魔法ノ風呂桶アリマス

千織

魔法の風呂桶

 あなたは、悪魔の存在を信じますか? 私は、生まれも育ちも日本だし、悪魔なんてファンタジーの世界の存在だと思っていました。それがいまや、私は悪魔と常に行動を共にすることになってしまったのです。



 悪魔との出会いは、私の婚約者が交通事故で危篤状態になったときでした。私は病院に駆けつけ、人工呼吸器を着けて横たわる彼女のベッド脇で、神に祈りを捧げました。どうか、彼女をお救いくださいと。でも、それだけでは足りないと思い、悪魔にも祈りました。私の全てを捧げるので、どうか彼女を助けてください、と。


 すると、いつの間にか、私の横に小学校高学年くらいの少年が立っていました。


「お前の全てをいただく代わりに、この女を助けてやる。それでいいな?」


 彼はそう言いました。私は、彼女のことでパニックになるあまりに幻覚を見ていると思いました。が、迷っている暇はないと思い、彼の言葉に「そうです」と返事をしました。


 すると、彼は呪文を唱えながら、彼女の身体を隅々まで撫でました。撫で終えて間もなく、彼女は目を覚ましました。私は驚いて、ナースコールを押しました。そして、彼に話しかけようとしましたが、彼の姿はもうどこにもありませんでした。



 その後、私たちは無事に結婚しました。が、彼女が退院してからというもの、私は彼女とすれ違いの生活になりました。私は夜勤のある部署に異動になり、彼女の誕生日には必ずインフルエンザになり、彼女と旅行に行こうと思っていると車が故障したりするのです。


「ま、これくらいで済んでるだけ、ありがたいと思ってよ」


 あの悪魔少年が私の横で言います。まあ、たしかに悪魔と契約した割には、この程度なら可愛いものでしょう。案外、彼は悪魔の中でも優しい方なのかもしれません。


 彼の姿は周りからは見えません。でも、四六時中、私のそばにいます。彼女とイチャイチャしてるときもそばにいるので、それは困ったものですが……。



♢♢♢



 そんな生活に慣れて来た頃、私の会社で社員旅行がありました。多少、観光名所を巡ったあと、山中温泉という温泉街に宿泊します。ゆっくり温泉に浸かり、日頃の疲れを癒すのが目的です。


 この山中温泉では、浴衣姿のまま温泉街を歩き、お店に入って買い物をしたり、飲食することができます。さらに、他のホテルや旅館の温泉も含めて、全ての温泉に入り放題なのです。風呂好きの私にはたまりません。ホテルに到着後、早速みんなで二つの温泉に行きました。みんながのぼせてリタイアする中、私はもう一箇所だけ追加で入ってから夕食に合流しよう、と思っていました。



 目当ての温泉に向かっていると、その途中で「魔法ノ風呂桶アリマス」と書いてある看板を掲げたお店に目が止まりました。私は興味津々でお店に入りました。そして、店の奥から愛想よく出て来た店主に、魔法の風呂桶とは何かを尋ねました。


「この風呂桶は特別な風呂桶なんです。これに入ると、何でも願いが叶うんですよ!」


 私は魔法の風呂桶の存在には驚きましたが、「何でも願いが叶う」ことには驚きませんでした。なんせ、悪魔と契約してるのですから。


 店主は、風呂桶……と呼ぶには小さい、タライくらいの大きさのものを持ってきて、その中に入って立つように言いました。私は言われた通り、下駄をぬいで、浴衣を着たまま風呂桶の中に立ちました。


 「さあ、願い事を!」と、店主に言われ、私は「妻とずっと幸せでいられますように!」と、願い事を唱えました。すると、風呂桶は一瞬にして大きくなり、湯船になりました。気づくと、私は裸でお湯に浸かっていました。



 湯船が、まさしく船が海に浮かぶようにふわっと浮きあがると、目に見える景色が一気に変わっていきました。お店は広々とした浴場になり、お店に置いてあった小さな桶は、綺麗で可愛らしい魚たちに変わりました。魚たちは歌いながら踊っています。一部の壁が透明になっていて、その向こうには泳いでいる魚やエイ、色とりどりの珊瑚が見えました。どうやら海の中のようです。


 もっと近くで見てみたいのですが、なんせ裸です。躊躇っていると、浴場に一人の女性が入ってきて、こちらに近づいてきました。天女のような格好をしたその女性をよく見ると、その人は私の妻でした。


「ねえ、あなた。ここは竜宮城なんですって。美味しいご飯が毎日食べられるし、素敵な歌や踊りがあるの。もちろん温泉も。ずっとここで暮らしていいそうよ」


 と、妻は笑顔で言いました。私は、久々に妻の晴れやかな笑顔を見た気がしました。


 妻が持って来てくれた作務衣のようなものに着がえると、二人で建物を見て回りました。妻の言う通り、海の生物たちが歌や踊りを楽しんでいました。書物庫を覗くと、いかにも賢そうな白い髭を生やした亀が本棚を眺めています。厨房は……まさかここの魚たちを食べるわけじゃないよね……と、複雑な気分になり、見学するのはやめておきました。


 ふと気づくと、あの悪魔少年の姿はありません。不思議なことは同時には起こらないのでしょうか?



♢♢♢



 それから数日間、私と妻は楽しく竜宮城で暮らしました。が、私は徐々に不安になってきました。


 今、現実世界はどうなっているのだろう。職場の人たちは心配してるだろうか。悪魔の彼はどこに行ったのだろうか。そもそも今目の前にいる彼女は、本当に妻なのか……。


 すると、あの白い髭を生やした亀が、私に近寄ってきました。


「顔色が悪いですね。お力になりましょうか?」

 と亀は言いました。


「はい。私は竜宮城の外から来たのですが、元の世界のことが心配になってきました。私の身に何が起こっているか、教えてくれませんか?」


「わかりました。知れば、その真実に従った現実の中で生きることになります。知らなければ、いつまでもここで暮らすことができます。それでも真実が知りたいですか?」


 想像以上に重い選択なのだな、と感じました。一人で決めるのは正直不安です。


 実を言うと、普段、私はよくあの悪魔少年と会話をしていました。たとえば、お茶にするかジュースにするか迷ったとき、彼に話しかけると「このジュースは新製品で、今SNSでも話題になっている。売り切れ続出だから、今買えるなんてラッキーだよ」言われ、「ああ、自分は今美味しいものより喉を潤したいし、肥満に気をつけているからやっぱりお茶にしよう」と、お茶を選ぶのです。悪魔少年はいつも美味しいもの、面白いものを紹介してくれるので、地味な自分にとっては非常に新鮮でした。彼が教えてくれるおかげで、私は自分が何を望んでいるかをよく考えることができたのです。


 そうは言っても、今彼はいません。今回は自分で決めなくてはならないのです。


 私の決断は妻にも関わるので、妻にも話すことにしました。亀にそう伝えると、真実を知りたくなったときは、書物庫に来るようにと言われました。亀にお礼を言い、私は妻のいるところに向かいました。



 妻に、亀との会話を伝えると、


「このまま、ここで幸せな生活を続けるのではダメかしら……」


 と、妻は少し悲しそうな顔をしました。


 妻と竜宮城で一緒にいられて、私は幸せでした。ここでは、踊りも音楽も書物も一生分はあり、飽きることもありません。


「ここの温泉に漬かっていると、徐々に体が良くなっていくのがわかるの」


 と、妻は言いました。妻は、事故に遭ったことで後遺症が残り、体が痛むことが多いのです。働いてはいますが、帰宅すれば長く休まなくてはいけません。妻はいつもにこやかな女性でしたが、ここで最初に会ったときの晴れやかな笑顔は、そういう苦しみが和らいでいたからかもしれません。


 どう考えても、わざわざ夢が覚めるようなことをしなくてもいいような気がします。


 でも……


「……強がりを言うのだけど、やっぱり、この暮らしは不自然だと思うんだ。私は事故で両親を早くに亡くし、兄弟もいない、親戚も誰ともわからず天涯孤独だった。そんな私を好きになってくれて、家族になってくれた君を本当に愛しているし、感謝している。ここの暮らしも素敵だけど、君と一緒懸命に探したあの狭いアパートや、安物で買い揃えた家具や、君の痛む足をさする日々が恋しいよ。自分勝手なことを言うけれど……私たちの本当の生活に戻らないか?」


 私がそういうと、妻は「そうね」と言って、ほほえみました。



 私たちは書物庫に行き、あの亀に自分たちの気持ちを伝えました。すると亀は、書物庫のさらに奥にある部屋に連れていってくれましました。部屋の中央には正方形の腰の高さまである台があり、その上に、紐で封がされている、黒の漆塗りの箱のようなものがありました。


「これは玉手箱です。開けると真実がわかります。ただ、開けたら後戻りはできませんよ」


 亀はそれだけ言って、部屋から出て行きました。

 私は、妻に最後の確認をしました。妻は「あなたについていくわ」とだけ言いました。私は、もう一度自分に問いかけた後、覚悟を決めて玉手箱をそっと開けました。

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