第5話

「郁美、どうしてここに」

「お母さんが、姉様が、会社に行ってないって、俺、心配で」

郁美は途切れ途切れに呟いた。たまたま見つけたタクシーに飛び乗ってきたらしい。

「姉様、女の子しか愛せないって。でも、姉様、キリヤのこと」

呼吸の浅い郁美は、やっとキリヤに目線を合わせた。

「知ってたの?」

郁美の瞳から、大粒の涙が零れた。次から次に頬を伝って落ちていく。

「知らなかったよ」

知っていたとしても、興味もなければ想いに答えるつもりもない。それどころか今、郁美の感情をここまで揺さぶる美幸が憎くすらある。

郁美はキリヤの胸でしゃくりあげながら泣いている。キリヤは郁美の髪を梳き、落ち着くまで待った。

どのくらいそうしていたのか。泣き止んだ郁美はキリヤを押し返す。

「帰る」

ポツリとしゃがれた声で呟いた。本当は帰したくはないが、きっと郁美の母も心配しているだろう。

「送ってく」

郁美は首を横に振る。

「一人で、帰る。ごめん、キリヤは、悪くないけど、今は、一緒にいたくない。顔、見たく、ない」

郁美の瞳からまた、涙が溢れた。キリヤは心臓に杭を打たれた気がした。胸が、とても痛い。

「一人で帰せない。家まで送らせて。俺のこと、嫌でいいから」

体に力の入りきらない郁美を抱えて、駐車場に向かう。

郁美の実家に向かう車内は重たい沈黙で満たされた。





見られたくなかった。あの子に、あんな無様な姿。

きっと幻滅したでしょうね。いつも完璧なお姉様が、地べたに這って男に縋りつくだなんて。

小中高と女子校に通っていたが、父からの勧めもあって大学は共学を選んだ。

そこで出会ったのがキリヤだった。背が高く逞しい体つきのキリヤは、強く男を感じさせる存在だった。なのに、他の男とは違って見えた。

とても美しい男

目が離せなかった。学生時代に何人かの女性と付き合った。自分は女性しか愛せないと思っていた。

男は臭いし汚いし、可愛くない

郁美だけが特別だった。さすが、自分と血の繋がりのある親族だ。幾つになっても郁美は可愛らしい郁美のまま。そうなるように、彼の食事も美容にも口を出してきた。

あの二人が、よりにもよってあの二人が、そんな関係になるなんて。

美幸は玄関で突っ伏したまま、動けなかった。





あれから数日がたった。郁美は布団の中で丸くなっている。

母は、帰ってきた郁美の顔を見てとても驚いていた。

「姉様に、嫌われちゃった」

どうしたのか、なにがあったのかと問う母に、その日の郁美は一言発するのが精一杯だった。

何か聞きたげだった母は、自室にこもる郁美をそっとしておいてくれた。

布団から出られない郁美に、父と母が交代でおかゆを持ってきてくれた。優しくて温かい、母の味だ。

両親は何も聞かなかった。

何度めかの食事の時、郁美は父に、ぽつりとこぼす。

「美幸ちゃん、キリヤが好きなんだって」

父は驚いた顔をした。

「そう、か。キリヤ君、かっこいいもんなぁ。美幸じゃくても、女の子はみんな、好きになっちゃうんじゃないかな」

背が高くて体格も良くて、きちんと自立していて顔も良い。

郁美にないものをたくさん持っている。

「俺と、キリヤと、全然違うもんね」

あまりの違いに、笑ってしまう。美幸が嫌がる男らしい男。嫌がっていたはずなのに。

「違っていいんだよ。キリヤ君にはない、郁美の良いところを好きになってくれる人が、絶対いるから」

父が、郁美の頭を撫でる。

『好きだよ』『愛してる』

ふと、郁美はキリヤの言葉を思い出す。

郁美を好きになってくれる人。

キリヤの言葉がどこまで本気なのかはわからないが、彼はこれまで何度も郁美に愛情を示してくれていた。

郁美のスマホが鳴った。毎日数回、キリヤからメッセージが送られてくる。

『ちゃんと食べてる?』『眠れてる?』

あんな別れ方をして、郁美の身を案じているのだろう。

