確に、肉体の求める活力を注ぐ。

 

 限りなく黄金比に近しい駆動から生み出される武は———しかし天才アリアにとって、合理が過ぎた。

 

 目の前にある『型』こそ彼の者共の武———その解であった。

 

 

「《吽鼻———》」

 

 

 彼は右に旋棍、左に徒手を構える。

 

 小指より順に拳が握り締められ、一つの鉄塊と化した剛拳が彼女を獲物と定めた。

 

 《吽鼻》、或いはそれを極意とした武技の数々。

 瞬間的な破壊力は宛ら巨獣の剛力が如く、その脅威を身に染みて理解するアリアに緊張が走る。

 

 

「《———ビャク》」

 

 

 直後、幻か錯覚か、アリアの視界に計四の拳と五の黒鉄の棍が映り込んだ。

 四方から迫る剛撃は大気を退け、唸りを上げ、確かな質量を持つ。

 

 彼の力を知るアリアにすれば、このうち一つでも真面に喰らえば津波の如く押し潰されることは必至であった。

 

 それが意味する所は———

 

 

「———ァァアア!!」

 

 

 逃げることは許されない。

 後退を選択すれば追われ、喰われる。

 残された手札は前進のみ。

 

 アリアはいっそ腕が引き千切れることすら厭わぬ全霊の剣舞を以て拳打の壁へ挑む。

 

 相手の視線から意識を追い、呼吸から、筋繊維の波から攻撃のタイミングと軌道を予見する。

 

 初撃を始めとし、接触する度に剣身が震えアリアの身体を軋ませる。

 往なしの甘い一撃が掠り肉を搔っ食らおうと、迷わず押し返す。

 

 戟の如き貫手。斧の如き手刀。鉈の如き猿臂。

 棍棒は回転し、時にその間合いを伸ばし、時に拳と共に振るわれる。

 直線的な攻撃に収まらず、変則的な軌道を以て捉える限りの急所を狙うソレは野猪の如く穿ち、蛇の如く絡み付かんとする。

 

 

「———ッ!!」

 

 

 彼女の弱みは経験の乏しい実践的対人戦。

 されど一刻と経たぬ戦局、それは一人の未熟な戦士を洗練するには過ぎた時間だ。

 

 何故ならば、格上とは一つの目標であるのだから。

 

 答えが目の前にあるのならば盗めば良い。

 幼児にも解せる結論である。

 

 そしてそれは皮肉にも、過去へと置いて来たいつかのアリアが只管に繰り返した事でもあった。

 

 永遠にも感じる剣戟の末、最後の一撃を弾き返す。

 剛拳の嵐が凪ぎ、余波が風圧となり塵を巻き上げた。

 

 アリアは立て続けに剣を構え、更なる魔力を通す。

 

 

「土足で上がり込んでくるたァ———」

 

 

 ———心臓の刻む鼓動が鬱陶しい。

 

 ドクン、ドクンと暴れる心臓が苦痛に叫ぶ。

 

 だが今はそんなものさえ無理矢理にでも押さえつけ、己にちからを与えろと命じている。

 

 

「———良い度胸だなァ!!」

 

 

 挑戦的に口角を釣り上げたガグが残る旋棍を抜き取り、上段から振り下ろす。

 アリアは水平に構え、剣身の腹に手を当て受け止めた。

 

 

「ぐ…ぅ…!」

 

 

 脚が地面に沈む。

 耐え切ることがきることが出来るのは単に剣としてだけではない頑強さ故か。

 

 

「クッ———《リド》ォ!」

 

 

 純粋な力比べが傾く中、アリアは剣を覆う魔力を風の力場へと変化させ噛み付く得物を弾き飛ばす。

 

 《栄光の剣》をガグへと真っ直ぐに向け、ゆっくりと霞の構えへと移行する。

 揺らぐ事なき剣身は滑走路の如く、殺気を乗せた視線を的を目掛け放っている。

 

 

「《ヴォル》———!」

 

 

 踊るように灯る紅炎が轟々と吠え、白亜の刃を包み込む。

 

