天神教授
私は普段動かさない体に鞭を打って、鬼気迫る表情で、講義棟の廊下を全力疾走した。もし、あの小説を見られてしまえば、恥ずかしさでゆでだこのようになってしまう。
私が小説を書いているのは、自分が自分を楽しませるだけの自己満足だ。それを誰かに読まれようものなら、自分の中の何かが壊れてしまう気がする。私は私の中に閉じこもっていたいのだ。
まあ、そんな御託はどうでもいいから、とにかく他人に読まれたくはない!
私はドクドクと音が聞こえるほど脈打つ体に、もう少し早く走るように神経信号を飛ばした。私がそうやって限界を超えて走っていると、さっきの入り口が見えた。
私はその講義室の扉に飛び込むと、講義室にはほとんど誰も残っていなかった。ただ、講義をしていた教授だけが黒板の板書を消している。そして、私が座っていた前の席には教科書と一緒に、私が書きかけていた小説の原稿用紙が残っていた。
私は息切れの合間に、安堵のため息を吐いた。私は板書を消している教授の方に一礼をして、そそくさと私の席に向かった。そして、教科書を手提げカバンに入れ、原稿用紙をまとめて、手提げカバンに入れようとする。
すると、あることに気が付く。原稿用紙が黒板側を向いている。
私はもちろん机に向かって、小説を読んでいたはずだから、原稿用紙は机の方に読めるようになっているはずだ。しかし、原稿用紙は黒板方向に読めるようになっている。私が置いた方向と逆になっているのだ。
つまり、誰かが私の小説を読んだ。
私は頭の中に、いつの日か調べた麻縄の括り方が脳裏をよぎった。私は一瞬だけ絶望の淵を見たが、正気に戻って考える。原稿用紙が黒板の方に向いているということは……
私はゆっくりと黒板の方へと振り返る。
「正解!
読んだのは僕だよ! 文学少女!」
教授は40代とは思えないほどの無邪気な笑顔と声を出していた。講義中の真面目で硬そうな教授とは正反対だ。
いや、今はそれどころではない! まさか、教授に読まれるなんて思わなかった。まだ、学生に読まれていないだけましだろうが、他人に私の作品を読まれたことが恥ずかしい。
「やはり、このミステリーを書くだけあって、洞察力は優れているらしい。
久しぶりに合理的なミステリーを見た。君はよく私の講義を聞いてくれているらしい。講義に出てきたゲーム理論の偉人ばかりが登場人物となっている。それに、ナッシュ均衡をうまい具合に、ミステリーに落とし込んでいる。
はっきり言って、素晴らしい!」
ナッシュ均衡? 講義でそんなことを言っていた気がするが、この小説の中にそんなものを取り込んだ記憶はない。それに、登場人物は配布プリントの人物を人を当てはめただけだ。彼らが何をしたのか分からない。
そもそも、教授は私が考えたミステリーの謎を解いたのか?
ナッシュ均衡が何だか知らないが、何か教授は思い違いをしている可能性が高い。私が言うのもなんだが、このミステリーのトリックには自信がある。確かに、この書きかけの状態で、犯人を推察することは出来るが、簡単には思いつかないようにしている。
それも、あんな短時間で犯人を導き出せるはずがない!
「だが、ちょうどいい所で、小説が途切れている。犯人は……で終わっている。ドラマでコマーシャルが入ってしまった時の様なじれったさだ。
はやく、ここに、犯人はクルーノーだと書いてくれないか?」
やはりだ。教授は勘違いをしている。
「天神教授……。あのー、非常に言いにくいのですが……。
この小説の犯人はジェーンです。」
私はそう言い切った。私はこの作品の中で、ミスリードをしたつもりはなかったが、どうやら教授はどこかで、犯人がクルーノーであると勘違いしたらしい。
教授は私の言葉を聞いて、ゆっくりと笑顔が失われる。教授は手で顎をさすり、目線を上に向けて、しばらく考えた。そして、教授はこちらに目を向けた。
「いや! 犯人はクルーノーだ。
だって、ガラスの花瓶が割られていただろう?」
「そうですけど、あれは……。」
「床の傷を隠すためだと見せるため。
そうだろう?」
私はびっくりした。教授は私が必死に考えたトリックを一瞬で見抜いていた。
「えっ、そこまで分かっていて、どうして、クルーノーが犯人だということになるんですか?」
そう私が言うと、教授はもう一度目線を上に向け、考え直した。そして、教授はクスリと小さく笑った。
「なるほど、分かった!
君は合理的でないな!」
教授はパワハラともとれる暴言を私に浴びせた。
「どういうことです?」
「そして、君は私の講義を真剣に聞いていない!」
それに関しては、図星である。
「いや~、この小説は合理的で私の講義をよく理解している人間が、ナッシュ均衡を使って書いてくれた作品であると思ったのだが、君は私の講義を聞いていなかったようだね。」
「いや、ちょっと待ってください! 確かに、私は講義を真剣に聞いていなかったですが、この小説の犯人はジェーンです。だって、作者がそう言っているんだからそうでしょう?
きっと、教授は何か推理に不備があるんですよ。だって、私はそれなりに考えてこの作品を仕上げたんですよ。」
「いや! 私の推理及びナッシュ均衡に間違いはない。君が合理的でないだけだ。君の推理の方に不備があるのだ!」
教授は作者の前で犯人を否定するという不利な戦いを挑んでいる。それでも、相当な自信で、私に盾突いて来る。
「なら、私の推理を聞かせてあげます! きっと納得するはずです!」
「どうかな? 君の非合理性を証明するだけになるだろうがね。」
教授は厭味ったらしく、そう言った。私は恥ずかしさなど、とうに忘れてしまい、私の作品を否定されたことのいら立ちがふつふつと湧いていた。
「じゃあ、証明してあげます! 犯人はジェーンであると、作者であるこの私がね!」
私は荒々しい口ぶりでそう言った後、これから書こうとしていた解決編の推理を頭の中でまとめた。そして、自分の推理を始めた。
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