『大丈夫』

毎回一言しか返していないが、キリヤはそれ以上深くは聞いてこない。しかしスマホの画面を開いて、郁美は驚いた。メッセージはキリヤからではなかった。

『少し話がしたいの。家まで来てもらえないかしら。呼びつけて、ごめんなさい』

差出人は、美幸だった。郁美は何度も見返して考える。少し迷ったが、郁美はベッドから降りて立ち上がる。

「俺、出かけてきていい?」

「…ちゃんと、帰ってくるんだよ?ママと待ってるから」

父は驚いていたが、すぐに柔らかい笑みを向けてくれた。






「来てくれて、ありがとう」

姿を見せた美幸は、げっそりとやつれていた。きちんと化粧はしているが、目の下の隈や痩けた頬を隠しきれていない。部屋に通され、リビングで二人ともカーペットの上に座る。いつもは郁美がソファに座る美幸を見上げていたが、今日はテーブルを挟んで向かい合っていた。

「ごめんなさい。本当は私があなたの家に行くべきだけど、外に、出られなくなってしまって」

貧血がひどく、足にうまく力がはいらないらしい。きちんと食事を取っていないことが原因のようだ。情けないわね、と、美幸は小さく笑った。

「本当に、ごめんなさい郁美。この前は、ひどい姿を見せてしまって」

郁美は首を横に振って、唇を噛む。美幸の口からあの時のことを告げられて、あれは現実だったのだと改めて思い知る。

「今まで女性ばかりの生活の中で、私は、女性しか愛せないと思っていたの。それは、思い込みだったのね」

郁美は耳を塞ぎたい気持ちをこらえて、拳を握りしめた。本当はこんな話、聞きたくない。

「ずっと、自分の気持ちに目を逸らしていたの。あなたとキリヤが親しくなるにつれて、自分の気持ちに気づいたの。すぐに、その時すぐに、あなたに告げるべきだった。姉妹ごっこをおしまいにして、きちんとあの人に向き合うべきだった」

長い時間、縛りつけてしまって、ごめんなさい。と、美幸が深々と頭を下げた。

「許してほしいわけじゃないの。ただ、これからは、あなたはあなたとして生きてほしいの。私に、縛られないで」

美幸が涙を流していた。

郁美を妹として扱い続けたことを、心から後悔しているように見えた。

これまでの、美しく完璧な姉様の姿はもうなかった。

化粧が崩れることも構わず泣き続ける美幸は、そばにあったメモリーカードを差し出す。

「どこにもデータは移してないわ。あんなことをさせて、ごめんなさい。あなたの気持ちを、利用して」

郁美はじっと、カードを見つめた。これにはきっと、あのときのビデオカメラのデータが入っている。

「幻滅して、キリヤへの想いがなくなると思っていたの。とても馬鹿で、浅はかよね。こんなことを、考えるなんて」

涙を流し続ける美幸が、なんだか映画のようだった。今までの全てが嘘であってほしいと郁美は思った。現実味がない。

こんな美幸は見たことがない。郁美に謝罪をしたことなんて今までにない。美幸は変わってしまった。

キリヤの存在が、美幸をここまで変えてしまったのだろう。

「この前、ここにきたの、美幸ちゃんが、会社に行ってないって母さんから聞いたから」

郁美の声が震えて掠れる。美幸が顔を上げた。

「おじさんに、連絡してる?きっと心配してるよ。あと、これ、いらないから、処分しておいてほしい。鍵も、置いていくね」

郁美は机の上のメモリカードと、この家の鍵を美幸の方へ移動させて立ち上がる。どのくらい時間がたったのか。長い時間が経ったように感じるが、たぶん、そんなに経っていない。

「俺、もう行くね」

美幸が小さく頷く。

いつからか、お互い親族の集まりにはあまり参加しなくなった。もう顔を合わせる機会はないだろう。

二度とこの部屋に来ることはない。

郁美は美幸の部屋を出た。

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