 向かうガグは半身のまま前方へと構えた旋棍、その一本を徐に手放した。

 

 重力に従い無抵抗に落下する黒の鉄棍。

 地面とぶつかるかと思われたその時、ソレがアリア目掛けて飛び掛かる。

 彼女は黒の閃光の如く豪速で蹴り飛ばされた鉄棍はその軌跡が弛むことなく眉間を狙う。

 

 

「フッ———!」

 

 

 斜め前へと乗り出し、軌道を外れるような挙動を見せるアリアの横一文字が棍を破る。

 

 

「ぅお!?」

 

 

 挟撃を図った襲撃者は、上下に分たれ勢いのままに自身へと飛んで来る旋棍を寸前で掴み取る。

 まさか完全に両断されることは予想外であったのか、ガグは瞠目していた。

 

 

「———破ァ!!」

 

 

 攻勢を崩す事の無いアリアは振り返り様に炎纏う剣を薙ぎ、戦意沸る熱をぶつける。

 

 

「《沙末———》」

 

 

 零距離で撃たれた魔炎は外れる事なく敵を捉え、直撃すると同時に火柱を噴き上げた。

 

 赤い花が花粉のように火の粉を散らし、慈悲無き焦熱は肉を包み込む。

 

 

「———ぐぁ…!?」

 

 

 だが次の瞬間、炎華の中心から伸びた手がアリアの華奢な首を鷲掴みにした。

 呼吸の可否も問わぬ膂力が気管を締め上げ、捻り出された空気が音を上げる。

 

 

「———そんな火じゃ暖も取れねぇよ」

 

 

 霧散する炎の中から現れる凶悪な笑みがそう彼女を嘲る。

 

 アリアは手首を掴み、未だ手放さない《栄光の剣》を彼の腕へ目掛け振るう。

 しかし苦し紛れの反撃はグリップを握る手ごと掴まれるという形で容易く潰えた。

 

 

「軽いな。剣の方が重いんじゃねぇか?」

 

「ぁ…ぐ…!」

 

 

 それでも尚抵抗するアリアは力の限りに手首を握り込み勇者の膂力で以て応戦する。

 

 しかし一目瞭然たる体格差は決して見掛け倒しなどではなく、虚しくもアリアの抵抗は意味を為さなかった。

 

 そんな彼女の足掻きをガグは特等席———もとい、掴み取る腕の先で面白そうに眺めていた。

 

 

「流石にビビったぜぇ?適当に蹴ったつもりも無かったはずなんだが…あんな綺麗に切り飛ばされるたァ思ってもなかった」

 

 

 心底馬鹿にしたように曰う彼は、満足に言い返すことさえできないことを良い事に当てつけのように語る。

 

 

「大変だなぁヒーローも。あんなカスの命一つ守るためだけにこんなんになるなんざ俺は御免だ。向こうは助けられて当たり前みたいな面してる癖によ」

 

 

 彼の言葉には怒りや憎しみなどという感情は存在していなかった。

 唯一あったのは呆れのみ。

 

 卑怯で臆病だから生き残ることができるのが弱者と云う生き物であり、そうでなければ仲間内でさえ生き残れない。

 彼等は時に命の尊さを説き、時に慈悲あれ、善たれと嘯き、時に心を問う。

 心や情という土俵に土足で入り込み、空虚な倫理や道理などという杭を打ち込んでそそくさと逃げ去る。

 

 それは卑怯や臆病などというものでさえなく、最早滑稽である。

 

 ———美味しい蜜を啜る為だけに強者の足元を這う虫。

 ガグは彼らをそう揶揄した。

 

 

「なぁ、何でどいつもこいつも悪を嫌うか教えてやろうか?」

 

 

 彼はそう前置き、嬲るような視線で告げる。

 

 

「それはな———自由だからだ。自分よりも好き勝手して生きてる奴らが羨ましくて堪らねぇんだよ」

 

 

 正義とは、ある種の縛りである。

 対して悪とは人の律より外れ、際限の無い自由を手にした者である。

 

 無法、不埒。

 彼等を繋ぎ止めるものなど何も無い。

 

 正義とは鎖であり囲であり盾である。

 弱者は時としてそれによって守られ、時として阻まれる。

 

 故にこそ無力なる者は自由より隔離される。

 故にこそ真なる自由には届かない。

 故にこそ彼等は———自由が憎く羨ましくて堪らない。

 

 

「テメェはそんな奴らでも助けるっつーのかよ」

 

 

 そう持論を連ねた彼は、踠く事を止め睨みつけるように視線を合わせる彼女へ問う。

 

 ソレは清濁併せ持つ人間という存在が、本質的には目の前の悪と何ら変わらないと認めるのか。

 その問いの答えでもあった。

 

 

「…勿、論だ…!」

 

 

 少女は迷う事なく返答する。

 ガグの腕を握る力が一層強まった。

 

 

「…ハッ、そうかよ」

 

 

 アリアの答えに納得したのか否か、彼は小さな嗤いを見せた。

 

 

「———なら…これはテメェらの贖罪だな」

 

 

 瞬間、フワリ、と体を浮遊感が包む。

 その時、刹那の間を空けて自身が宙へと放られたことを理解した。

 

 そうしてその視界の端に、息を吸い、後方へと腕を引き上げるように構えるガグの姿を捉える。

 

 アリアは身構えるべく肢体を駆動させんとするも時既に遅く———

 

 

 

「《———吽鼻・貫》」

 

 

 

 ———直後、その胴へと拳が撃ち上げられる。

 

 

「————」

 

 

 その衝撃は地下空洞の揺れと陥没するガグの足元が物語っており、下から上へと伝達された地を蹴り付ける力が少女の肉体を食い破らんと喰らい付いた。

 

 肉を捩じ切るような聞くに耐えない声が響き、硬い縄で縊られたように彼女の呼吸が止まる。

 内臓の呻き声が耳に木霊し、くぐもったような生々しい音が体内を蹂躙する。

 

 

「ぶち抜くつもりでったが…中々、具合良くなってきたじゃねぇか」

 

 

 軽いはずの身体は、しかしベクトルに従って弾き飛ばされることは無かった。

 彼はそのことにどこか感心した様子で呟く。

 

 

「ならおまけ・・・だ———しっかり身体で覚えろよ」

 

 

 そう言うと地に臥した彼女の首を再び掴み取り、僅かに身を屈める。

 その姿にアリアは彼の全身を根のように匍う魔力と、湯気の如く匂い立つ闘気を幻視する。

 

 

 

 

「《———阿羅軀去あらくね》」

 

 

 

 

 ———一歩、真上へと飛び天井を打つ。

 同時に掴み上げるアリアを石質へと打ち付ける。

 次いで左右へ振るように両側の壁を跳ね、杭を打つが如く少女を突き立てる。

 地を這う三歩で華奢な肉体で床を抉り、飛び上がる四歩で磔にし、続く五歩で内を流れる血が花開く。

 

 六歩、七歩と跳ね乱れる、縦横無碍たる死の駆動。

 

 そこから繰り広げられた光景は、まさに大逆無道の一言に尽きる。

 

 上下左右、見渡す限りの景色全てを踏み躙るように飛び回り、まるで無邪気に人形を振り回す幼児の如く少女を壁へ床へと叩きつける牛頭、或いは馬頭が嗤う。

 

 

「オラァさっきみたいに往なしてみろよォ!!王子様なら応えてんぞ!!」

 

 

 身体を襲う衝撃に苦痛を感じる前に、己に何が起きているのかを消化する前に、次なる一撃が脳を揺さぶり意識を掻っ攫う。

 血に濡れた石壁は人体と衝突したとは思えない傷跡を残し、無法の証左を刻まれる。

 

 

「ゴ……ァ゛……ッ」

 

 

 もはや何処が痛むのかなど分からない。

 全身が滅多打ちにされ、方向感覚さえ失われる暴虐に抗う術は無いままに弄ばれる。

 

 辛うじて意識を保っていられるのは、魔力の鎧を纏い防御に徹していたからか。

 

 

「———よっ、と」

 

 

