第178話 連携の確認
氏詮を下げた俺は市を部屋に呼んでいた。
先ほどの氏詮の言葉がどこか引っかかり、美濃攻めの支度が順調であるのか信長に確認するためである。
「お呼びと聞きました。兄様への文でございましょうか?」
「察しが良いな、市。実は急ぎ義兄上に確認したきことがあってな。それとなく尋ねて欲しいのだ」
「それとなくでなくとも兄様は喜んで答えてくださると思いますが…。それで、なんと?」
「美濃攻めの支度は順調であるのかとな。こちらも駿河平定に乗り出すにあたって、足並みをそろえておいた方が互いのためになると思っていると伝えてほしいのだ。ならばどの程度の支度が済んでいるのか答えがあろうでな」
ちなみにすでに美濃では例の事件が起きているという。俺も栄衆の知らせを受けて知ったのだが、竹中重治と西美濃三人衆による稲葉山城乗っ取り事件だ。
すでに首謀者の一人である竹中重治は家督を弟へと譲り渡して隠居。当然稲葉山城には斎藤家当主で一時城を捨てて逃亡していた斎藤龍興が帰還している。
これが隣国に知れ渡らなかったのは、あくまで龍興が痛い目を見て政に精を出すようにという折檻のような意味合いが強かったからだと栄衆は結論付けた。これを隙として隣国に攻め入られないようにとの配慮があったという。
しかし城を奪われた龍興がその真意を知るはずもなく、当然騒ぎ立てるであろうと思うのだが、おそらく龍興サイドにも竹中・西美濃三人衆側の人間がいたのであろう。
恥だなんだと言って大事にしないように事を収めたのではないか。
だが結局龍興にこの忠告は届かなかった。西美濃三人衆はより遠ざけられ、竹中も含めて不破関を半ば孤立した状況で守るように命じられているようだ。それでも浅井の度重なる襲撃を追い返すのだから、やはり腕は確かなわけである。そんな者たちを遠ざけて、酒や女に溺れる龍興。草葉の陰から父や祖父が泣いていような。
「美濃は大国でございます。兄様は今度こそ平定の足掛かりを得ることが出来ますでしょうか?」
「さてな。だがこれまでとは尾張と美濃を取り巻く環境が大きく変わった。過去の織田家は南の今川を気にしながら兵を動かす必要があり、さらに尾張国内にすら同族の敵が存在する状況だった。今では陸の孤島となった長島と、南北から圧を加えられて好きに動きが取れない北畠がいるくらいで、南は俺達が固めているゆえに思う存分に兵を動かすことが出来る。さらに織田の動きに便乗しようとしている勢力があることも考えれば」
「近江の浅井様でございますね。かつては兄様が同盟をと考えておられた御家で」
「その通りだ。そして市の嫁ぎ先の候補でもあった。俺の動く時期が少しでも遅れていれば、市は近江にいたやもしれぬ。そう思うと」
前世の市のイメージが悪すぎたせいで、婚姻同盟で嫁いでくる姫が市だと聞いた時は正直迷った。イメージ通りであればこのまま滅亡の道を歩むのではないかと。
しかしこうして迎えた今は違う。浅井長政なんかにとられずに済んでよかったと。絶対に史実のような悲惨なことにはさせないと。
まぁ第一印象などとうの昔に吹き飛んだと。そういうわけである。
「もしや私が浅井様に嫁いだ姿を想像して嫉妬してくださっているのでございますか?」
「悪いか?市ほどよい妻を迎えられたのだ。しかし同時に別の家に嫁ぐ可能性があったかと思うとぞっとする」
嬉し気に笑う市を見て、やはりあの時に関係悪化のリスクを冒してまで断らなくてよかったと思う。
この世界線では必ずつらい人生を歩ませないと何度目かの決心だ。
「…話を元に戻すが、駿河攻めの支度をせねばならぬ。こちらは駿西地域を除いて一万五千から二万ほどの動員が期待できる状況だ。そもそも今川館は攻められることを考慮していない造りであり、迫ることが出来れば彼の地を落とすことは容易だと見ている。あちらは集められたとしても五千もいないであろうからな。ただ問題は北条の手が入るやもしれぬということ。北条は一色よりもはるかに強大な存在だ。あちらも俺たちを意識しているようであるが、現状三国同盟が生きている今は敵である。もし駿河平定に時間がかかると、厄介な御方が顔を出してくる。それが一人であれば良いが、二人いると非常に面倒なことになりかねぬ。ゆえに義兄上とは足並みをそろえる必要がある」
「それを兄様にお伝えするのでございますね」
「そうだ。また織田の美濃攻めに便乗するのはなにも浅井だけではない。…恐れがある」
「朝倉様でございますか?たしか美濃の北部には越前への山道がいくつかあると聞いたことがございますが」
