◆ 六月
◆ 六月
皆様、どうもごきげんよう。
昨夜はやけに月が大きかった。逆に星々はなんだか元気がないように見えた。そんな風に色々と考え事をしていたら、なんだか眠れなくなった。極め付きに近所の野良猫が発情期か何かで絶えず奇声を発していて、ただそれに関してはなぜだかちょうどいい感じのBGMのような作用になって、その声が聴こえ始めた夜中三時くらいに眠りに就いた。
眠れない夜に限って、今までほつれていたような考え事が
そんな経験をした人間は、とても美しい夜を過ごしたと改めて思う。眠れない夜は今まで何度も過ごしてきたが、大抵はその日に嫌なことがあって心が穏やかでなかったり、翌日に大事な出来事があって緊張で心が落ち着かなかったり、
しかし昨日に関しては、今までに経験のない美しい夜だった。やけに大きかった月に感銘を受けたわけではない。元気のなさそうな星々に思いを馳せたわけでもない。ただ一つのことだけを考えていたら、自然と美しい夜に出くわしたのだ。
それはまさに、虎藤虎太郎だった。
私はその夜、ふと考えを巡らせたのだった。虎藤虎太郎という存在と出会って、私の人生はどう変わったのだろうか。もちろん実際に虎藤虎太郎に出会ったわけではないし、私自身が行方不明になった虎藤虎太郎を探そうと、何かしらの活動を行なったわけでもない。行方不明になった男が以前住んでいた部屋に私が今住んでいるという、奇妙な縁で繋がった本当にただの他人同士なのである。虎藤虎太郎の話は大家から大まかに聞いたに過ぎないし、残された家族が探しているとかそういった情報も一切ない。ただ単に一つの部屋の過去と現在で繋がっている、有象無象の内の一つの人と人、たったそれだけだ。
それでも私は虎藤虎太郎のことを考えていると、なんだか気が晴れてくるのだ。たぶん、理由は色々あるのだと思う。今までの人生で遭遇することなどなかった行方不明という事件要素、世間での関心や知名度は一切なく、まるで都市伝説のように限定された区域でのみ事が起きる怪奇要素、そしてそれに直接関わっているのではなく、たまたま巻き込まれてしまったという一種の特別感──、全ての非日常を漫画やアニメの世界に投影していた私にとって、虎藤虎太郎はそれらを現実の世界に生み出した張本人、それだけで、私の人生を動かすには充分過ぎるきっかけだった。
今だからこそ言える、というか、別にもったいぶって言うことでもないのだが、私は今までの人生を振り返っても、思い出しただけで気が晴れるだとか、ずっと胸の内に仕舞っておいているような、そんな風に重要と呼べる過去や記憶はない。その一方で、思い出しただけで嫌な気分になったり、すぐにでも消し去りたいような過去や記憶もない。小学校の頃は何人かの同級生とゲームやサッカーなどで遊び、大体四年生くらいから親に勧められた習い事をいくつか始め、中学に進むとほとんどの部員が未経験から始めている緩い運動系の部活動に入り、最低限の勉強についていけるようそこまで熱心ではない学習塾に週に一、二回通い、大半が3と、主要五教科で一つ、専門系の四教科で一つ4というほとんど平均と言っていい成績で公立高校に進学し、そこでも中学でやっていた競技がたまたま緩い系の部だったのでありがたく入部し、どうせ大学受験は試験の一発勝負だからと高を括っていたら段々と学校の勉強についていけなくなって、言い訳に部活動に身を入れようとしても緩い雰囲気だから逃げ場所すらなくなって、結局高校入学時に想定していたランクからは一つも二つも落とした大学を第一志望にしてなんとか合格し、そのままエントリーシートの空白を埋められるような活動などほとんどせず、バイトと無益なサークル活動で四年間を消費し、やりたくないわけではないけれど誰でもできるような仕事を惜しげもなく貰い、特に物欲もないため最低限の食欲と性欲を満たせるだけの
貧困によって一粒の米にもありつけなかったわけでもない。干ばつによって一滴の水にもありつけなかったわけでもない。戦争によって身体の一部を失ったわけでもない。教育が受けられなくて文字が読めないわけでもない。地球温暖化の影響で、住む場所を失ったわけでもない。
両親がいないわけでもない。片方の親がいないわけでもない。満足な食事や衣服を与えられなかったわけでもない。兄弟の存在によって愛情に偏りがあったわけでもない。今現在、親に縁を切られたわけでもない。
子供の頃にいじめに遭っていたわけでもない。いじめていて誰かの恨みを買ったわけでもない。遅刻を繰り返していたわけでもない。保健室に入り浸っていたわけでもない。特定の先生に好かれていたわけでもない。特定の先生に目を付けられていたわけでもない。
志望校に落ちたわけでもない。志望校を受けるための成績があと一歩で足りなかったわけでもない。部活動で理不尽な指導を受けていたわけでもない。自分が原因で、自分たちの学年を引退に追い込んだわけでもない。
幼少期のトラウマによって長年苦しんでいるわけでもない。精神的な
私はとても恵まれている。誰かに尊敬されるような才覚がなくても、誰かに羨ましがられるような思い出がなくとも、私は恵まれている。今日、最低限の食欲と性欲を満たせるだけの生活を送れているだけで、私は恵まれている。今日、一粒の米にもありつけないわけでもなく、一滴の水にもありつけないわけでもなく、明日という日にこのアパートの部屋で暮らしていられなくなる心配がないというだけで、私は恵まれているのだ。
そんなこと、私が言えるはずもない。
どんなに相対的に自分の生活を振り返ったところで、私が恵まれているだとか、満足しているかどうかなど、他人にとやかく言われる筋合いなどないのだ。
とやかく言う他人などいないことが、私の生活の、人生の、何よりの証明なのだから。
これが、私の人生だ。絶望などない。暗い過去や記憶など、何一つ持ち合わせていない。それがないというだけで無意識に私に対して経験で上に立っていると錯覚している人間にも、出会う機会はほとんどない。なにせ私の人生において、「かつての自分」を知らせる必要のある人間と接することなど、ほとんどないだろうから。
だからこそ私は、虎藤虎太郎のことを考えていると、なんとなく気が晴れるのだ。虎藤虎太郎を見ていると、今まで影も形もなかった、本当の自分に出会えた気がするのだ。完全に気のせいだというのはわかっている。本当の自分など、私が口にしていい言葉の内から最もかけ離れているのもわかっている。
しかし、人には夢を見る資格がある。映画を観て、小説を読んで、そして、自分の夢を思い描いて、本当の自分というものに出会える瞬間が、必ずある。
私にとってそれは、虎藤虎太郎だったというだけだ。これ以上ない、単純で明快な私の答えだ。過去や人生なんて難しい問題は考えなくていい。私は虎藤虎太郎のことを考えていれば、それで充分に生きている意味を実感できるのだ。
改めて、この日記を始めてよかったと思う。こんな内容など他人には絶対に見せられないし、まあ見せる相手もいないのだが、匿名でインターネットに公開する勇気もない。でも、自分だけが見ていると思うと、また、読み返せると思うと、それこそ本当の自分が見えてくるような気がする。本当に気が晴れているのは、虎藤虎太郎のことを考えているときではなく、虎藤虎太郎のことを考えながらこの日記を書いている瞬間、なのかもしれない。
それでは、また会う日まで。
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