 誰も寄りつかない地底。

 無機質な色に包まれていたはずのその空間は、一瞬にして生命の冒涜が如き残酷な景色へと塗り替えられた。

 

 最後に元の位置へと舞い戻ったガグは手の内で血だるまとなって虚な瞳を覗かせる少女を眼下へと棄てる。

 

 

「生きてるな、ヨシッ」

 

 

 彼は髪を掴み無理矢理顔を持ち上げ、彼女の呼吸を確認する。

 そうして細い呼吸を見るや否やパッと手放し、おまけとばかりに粗雑なテレフォンパンチを叩き込んだ。

 

 小石の如く弾かれたアリアは本物の人形かのように肢体を放り出す。

 カラン、と直ぐ側に《栄光の剣》が地を転がる音が響いた。

 

 

「にしても…魔力があるにしたって丈夫な身体だな。普通なら死んでんじゃねぇか?ハハッ」

 

 

 痛みを掻き消さんと沸き上がる熱が喉まで浸食し、ようやっと吐き出したモノには錆びたような血が混じっていた。

 

 固形といえほどではないにしろ酷く粘着質なソレが気道を塞いでいたのか、思うように空気が肺へと傾れ込んで来る。

 

 

「そうそう呼吸だ。体を上手く動かすにゃ呼吸が重要なんだよ」

 

 

 ぐるぐると指を回しながら他人事のように指摘する。

 アリアは死に物狂いで潰された肺に酸素を取り込み、血を吐きながら全身へと送り込む。

 

 幾度と無く感じて来た不快な味が脳に醒めろと、肉体に動けと働き掛ける。

 一刻も早く身体を動かすべく無意識の内に呼吸が洗練されて行く。

 

 

「安心しろ。ガキを嬲る趣味は無ぇが殺す気も無ぇ。だからあのババアも俺を放ったらかしにしたんだろ。ひでぇモンだぜ」

 

「ァ……ゲホッ……!」

 

 

 廃墟を流れる荒んだ風のような空気が吹き抜け、喉が震える。

 

 

「ああ、あのガキは別な。あんなモン毒にも薬にもなりゃしねぇからな。お前は、ほら…あー…殺すと面倒だろ、色々」

 

 

 頭をガシガシと掻きながら倦怠に塗れた惰性を隠さない彼は、言外にどうでも良いと吐き捨てる。

 含みのある言葉で煙に巻くガグは、無価値な命と鎖の如き権利の上に成り立つ命との優劣をその態度で語った。

 

 

「何もかもが無差別な方が生きやすいこともあんだよな。だが無知 アレ はそれに気付かねェ。だから死ぬんだよ」

 

 

 彼は鬱屈そうに首を鳴らしながら一歩一歩と地を叩く。

 下水は流れず、汚臭と錆だけが残された空間に赤い水が滴る音が響く。

 

 アリアはあの子供を深くは知らない。

 だがたった今、微かに聞こえるその言葉で彼の多くを察することとなった。

 

 

「…カハ……ぁ…ッ」

 

「“なら生きられる場所を造りゃあ良い”…お前らはそう言うだろうな。だがそれじゃ格差は埋まらねぇんだ。なんせ人間にゃあ美味い飯と綺麗な寝床と…そんでもって『度し難い格下』が必要だからだ」

 

 

 声が喉に引っ掛かり、思うように発することができない。

 ガグはアリアの元へとやって来ると、その足を止めた。

 そうして覗き込むようにして言う。

 

 

だから・・・この世界は正しくて仕方ねぇ。嫌になっちまうくらいにな」

 

 

 その内は本心か皮肉か。

 

 善しも悪しも呑み込むのが人間ならば、合理も不合理も混在するのが秩序であり世界である。

 平和を夢見る———否、正に今その道を歩む少女に半笑いで告げる彼は脚を上げ、少女の頭上へと固定する。

 

 

「もういいだろ。そろそろ寝とけ」

 

 

 掲げる脚には魔力も無ければ熱も無い。

 

 ようやっと片付こうとしている仕事を処理しようとする、気怠げな声音でそう言い終止符を打とうとする。

 