たしかに市の言うようにそういった道は存在している。
しかし厳しい山道であることに加えて、朝倉はこの春から加賀の一向一揆の討滅に本腰を入れることになっている。兵力を分散してまで内陸側の美濃に手出しはしないだろう。
「朝倉ではない。かつて上洛への足掛かりとして美濃に手を伸ばそうと画策していた武田だ。美濃の斎藤家とは因縁がある上に、元々調略の手が及んでいたという。その手も義兄上によってはたき落とされたわけだが」
叩き落とされたのが美濃東部に領主である遠山家だ。この地が織田方に与したせいで、武田の美濃攻めが困難になった。いっても美濃と信濃の間には木曽山脈の流れで隔たれているわけだからな。
だがどさくさにまぎれれば、山脈の向こう側におこぼれを貰えると手を出してくるやもしれぬ。今のところは武田も上野や信濃には手を伸ばしにくいはず。
義秋の動きを見て、上杉が武田の義秋支持を疑っていると勘づいたであろうでな。
ゆえに中立、あるいはどちらの将軍家にも与さない、はっきりしていない美濃に手を出そうとするのは必然であると言える。
「武田が再び美濃獲得に動き始める…」
「おそらくこのような第三国による干渉を義兄上も警戒しておられるであろう。ゆえに俺たちが駿河平定を成した際に武田が妙な動きを見せてくれば、これを理由に信濃への圧を加えることも一つだと考えている。駿河さえ手に入れてしまえば、厄介な御方の介入もさほど怖いものでは無い。俺が同じ越前の上様を支持している武田と敵対したからと言って、なんだかんだと行動を制限されたところで痛いことは何一つないからだ」
この雑談とも言えるが重要な今後の戦略とも言える言葉の数々は、市は一言一句聞き逃すことなく頭にたたき入れている。
信長に間違いなくこれらの言葉を伝えるために。
ただ馬鹿正直に書くわけにはいかないわけだ。もしどこかで文が紛失し、よからぬ相手に渡ってしまったら困る。そこで偽装であったり、暗号であったり。実の兄妹であるからこそわかる手段で、こちらの思惑を伝えなければならない。
俺が直接信長に文を出さないのは、そういった手段を持ち合わせていないゆえのことである。
「すでにそのための手を打ち始めている」
秋葉街道の封鎖後、大叔父である豊岳様は秋葉街道ではない山道を使って信濃から遠江へと戻ってこられた。
高齢であるにも関わらず通れたとは考えぬ方が良いような険しい道であったと聞く。そんな道を兵が通り抜けることなど出来ない。ゆえに信濃と北遠は完全に断たれたと思われているその思い込みを利用する。
北遠最北の領主は奥山家だ。元々は秋葉街道を管理しており、通行する人々から関の通行料を得て莫大な富を得ていた。今は豊富な山林の資源を活用して、国内完結の産業によって富を得ているわけだが、正月に行われた新年の儀の際にこっそりと命じていたのだ。大叔父とともに信濃から遠江入りした縁東寺の僧とともに山道の整備を行うようにと。国を越えればあちら側の秋葉街道に通じる道を確保してしまえばよい。
すでに一色と武田の関係が最悪であることを理由に、そして沼津という沿岸の地を手にしたことで秋葉街道の開通は二の次とされているようで、すでに信濃側も誰にも管理はされていないという。
つまりこっそり道を繋げでも、しばらくは誰にも気が付かれない、はず。という考えのもとで信濃入りのための新道を用意させているのだ。
「とにかく我らは外からの雑音を散らすために手を取り合う必要がある。そのことを義兄上に改めて伝えてほしい」
「かしこまりました」
「それと一つ。美濃に潜む賢人を見つけ出すべきだとも伝えてくれるか」
「賢人、でございますか?」
「あぁ。世捨て人とでも言うべきか。おそらく義兄上も探ればすぐに何があったのかわかるはずだ。どのような形でもよいが、その賢人は誰にも渡さず手元に置いておくべきである。それこそ浅井や朝倉、武田なんぞに行かれる前にな」
「…それについてはよくわかりませんが、間違いなく兄様にお伝えいたします」
「よろしく頼む」
しかし竹中重治、な。本当であれば時真とは違ったタイプの軍師として手元に置いておきたかったが、現状美濃の山中に籠っているあの男を俺に仕えさせることは困難である。それならばせめて信長の、あるいは史実同様秀吉の下に置かねば。
今後厄介な敵として立ちはだかられると面倒であるゆえに。
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