めぐる季節 春の訪れ
第1話
王国最強の魔法騎士と呼ばれたイグナーツだが、エッダからしてみればそれは本当かどうか疑わしいほどだった。
勇ましい戦いぶりは話に聞くばかりで実際に目にしたことはない。剣を携えている姿すら、一度も見たことがなかった。いや、正確には一度だけ見た。イグナーツが北辺に引っ越してきた時に。彼が持ってきた荷物の中に、愛用の剣があったのだ。しかし、それは完全に荷物で、ただ単に持ってきただけだった。そして、それは彼の部屋の片隅に置かれたきり、そのままである。時間ができた時には腕立て伏せをしたりだだっ広い庭を走り回ったり、夜には体をほぐす体操をしたりと、鍛錬とまではいかずとも体を整えることは行っているイグナーツだが、剣には触っていないようだった。
装飾は控えめで明らかに実戦向きのその剣は、飾りとしてはいささか武骨だ。そもそも置かれ方が棚に立てかけられているだけで、飾られている状態でもない。なんだかおさまりが悪く、剣の方も居心地が悪く思っているのではなかろうか。
まじまじとその不思議な装飾品を見つめながら、エッダはそんなことを思う。
「うん、ぴったり。ありがとうエッダ!」
弾む声が飛んできて、エッダははっとした。声が聞こえた方に振り返ると、イグナーツはすっかり新しいシャツに着替え終わっていた。
イグナーツが身に着けているシャツは、エッダが縫ったものである。春夏用のシャツが一枚できあがったので、試着してもらったのだ。薄手の白い生地で仕立て、胸のポケットには小ぶりの刺繍を刺した。春夏用ということで、濃い紫の糸でツバメとスミレを描いた。
イグナーツの言葉どおり、袖や裾は長すぎず短すぎず、丁度よさそうだ。
「ふふ。ツバメだ」
笑い声をこぼして、イグナーツは胸元の小鳥をそっとなでる。嬉しそうな彼の様子に、エッダも自然と笑顔になった。
「ねぇねぇ、エッダ。このツバメはつがい?」
イグナーツが尋ねる。
エッダがシャツに刺したツバメは二羽。数片のスミレの周囲を囲むように二羽のツバメが飛び交う、という図案の刺繍だった。そして、エッダはツバメの尾の長さをそれぞれ変えた。つまり、イグナーツの言うとおり、オスとメスのつもりで刺繍したのだ。
ツバメは雌雄そろって子育てをする。昨年の春、エッダは親鳥が次々と雛の待つ巣に向かうところを見た。オスとメス、二羽のツバメが鳴きながら飛び回っているところや、木の枝で身を寄せ合っている姿も見かけた。なんとも微笑ましい光景であった。ツバメのつがいは、仲睦まじい。そんな印象がある。
「そう。ツバメのつがいは仲良く一緒にいることが多いから、その模様もそのつもりよ」
「うん、そうだね。仲良しだもんね」
一層頬を緩ませながら、イグナーツはまたツバメをなでる。彼の考えていることがなんとなく分かって、エッダは急に恥ずかしくなった。
別に、自分たちをなぞらえて刺繍をしたのではない。
けれど、そんな風に考えるのもいいかもしれない。いつまでも、ツバメのように睦まじい夫婦でありたい。
そう思ったら、エッダはさらに恥ずかしくなる。本心ではあるものの、どうにも照れくさい。少し頬が熱くなってきた。
イグナーツはまだ刺繍を眺めていた。その締まりない顔つきは、元王宮騎士であるとは到底思えない。イグナーツ曰く、「王宮では人前でこんな風に笑わなかった」とのことなので、王宮にいた時はまた別の顔を見せていたのだろう。恐らく、戦いの場でも然り。
しかし、エッダの前では彼は
エッダはつと剣を見る。やはり、イグナーツとあの剣が結びつかない。
「剣、何か気になる?」
イグナーツの問いかけに、エッダは振り向く。
彼は笑顔をひそめて、眉尻を下げている。その表情には困惑がにじみ出ていた。愛用の剣のことなのに、随分とばつが悪そうだ。
エッダは、答えに迷った。
イグナーツは王宮騎士であった頃、何かと嫌な思いをすることが多かったようだ。現国王陛下は政治手腕に長け、多くの人から愛されている優れた君主だ。しかし、それでも王宮は足の引っ張り合いやら腹の探り合いやら派閥争いやら、そんなものであふれている。イグナーツも、本心を隠して立ち回っていたという。なんでも、だいぶ良い人ぶっていたらしく、エッダと接する時とはまるで様子が違っていたらしい。王宮騎士としての誇りはあるといえど、しかしその地位を手放しで喜べるほどでもないようであった。
一応、彼は未だ騎士であるが、王宮騎士ではない。しかし、そのことについては何も後悔はないと、イグナーツは言っている。王宮に戻る気もまるでなく、彼は今、剣ではなく鍬を手にして毎日畑仕事に励んでいる。
そんなイグナーツである。今さら騎士であったことを掘り返すのは、気を遣う。あの困ったような表情だ。何か嫌な記憶をつついてしまったかもしれない。
エッダが言葉に迷っていると、イグナーツの方が先に口を開いた。
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