 

「……わ…か…っ、て…る」

 

「………あ?」

 

 

 足元から聞こえた声に振り下ろそうとした脚を止める。

 

 

「ゴホッ…!…みん、な…やさ…しい…わ、け…じゃ…ない———けど…ッ!」

 

 

 自身の指が裂けそうなほどに地を強く握り締め、血の混じる、苦痛に溺れそうな声を喉から搾り出す。

 

 

「ァ…手、を…取る…ひと、だって…いる…!」

 

 

 一度撃ち落とされた白い鳥は、再び舞い上がらんと腕を震わせてその身体を起こす。

 

 

「退…け…!ボク、が…ゲホ…ッ…しょう…め、い…する…!」

 

 

 そうして垂れ流す赤に濁る金色の瞳は、熱が冷め、無感情に見下ろすだけの悪を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

「———取る手なんざもう無ェよ」

 

 

 

 

 

 

 彼の口から、そんな端的な言葉が発せられる。

 アリアは時が止まったように固まった。

 

 しかしそれを無視するように、ガグは闇の奥で起こっている出来事についてつらつらと語る。

 

 

「奥に取引際の奴が控えててな。お相手さんも疫病神は要らねぇんだとよ。さっき言っただろ、死んだって」

 

 

 激流の如く流れていた息吹は凪ぎ、アリアの顔から色が失われる。

 決意に染まる輝きは堕ち、驚愕さえ浮かばない瞳が定まらず大きく揺れ動いた。

 

 

「だからまあアレだな———」

 

 

 彼は身を屈め、彼女の顔がよく見えるように無造作に顎を掴む。

 無理やり目を合わせると、その声色を心底愉快そうな———愉悦に塗れたように晴らせて言った。

 

 

 

 

「———お疲れさん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———ボトリ、と重質な音を立て何かが落ちる。

 

 廃れた地下道には彼等以外の生命などそう居らず、小動物の足跡は愚か、虫の囁きも水の滴る音も無い。

 

 故にこそ、妙に響くその音が彼の鼓膜を揺らした。

 

 

「…何だァ———」

 

 

 音が鳴ったのは彼の足元であった。

 不思議に思い眉を顰めるガグは、己の傍を見下ろす。

 

 

 

「———」

 

 

 

 そこに転がっていたのは籠手のような筋肉が目立つ腕———ガグ自身の腕であった。

 

 今し方その事実を受け入れるように、寸断された肩から血が噴き出る。

 気が付けば、目の前に彼女は居なかった。

 

 

「……」

 

 

 彼は驚愕も苦痛も思わせない無言のまま、転がった肉片を拾い上げまじまじと見つめた。

 

 切り落とされた己の一部を鑑賞するように眺める。そんな狂気的な光景を静寂が包み込む。

 彼の視界に映るその断面は光沢さえ見えそうなほどに美しく、魔性の魅力さえ感じさせるものであった。

 

 

「…………で、急に元気になってどうした」

 

 

 振り返れば、そこには零したはずの《栄光の剣》を掴み、何物にも染まらない白亜の剣身を下げたアリアが背を向けて佇んでいた。

 

 街に繰り出す為の質素な装い。

 それは未だ血に染まっている。切り裂かれた、破けたような跡もある。

 だが異様なのはその隙間から見える筈の傷は無く、拉げていた筈の四肢も確とその身を支えている事であった。

 

 彼女に彼へのいらえは無く、ただ声に反応するように静かに振り向く。

 

 爛々としていた黄金には、しかし一粒の光さえ無い。

 

 それはまるで何かを嵌め込んだだけのような、空うろの如き双眸であった。

 

 

「……何だよ。良いじゃねェかよ、それ」

 

 

 ガグの肢体に熱が宿る。

 吐瀉物のように溢れていた血は鳴りを顰め、残された肉体を廻り出す。

 

 応じるように沈黙する担い手に代わり、《栄光の剣》が純白に輝く事で臨戦を告げる。

 

 光届かぬ仄暗い世界の中、五月蝿いくらいの静寂が再び騒めき出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る