第3話 無断売却未遂

 廊下に放り出されたエドワードは目を丸くしていた。


 今まで研究所にいた女性陣はエドワードにそう言ってとがめることはなかった。


 もちろん弟子兼世話係という役柄というのもあるだろうが、研究所の人たちは、そしてエドワードも、アルカのことを人間ではない何か、として考えている節があったのではないだろうか。アルカを淑女しゅくじょ、とオリビアが言ったことに、エドワードは驚いていた。


 呆然ぼうぜんと廊下に立ち尽くす中、エドワードを現実に引き戻したのは階段の方から響く足音だった。


「おや、お客様ですかな」


 小太り、五十代ほどの男性。つややかな革靴とのりの張った黒のモーニングコート、それからシルクハットは裕福の象徴だ。少し時代遅れに見えるが、伝統を重んじる家ではまだこういうところもある。


 一つ覚えた違和感は、彼のウェストコートがずいぶん窮屈きゅうくつそうに見えるということだ。没落のストレスによる肥満か、体に合わない過去の特注をまだ着ているのか。


 ウーゴ・セルバンテス。数年前に没落した元資産家。爵位しゃくいは与えられていない。今は何をやっているのだろう。


「どうもこんにちは。ウーヌスからやってまいりました、エドワード・ガヴェンディッシュです」


 エドワードはオリビアにしたのと同じように、胸に帽子を当てて軽く礼をした。


「丁寧なご挨拶感謝しますよ、ガヴェンディッシュ殿。この部屋の前にいるということは、オリビアに用ですかな」

「はい。ですが、彼女は今支度中で、着替えのための一度私は部屋を──」


 エドワードは思わず言葉を切って男性の腕に手を伸ばした。エドワードの指先はモーニングコートをかすめた。間に合わなかった。ウーゴは躊躇ためらいなく、オリビアの部屋の扉を開いたのだ。今しがた着替えのためにと言ったばかりなのに。


「オリビア、このガキは誰だ」

「叔父様、この方はそのような呼び方をして許されるようなお人では」


 幸いにもアルカは着替えを終えていた。

 しかし口喧嘩が始まってしまう。

 エドワードは再びウーゴを部屋から追い出そうと試みたが、手を伸ばす前にウーゴはかつかつ、とかかとを鳴らした。苛立いらだちを知らしめるかのようだった。


 エドワードはオリビアと目が合った。オリビアは怯えた目をしたまま首を横に振った。助けて、と言わんばかりなのに、オリビアはエドワードを躊躇ためらわせる。


「すみません。私の連れです」

「どういった関係──ああ、見かけによらない趣味ですな」


 下卑げびた笑みを浮かべるウーゴをにらむ。


「あの──」

「おい、エドワード」


 アルカの呼びかけにエドワードは我に返った。唯一いつもの冷静さを携えて、彼女はエドワードを見上げていた。


「早く行こう。都会育ちには自然の神秘が待ちきれないんだ」

「わたくしも案内出来て光栄ですわ……」


 エドワードは反射的にウーゴの顔色をうかがった。下品な笑みでアルカを見下ろして、彼には没落がお似合いだとさえ思う。

 オリビアがこの男の言われるがままにさせられているのは、彼と少しやりとりを交わしただけでよくわかった。


「二人とも、ほら行こう。経営者殿もお邪魔したな」


 アルカがオリビアの手を引いて部屋を出ようとする。

 そのとき、ガンガン、と金属の扉を強く叩く音が工場内に響いた。その場の全員が騒音に注目する。二階にまで聞こえてくるほどの力で他人の家──ここは工場だが──を叩くとはかなりの乱暴者か。

 ウーゴは態度を一変して、焦った表情で階段を駆け下りてゆく。


「なんだ、次から次へと騒々そうぞうしいな」

「アルカさま、行かれないんですか?」


 オリビアは今のうちに、と言いたげにアルカに話しかける。


「そう急かすな、成金野郎なりきんやろうの弱みを握れるかもしれない。こんな好機こうきをみすみす逃すなんてもったいないだろう」


 アルカはオリビアにしゃがむように言って、二階から工場の扉の方を盗み見た。


 やって来たのは三十代ほどのスーツの男性。身なりや身のこなしから、都会で大成している貴族らしい。ウーゴの取っ手付けたようなものではなく、もっと正統な格式を感じる。髪もアンダーカットをビーズワックスで固めていて、かっちりとした印象だ。男性は手に持っている杖で地面をトントン、とつついた。


