◆ 五月

◆ 五月


 今日は少し肌寒かった。天気予報では半袖でも大丈夫と言っていたが、風が吹いたときや日陰だとひんやりして少し落ち着かなかった。

 今日の天気は基本的に晴れだったけれども、もし天気が急変して曇りや雨になったりしたら大変なことになっていた。そういったことまで予測しての「半袖でも大丈夫」だとしたらさすがの一言に尽きるが、そうではないとしたら七月に入るまでは思い切ったことは言わない方がいい気がする。そもそも七月以降で晴れだとしたらわざわざ半袖でいいかをアナウンスする必要もないと思うが、一応アドバイスとして全国の気象予報士の方々に届いてもらえると嬉しい。私の思い込みだっただけで今朝の気象予報士はそんなことなど言っていない可能性もあるし、色々とコンプライアンスに厳しい今の世の中でそんな思い切ったことを言うのもなかなか想像し難いし、とにかく色々なことを考慮してこのくだりで私が何を言いたいのかというと、今日も平和な一日だったということだ。


 その一方で、私自身の一日は今回もなかなか「平和な一日」では片付けられない出来事が起こった。と言っても神宮外苑以来相変わらず小平を出ることはなかったのだが、前回の日記で書いていたもう一つの近所のお店、すなわち大家から紹介してもらった老舗しにせの喫茶店に、この前足を運んだのだ。

 喫茶店など久しぶりだったので入店した直後は若干緊張した部分も否めないが、入店してすぐにこの店は居心地が良いとわかった。今書いたばかりだが、私は喫茶店に行き慣れているわけではない。世間の話題になっている若者向けの店や、接待御用達の由緒あるお店を熟知しているわけではないので、そういった店の「雰囲気」を客観的に比較した上で、この店は居心地がいいと判ったわけではないのはご了承いただきたい。あくまで私の主観で、というより、私に合った雰囲気の店だと入った瞬間に気付いたのだ。

 まあここで店の雰囲気について海外文学のようにくどくどと描写しても仕方がないので話を先に進めると、とにかく私はその喫茶店を訪れ、店員に案内してもらって席に着いた。その店員は大学生くらいの若い女性だったので、インターネットでの口コミ通りこういう老舗のようなところでも本当にこういう今風な感じのアルバイトがいるのだなと変な関心をしていると、本当に不意にであったが、なぜか身に覚えのある妙な違和感を背中で受け取った。

 その正体は、紛れもなく、前回と同じく大家から紹介してもらった近所のラーメン屋で鉢合わせた、あの妙な男だったのだ。その違和感は、紛れもなく、妙な男が今回も変わらず私に浴びせ続けた、一心不乱の鋭い視線だったのだ。

 私はその男に悟られないように驚きの表情を浮かべ、内心自分と雰囲気の合うこの店を見つけた高揚は消え失せ、またしてもあのラーメン屋で味わった言い様のない緊張感に苦しめられるのかと辛酸をめていると、その拍子に店員を呼んでしまったらしい。当然のごとく店員はすぐに私の元へ駆けつけ、私はメニューすら開いていないのにオーダーを言わなければならない瀬戸際に立たされた。焦った私はとりあえず様子見という空気をできるだけかもし出してアイスコーヒーを注文し、一旦態勢を立て直そうとした。

 しかしそのとき、かすかに開いていた窓から一縷いちるの風が迷い込んだ。その風を受けて、私の体は、今日が少し肌寒い日であることを思い出した。

 そうだ、どうせなら温かいものが飲みたい。その上どうせなら、この緊張がほぐれるような甘いものが飲みたい。

そうして、自然と言葉が漏れ出た、「あ、すみません。やっぱりホットカフェラテにしてもらっていいですかね?」。

 ただでさえ急なオーダー変更で戸惑わせてしまっただけでなく、おそらく一度オーダー用紙にアイスコーヒーと書いていたようだったので、二重で「すみません」と付け加えた。店員も若干気まずそうな仕草は見せていたが、最終的には私の思いが伝わったらしく、穏やかな空気を残してオーダーを厨房に伝えに行った。そのようにして私は、なんとか無事に初めての店で突如立たされた瀬戸際を切り抜けることができた。


 というわけで私は、あの妙な男と再び遭遇する次第となったのだ。しかもただ遭遇するだけでなく、前回同様あの睨むような鋭い視線を終始受けて、初めて訪れる喫茶店を過ごす羽目となった。

 ただ前回の日記でも書いたように、私自身にとって喫茶店は味に集中するよりも場の雰囲気を味わいたいという趣向が強かったため、ラーメン屋での苦悩を引きずることはなかった。それどころか、こちらとしてもあの男のことをゆっくり考える機会だと思ったので、時折自然体を装って振り返ったり、店の所々にある鏡を用いながら、男の顔を盗み見てみた。

 そうして改めてあの男に関する記憶を全てさかのぼってみると、どうやら私はあの男と何度か顔を合わせているような気がしてきたのだ。さらにその顔を合わせている場所こそ、私の住んでいるアパートだったと私の記憶が叫んでいるのだ。

 すなわちあの男は、同じアパートの住人なのではないだろうか。もちろんまだ確証はない。顔を合わせた記憶があると言っても、ラーメン屋でも喫茶店でもあの男の顔は盗み見た程度ではっきりとは思い浮かばないし、それこそアパートの外廊下などですれ違っても顔ははっきりとは見ない。なのでその記憶を頼りに同じアパートの住人だと断定するのは、いささか性急に過ぎると言わざるを得ない。

 だからこそ、ご近所トラブルの線が浮上するのだ。そういうものは得てして、無意識のうちだったり、或いはこちらとしたら迷惑をかけているつもりは一切ないのに、相手方は不快に感じていたり、もしくは実際に被害を受けている場合も充分に考慮しなければならない。

 私はまだ、この町を離れたくない。まさに住宅街といったような静かな近所もそうだし、今回と前回で訪れた二つの店舗も個人的には気に入っているし、何より、この町には虎藤虎太郎の足跡がある。結局私は虎藤虎太郎のことなど何も知らないが、あの男の存在はなんとなく、私の存在にも繋がっている気がするのだ。ご近所付き合いすらろくにままならない私の存在を、肯定してくれる気がするのだ。

 根拠など何一つない。家族や大家には申し訳ないが、虎藤虎太郎を実際に探そうと思ったことなど、私には一度もない。しかし虎藤虎太郎という存在は、いつしか私の一部になりつつある。つまらない日常が変わるかもしれないという、根拠どころかきっかけもない期待になりつつあるのだ。


 だから私は、もう少しだけこの町にいたい。あの男の正体を掴むのはもちろんだが、虎藤虎太郎の一連の件について、もう少しだけ首を突っ込んでみたい。たとえ迷惑がられても、家族や大家からやめてくれと言われても、虎藤虎太郎を見つけ出したい。そうして私はいつの日か、この言い様のない胸の高鳴りをこの日記に記憶として刻み込みたい。

 だから私は、もう少しだけ、あの男について調べてみようと思う。


 それでは、また会う日まで。

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