第25話
書きかけの原稿に向かって、どの位経っただろうか?
僕はノックの音に気付いた。
時計を見れば、9時を少し過ぎている。
他人の部屋を訪ねるには少々遅い時間だ。
「誰?」
「僕だよ、エリック」
「どうぞ。鍵は開いてるよ」
僕は首を傾げながら、机を離れた。
ドアを開けて入って来たエリックは、カップが2つ載ったトレイを持っていた。
「こんな遅くになに?」
「コーヒーでもどうかと思って………ぃや、正直な話、ちょっと聞きたい事があるんだ」
僕はエリックをソファに促した。
エリックはドアを閉めて入ってくると、トレイをテーブルに置く。
僕の前にカップを置いて、向かい側に座った。
「ブラックで良かったかな?」
「あぁ、うん」
僕はカップに口を付ける。
が、エリックはそんな僕をじっと見ているだけだった。
エリックが何を聞きたいのか想像つかない、という訳ではない。
多分………彼女の事。
彼女とラリーの事を聞きたいのだと思う。
でもその表情が真剣で、だから確信が持てない。
僕とラリーと彼女を巡る三角関係で、エリックがこんな表情をする理由があるとは思えない。
何故エリックはこんな困ったような表情を?
内心で首を捻りながら僕がカップ置くと、エリックは身を乗り出し、膝の上で両手を組んだ。
「君の恋人って、アンナ・ケフナーなんだってね」
やっぱりそうか。
僕は頷いた。
「そうだよ。でも、どうして?」
さっき、彼女のファミリーネイムを話した記憶はない。
「あぁ。ハリナンさんがね、教えてくれた」
マダムが………
そういえば、この前ここに彼女が来た時、この部屋にいた。
あの時、彼女がラリーに自己紹介したのを聞いたマダムが固まっていた事も思い出された。
「それで?」
「君はケフナー家の娘の噂を聞いた事はないかい?そう……7、8年前位に」
「7、8年……さぁ、思い出せないな。そんなに有名な噂なのかい?」
エリックは真剣な表情のまま頷いた。
「その噂は上流階級の間であっという間に広がり、その後、それらの家の使用人達の口を通して街中に広がったんだ。この街に住んでいた君がそれを知らない事の方が、僕には不思議だ」
僕は薄く笑った。
「その頃僕は、屋根裏の小さな部屋で薄い毛布に包まり、売れない小説を書いていたよ。夏なら半裸でペンを握っていただろうね」
エリックは、あぁ、と納得したような顔をした。
彼自身は下宿に暮らしているが、実家は今も裕福な家の3男。
落ちぶれて、そこから這い上がった僕とは大違いだ。
「それはごめん。そうか……だったら、初めから話した方が良さそうだ」
エリックはそう前置いて、アンナ・ケフナーに関する噂を教えてくれた。
「さっきも言った事だけど、今から7、8年前の秋。アンナ・ケフナーは死んだ」
「え?」
僕は耳を疑った。
「今、なんだって言った?」
「アンナ・ケフナーが死んだって言ったんだよ、ヘンリー」
「エリック、正気か?それともたちの悪いジョークを思い付いたのかい?」
エリックは頭を振る。
「本当なんだ、ヘンリー。彼女は一度死んで、1日以上経って生き返った」
「はっ!」
笑う事も出来やしない。
「なんだいそれ?本気で言っているのか?死んだ人間が生き返るだなんて……最初の診断が誤診だったに決まっている」
僕は呆れ、バカにした口調になっている事を自覚しながらも、それを改める事はなかった。
「それをみんなが信じたって言うのか?そんなバカな事を信じるなんて………この街の人間は愚か者ばかりなのか?」
「ヘンリー、彼女が死んでいる、と診断したのはマックアーク医師だよ。この街どころか、この国でも5本の指に入る程の優秀な医者だ」
「いくら優秀でも、彼が誤診しなかったとは言い切れない」
僕は腹立たしい気持ちを抑えもせずに言った。
エリックはちょっと困ったような表情を浮かべたが、両手を広げ、僕に落ち着くように言った。
「ヘンリー、僕の話を聞いて欲しい。僕の一番上の兄はケフナー家の二男の友人だ。仕事を通じて知り合ったらしい。何でも話せる友人として、ずっと交流がある。僕は兄から聞いて、当時の事をよく知っている」
「それで?」
「アンナ・ケフナーは、あの家族にとって宝物だった。彼女が死んだ、と診断された時、彼らの両親はもちろん、兄弟も悲しんだ。その体を抱きしめ、顔に触れ、柔らかさと温もりが失われていくのを実感したんだ。体を清め、棺に横たえ、教会に運ぶ時も彼らは悲嘆に暮れていた。それが、だ。一昼夜教会で過ごした翌朝、彼女は起き上がった。もう一度言う。アンナ・ケフナーは一度死んで、生き返ったんだよ」
「………神の思し召しだ。もしそれが本当なら、彼女は神に祝福されたんだ」
「違う」
僕の言葉をエリックは押し殺したような声で否定した。
「逆だよ、ヘンリー。彼女は神の意志に背いたんだ。だから生き返った。それも、不完全な形でね」
「不完全?どういう意味だい?彼女ほど完ぺきな人間はいない。君は知らないだろうが、彼女は気高く、美しく、その知識も教養も素晴らしいんだ」
「彼女は生まれてから死ぬまでの全てを忘れていた。家族の事も自分の事も、全てを死者の国に置いて来たんだよ」
「どういう事?」
「言った通りさ。生き返った彼女は記憶を失っていた。それだけじゃない。態度が変わった。口調が変わった。嗜好が、趣味が、全部が変わってしまったんだ。最初の話に戻ろう。ケフナー家の娘の噂についてだ。アンナ・ケフナーは魔女だ」
「ぷっ、くくくっ」
僕は笑った。
余りに突拍子もない事なので、笑うしかなかった。
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