「ウーゴ・セルバンテス。土地の権利書はまだですか?」


 エドワードは目を凝らして、あれがただの杖ではないことに気が付いた。仕込み杖だ。装飾が少なく、柄がまっすぐなのは仕込み杖の特徴だった。

 仕込みとはいえ剣をくのはあまりに物騒だ。やけに仕草が礼儀正しいのは闇社会を牛耳ぎゅうじる人間だからか、印象操作というやつか。


 男性はウーゴに向けて静かに催促さいそくの手を突き出すと、ウーゴはハンカチでふき出した汗を拭った。乱暴者かはさておいて、彼は苛立いらだっているようだった。


「もう、一か月待っているんです。見栄を張るのはいいですが、契約を破られるのは困ります。この調子だとここの娘を渡してもらうことになりますよ」


 冷淡な口調で淡々と述べる。

 オリビアは小さく声を上げて、身を隠した。アルカは眉をひそめながら欄干らんかんからぐっと身を乗り出す。


「はあ、人身売買か。奴隷は野蛮人のやることだ。昔からボクは言っているが、『奴隷どれい制は食物連鎖になり得るからやめておけ』」


 アルカはいつの話か、過去の自身の発言を思い出しながら愚痴ぐちを吐いた。


「しかし……ウーゴ・セルバンテスは土地を売るつもりだったようだな。身が苦しいのは本当だったわけだ」


 オリビアは灰色の瞳を一層くもらせる。両親の残した工場は叔父の手によって勝手に取り引きに出されていた。

 男性はしばらく静かな言葉でウーゴを責め立てると呆れたようなため息を残し、また来ると言って工場を去っていった。


 ウーゴは苛立った様子で、階段の段差を音を立てて上がってくる。アルカは、まずいな、と口に出して立ち上がった。しかし、ウーゴはすぐ目についたオリビアの腕を引っ掴んだ。オリビアは引っ張られた力で無理やり立たされて、小さく抵抗の声を上げる。ウーゴはオリビアに苛立ちをぶつける気だ。

 エドワードはさすがにウーゴの手首を抑えた。


「何をしますか、ガヴェンディッシュ殿」

「離してください。女性に乱暴など紳士として如何かと思いますよ」

「乱暴だなんて。これはしつけですよ」


 ウーゴは取り立ての男性によって蓄積させたストレスをオリビアに浴びせている。


「オリビアは女だというのに大学に二年も通っていたんです。身の程知らずもいいところでしょう。今後世間に出ても恥ずかしくないように、私が躾してやっているんです」


 妙に早口になるウーゴの背中をアルカが叩く。


「身の程知らずはお前の方だな」


 ウーゴは思わずオリビアから手を離した。オリビアは急に放られて、どさりと床に倒れ込む。エドワードはオリビアに手を貸そうとすると、オリビアは咳き込みながらエドワードの手を押しのけた。


「何をおっしゃいますか。私はウーヌス有数の」

「没落家、だろう?」


 アルカは目を細めて片側の口角を吊り上げる。他人を挑発する笑みは見た目にそぐわないせいか、独特の気迫を帯びていた。


「金なしのくせにオリビアを脅して工場の権利を奪い、あまつさえ売り飛ばしてふところを暖める。ボクには彼女の方がよっぽど賢く見えるな」


 アルカはウーゴのモーニングコートの襟を掴むと、そのまま顔の方へと引き寄せた。ウーゴは姿勢を崩して前のめりになる。


「この土地、ペルケトゥム研究所が買い取ろう」


 オリビアは驚きで口をぽっかりと開けていた。エドワードもまた、突拍子もない提案に呆気にとられる。


「アルカ様? そんな高い買い物を即決で、さすがの所長もお怒りになります!」

「金回りの良さもペルケトゥムの長所だ。存分に使ってやろうじゃないか。所長も喜ぶさ、田舎に使い勝手のいい拠点があればなおさらな」


 オリビアは眉間にしわを刻んだ。エドワードも彼女の心中を察してアルカの暴走を止めようと立ち上がるが、アルカはすでにウーゴに選択を突きつけていた。


「で、どうする。あの借金取りに追われて震える夜を過ごすか、うちに売り渡してオリビアから一切手を引くか」


 これはオリビアにとっていい状況にも見える。しかし、アルカの言い分では工場がなくなるのは変わりないということだ。


「言い忘れていたな、オリビアはうちで預かろう。人質とは言わない、正当に雇用する」


 エドワードは今まで、幾度いくどとなくアルカの唐突な提案に驚いてきた。ちょうど先ほども、それで驚いたばかりだが。


「オリビアさんを使用人として雇うということですか?」

「口を挟むな、エドワード」


 アルカは策士さくしな笑みから一変、無邪気な少女のように顔をほころばせてオリビアに振り向く。


「オリビア、工場は窮屈きゅうくつだろう」


 オリビアは縦か横か曖昧あいまいに首を振った。


「決まりだな」


 アルカは満足げに頷くと、掴んでいたウーゴのえりを強く突き放した。










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