第23話【夜雨が啼く】

【少年・1】

 おれに謝った瑠璃。

 ぼろぼろ泣きながら、それでも笑ってみせた修理。

 あの人たちは、きっと善い人ではないのだろう。

 おれの人生をめちゃくちゃにして、三か月分奪った魔女の人。

 人を騙して無理矢理生きようとする詐欺師の人。

 頭は理解している。悪い人なんだ──


 雨は雑音だった。

 あらゆる物に固い水滴を当てて、鳴かせて

 黒く膨らんだ雲は月も隠してしまう。

 満月の日。月の光が一番大きくなる日。

 それで、星の光が塗りつぶされてしまうそんな日に、魔法が解けると魔女は言った。今夜はその日で、けれども同時にびっくりするくらいの大雨だった。

 一体どれが魔法なんだって問われれば、きっと魔女の存在自体が魔法に近かったんじゃないかと思う。けれども確証はないから、何が起こるかわからない。

 だから必要な備えは覚悟だけだった。何が起きようと、するべきことをいち早く見極める心構えだけは欠かしてはならない。裏を返せば、今のおれにはそんなこと以外何もできない。

 明かりを消した部屋で膝を抱いた。視線は上へと傾いて、窓枠の暗闇へと突き刺さる。

 手ごたえは無い。

 親は両方寝た。娘のことはもう、ほとんど忘れているようだった。けれどもおれを思い出すようなこともない。振られたこの賽がどちらに転ぶかわからない。どの目がどの意味を示すのかすら、わからない。

 だからやっぱり心構えだけは欠かさない。おれには──それしかできない。

 姉さんの部屋は消えた。

 しかし改めて考えてみれば、あんなところに部屋があっただろうか? 

 扉から入って階段を昇って、左に曲がって、そこには壁しかないはずで。

 そのことを考え出すと、どうしてか腹の中身がぐるぐる回る。気持ちが、悪い。

 魔女がいたという証拠は、遺書代筆屋のお姉さんが根こそぎ持って行ってしまったから、きっと二人はもう、娘のことを思い出すことすらしないのだろう。

 これで三人家族に戻るのだ。元の三人に戻って、おれはまた岸波家の一人息子になる。

 ふと、何故だろう。

 家が広い──


 呼び鈴が鳴った。

 雨音の雑音を潰して響く。

 こんな夜に

 確かに日付の変わる瞬間が、明暗と黒白の境界線である、こんな大切な夜に。

 厄介だと思って、すぐ熱くなる──何故だろう。

 おれはこの来訪者に会わなければならないと、確信していた。






【詐欺師・21】

 寒い。

 雨を凌ぐ衣など必要ない。走る速度が遅くなる。進むために努力しないことは退くことと同義だった。時計の針は、激情とは何の関連性もなく、同じ歩幅で置き去りにする。

 可能な限り身軽で、ただ目標のためだけにこの身をも顧みず走ることができるように。

 目標は、

 目標は──何だっただろう。

 カッコいい男になりたかった。目の前の人に笑っていて欲しかった。姉さんを喜ばせたくって頑張った。で、その全てが夢幻泡影と水面下で消え失せて、頭の中身が空っぽで、これではまるで殻のようで、これがカサブタなのか鎧なのか鱗なのかわからなくって、

 途方もないくらいにもどうでもいい思考。絡まって、一度すべてをやり直したくなる。俺にはやることがあったはず、やりたいことがあったはず。洞穴の中のように、どん詰まりで伽藍洞で、だから単調な音でも激しく反響して、(ああ阿呆というのは案外得なのだな)などと、タダ楽な方向へ堕ちてゆく。

 泣き叫ぶ雨が脳内BGMの全てを轢き殺して無音の虚へと俺を落とす。

 握った拳の内側に熱は無い。感覚は無い。こんな縮んだ神経は、乾いた海綿のように軽い脳が下したあらゆる命令を無視した。嗚呼しかし、

 拳は意志も何も関係なく頭を殴りつける。

 感情の無い拳は一切の痛みを呼ばなかった。ただ何か灰色の波が胃の底から這いあがっては、揺れて、揺れて。揺れて揺れて、

 波音の狭間に見つけた青い輝きは何物であったのか。

 きっと考えるだけ虚しいのだろう。思い出すのは過去だから。もう諦めてしまって、諦めざるを得なくって、故に綺麗な色を無益にも妄想することすら、流す氷雨が否定する。

 病のような心地だった。夢の中で溺れているかのように、全ての感覚が判然としない。指先が泡立って肉と骨の境界は影と消え失せた。立っているのか、浮いているのか、座っているのか寝ているのか? 果たしてこの雨の臭いは現実なのか、捻じれているのは物体なのか精神なのか、嗚呼。

 その絡まった神経を、一太刀に下すように

 我楽と音を立て、扉が開く。

 控えめに開いた隙間から、新葉が顔を出した。

「よっ」

 その恐ろしく怪訝な表情を、軽々しくも飛び越えるように片手を挙げた。そしてそのまま目線を合わせようと膝を突く。今更、汚れることなど厭わない。

 思い出すのは誰かの笑顔。真似て、猿真似て、歯を零す。

「どっか行こうぜ」

 少し前にも似たような言葉を吐いた。相手は新葉だったはずだ。

 そう、そこで完結しているはずなのだ。俺は新葉に何処かへ行こうと提案した。それで新葉は来てくれて、助手席は危険だからって、なんで左後ろの席に座ったんだっけ? シートベルトはしめろって、俺は何処に向かって、ああ、それで海に行って、

 円形の器が欠けている。

 信号の色が欠けている。

 何か一つだけ思い出せない。


 新葉は何も答えない。

 酷く──恐ろしい怪物を眺めるような瞳だった。

 星の無い宙のように、少し青く。

 欠けている。

 瞳に、星の光が足りていない。

 憎いのはこんな雨雲だった。誰の涙の成れの果て。結晶のような血液は、何時しか熱を失って透明に降り注ぐ。忘れてしまったのは人の温度で、だからこんな雨雲は憎かった。

 星の光を忘れさせたこんな天蓋に殺意を燃やして、けれども悟られぬようにと上辺は丸く整えた。煮える硫酸を満遍なく掛けてやる。すると一回りほど矮小になって、この見た目は丸いまま。それで良い。それ以上は望まない。

 燃えるように痛くても、雷土ほどの威力でも、そんなものは俺が何も考えなければ何も問題は無い。脳味噌を壊せば世界は平面なままなのだ。

 しかし厄介なことがあるとするならば、俺を好いてくれる阿呆な人たちは、そんな痛みを拒むということ、俺の痛みを一緒に背負ってくれようとすることで。

 更に厄介なことを挙げるならば、俺はその気持ちばかりには答えられないことだった。

 

 新葉は暫く考えていた。けれども俺は知っている。新葉は両親を好いているのだから置いていくことなど出来やしない。意地悪な提案だった。断られて、突き放されればいっそ全てが楽になるんじゃないかと甘えた魂が下した判断だった。

 雨の溜まった器に問うた。

 するとそれもまた同じように答えて、自分の方角が一致する。

 しかし、正反対の方向へと新葉は頷く。

 青い琥珀が瞬いた。





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