第四章 詐欺師伯爵の苦難と決意
第21話 銀翼姫とプレスコット伯爵の危機
モリーが帰ると、急に疲れが押し寄せてきた。侍女たちにいくつかの用事を言いつけると図書室に籠もり、いつものように書物を開いたが、目が字を追うばかりで内容が頭に入ってこない。
モリーが母親になる。当然あってしかるべきだし、予想もしていた。ただ、目の前に突きつけられ、生々しさに気圧され、引け目を感じた。性行為の有無だけではない。友人だけが一足先に別の世界へ旅立ち、ジェラルディンは一人取り残された気がした。いつまで子供の気分でいるつもりだと、たしなめられた気がした。
モリーが来たのもそのためだろう。友人の婚姻が上手くいっていないのを知って、忠告に来たのだ。余計なお世話、と反発する気持ちよりも申し訳なさといたたまれなさが先立った。
その罪悪感は自然と、ハリス村の子供へと向かう。
己がテオを夫として認めることと、マクファーレン領の貧しさは別問題である。仮に受け入れていたとしても、身売りする者は出ていただろう。
ただ、極めて個人的な問題にとらわれて、守るべき領民に目を向けてこなかったのではないか。ハリス村にはあれ以来行っていない。身売りされたという子供があの時助けた幼子であるかも定かではない。それでも、かつて腕の中に抱いた子供の顔が頭から離れなかった。
「奥様」
ページをめくりながら埒もないことを考えていると侍女のサリーが部屋に入ってきた。
「もう夕食か」
気がつけばもう日が沈もうとしている。テオも今夜は会合もなく、夕食は屋敷で取るという。メニューは既に決めてある。調理も終わっている頃だろう。
「もう少ししたら行くわ。テオ様が戻ったら教えて」
いつもなら返事とともに去って行くというのに、サリーは返事をしなかった。
「どうしたの?」
よく見れば目を伏せ、ひどく怯えているようだ。顔色も悪い。
「申し訳ございません」
深々と頭を下げる。
「何があった?」
ジェラルディンは声を尖らせる。記憶する限り、謝罪されるような心当たりはない。居住まいを正しながら次の言葉を待つ。
「奥様のベッドを動かしたのは、わたくしどもです」
一瞬、何を言っているのか理解しかねた。
「……それは、そうだろう」
考えを整理しながらジェラルディンは言った。
「あんな大きい物をテオ様お一人で運び出せるわけが」
「違うのです」
サリーがかぶりを振る。
「運び込むように命じられたのは旦那様……マクファーレン伯爵です」
ジェラルディンは頭の中が真っ白になった。
「その、旦那様はご主人様……テオ様との仲を大変お気にされていて、それならばいっそベッドを運び込んでしまえと」
羞恥に顔が熱くなる。いかに父親とはいえ娘の閨まで口を出すとは、厚顔無恥にもほどがある。それでも伯爵か。
父は何故そんなことを知っているのか、と言いかけてすぐに思い当たる。目の前の侍女が手紙で報告していたに決まっている。おそらくプレスコット家に来る際に言い含められていたのだろう。事実、サリーは先程から恐縮しきりだ。
「それならば、何故……あ!」
そうか。ベッドの件でサリーを呼び出した時、
「……」
穴があったら入りたい、とはこのことか。一方的な思い込みでテオを責め立てたのだ。何という恥さらしだろうか。今なら首も差し出す所存である。
「その、わたくしのせいでご主人様との仲が悪くなったと。すぐに訂正すべきところを今日までずるずると……。申し訳ございません」
責めるつもりはなかった。勘違いしたのはジェラルディンである。詫びるべきは自分の方だ。
「テオ様は」
いつお戻りになるかと尋ねようとした時、目の端に奇異な物が映った。振り返ると、屋敷の外で赤い煙が上がっている。藍色に染まった夕暮れの空が血を滴らせているようにも見える。
「来たか!」
待ち構えていた
赤い煙は王宮と屋敷の途中にある『白狐通り』の方から上がっているようだ。貴族街の一角にある、地方貴族の邸宅が集まっている区域だ。道幅は広いが、日頃は主人らが留守がちなため、人気は少ない。襲撃にはうってつけだ。
予想どおり、あそこか。
呆然とするサリーをよそに窓の縁に足を掛け、屋根から垂れ下がっているロープをつかむ。いくらジェラルディンが向こう見ずでも、何もなしに三階から飛び降りるほど酔狂ではない。
「敵襲だ。兵を屋敷の前に集めろ。あの煙の所まで駆けつけるように伝えろ!」
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