第5話【T子さんの文章】『記憶の中の響子』
「お久しぶりですね、お元気でしたか?」
明るい笑顔で話し掛けられた響子は、ぎこちない笑みを浮かべた。
ここは行きつけの市立図書館。
読者が好きな彼女は、子供の頃から書店や図書館が憩いの場だった。
本の紙の匂い、質感、重さは、電子書籍からは得られない安心感を、響子に与えてくれた。
「ええ、元気です」
「そうですか、良かった。最近、あまりお見かけしないから、何かあったのかと、勝手に心配していました」
屈託ない笑顔で話す司書の女性に、響子も今度は心からの笑みを浮かべ、
「ありがとうございます。ちょっと忙しくて、なかなか来られなかったんです」
そう答えた。
響子より年下のその女性は、とても感じがよく、司書目当てに通う輩がいるほどの美人だった。
響子は彼女の薬指に美しい指輪が有るのを見た。
名札の姓はそのままだけれど、結婚して幸せな日々を送っているのだろう。
彼女の笑顔が眩しくて、響子は思わず目を伏せた。
図書館から帰宅すると、家を覗き込む人影が見えた。
道哉だ。
響子は電柱の影に隠れ、道哉が立ち去るのを待った。
窓越しではなく、姿を見るのは久しぶりで、胸の痛みとときめきが、同時に彼女を襲った。
声を掛けようか…
でも…
「奥さん、何なさっているの?」
急に背後から声を掛けられ、響子はビクッとした。
隣に住む年配の女性が、回覧板を手に立っていた。
「お宅に今、届けようとしたのよ」
「どうも」
彼女に気付いた道哉が、こちらを見つめていた。
ふたりの視線が絡み合う。響子は無言で会釈して、門を開けた。
「待って下さい」
響子は一瞬手を止めたが、門を開けて入った。
「どうして避けるんですか。迷惑だったなら、そう言って下さい。はっきりそう言って…」
響子は彼の口を手で塞いだ。
「大きな声、出さないで下さい。ご近所に聞かれてしまいます」
「す、すみません。つい…」
「この間のお礼。途中になっていましたから。明日の午後にでも如何でしょうか?」
「はい!勿論です」
道哉は友人との約束を、即座にキャンセルした。
響子は彼をじっと見つめ、また会釈すると 玄関のドアの向こうに消えた。
道哉の胸は高鳴った。
また彼女に会える。
声が聴ける。
同じ空間に居られる。
自分も家に入りながら思った。
それにしても、随分と雰囲気が変わったな。
少しやつれたアンニュイな雰囲気。
憂いを帯びた表情。
何処か虚ろなのに潤んだ瞳。
物言いたげな形の良い唇。
細い首筋に色気の漂ううなじ。
響子を、この胸に抱きたい。
彼女の全てを自分のモノにしたい。
強い欲望が、道哉の全身を駆け抜けた。
でもそれは出来ない。
彼女が拒むだろうから、心の中で、妄想の中で、彼女を激しく抱きしめる事しか出来ないのだ。
道哉のスマホにLINEの通知が届いていた。
『最近、付き合い悪いね。また連絡するから』
何度かデートした事のある、年下の女だった。
若さとメイクで乗り切る、頭の軽い女。
響子に出会って以来、彼女以外の女性は、道哉の中で何の意味も持たなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます