第19話
九十九神社の鳥居をくぐった瞬間、空気が切り替わった。
さっきまで普通の山道だったのに、ここだけ湿度が一段階上がる。息を吸うたび、肺の奥に"重さ"がまとわりつく。霊気というより、もっと生のままの情念。境内全体が、誰かの気配で満たされている。
「……やば。ここ、本気で重いですね」
黒い翼が勝手に震えて、警戒レベルを上げてくる。颯もすでに『
「小角、油断すんなよ。ここは"ただの神社"じゃない」
「分かってます。……でも、これだけの霊圧なら——」
言いかけた瞬間、境内の奥から"ざわっ"と音がした。
囁きだ。しかも一人や二人じゃない。無数の声が重なって、波みたいに押し寄せてくる。
——助けて。
——苦しい。
——逃げたい……でも、離れられない。
女性の声。数えきれないほど多い。桔梗姫と九十九人の侍女。その未練がまだここに縛られている。
「颯さん。奥……社殿の裏です。行きましょう」
「了解! ついてこい、小角!」
社殿の脇を抜けた瞬間、風景がぐにゃりと歪んだ。重力の向きがおかしくなる。景色の輪郭が溶け出す。ここから先は——現実じゃない。
「幽世……完全に境界越えましたね」
「ああ。もう"神域の奥"だ。覚悟決めろ」
目の前の木々は形をねじらせ、枝が真横に生えているものまである。時間の流れが狂っている。道を進むにつれ、空気が濃くなり、胸にのしかかるような圧が強くなっていった。
そして道が途切れる。深い渓谷。底には赤く濁った川。現実の大血川ではなく、この異界に作られた記憶と怨念の"写し"。血の匂いが刺すように鼻を突いた。
「……侍女たちの未練が、この世界を形成してるんだろうな」
颯の声は低い。そのとき、水面がゆっくり盛り上がった。
ゆらり。
影が浮かび上がり——鱗。巨大な胴体。
「龍……!」
颯が叫ぶ。
頭も尾もない、胴体だけの龍。形だけをとった、想念の集合体。九十九人の魂が絡みつき、その周囲を黒い霧が上がっている。霧は怨霊の呼気みたいに空間を汚染し、圧をさらに増幅させていた。
侍女たちの影が浮かび上がる。顔は見えず、ただ口だけが動く。
——姫様を守る。
——苦しい……でも手を離せない。
——近づくな……帰れ。
頭の奥に直接突き刺さるような声。意識が引っ張られる。視界が揺れ、俺はふらりと足を取られた。
「小角! 戻れ!」
颯の怒鳴り声で意識が繋ぎとめられる。俺は大きく息を吸い、頭を振った。
「大丈夫……でも、想念の声が強すぎて」
「この異界そのものを維持してるのは、侍女たちの"怨念の固まり"だ。しかも——」
颯が龍の奥、揺らめく空白を睨む。
「……かすみの気配がする」
胸の奥がざわりと揺れた。山守かすみ。行方不明の魔法少女。
「取り込まれてる……?」
「はっきり感じる。修験道の霊力が、この異界の柱にされてるんだ」
颯の声には焦りと怒り、それと悔しさが混じっていた。
俺は黒い翼を大きく展開させた。颯も天叢雲刃を構え直す。金色の瞳が、さらに鋭く輝いた。
「行くぞ、小角! ぶっ飛ばす!」
颯が地面を蹴って、渓谷へと飛び込んだ。俺も黒い翼を広げて追随する。風が顔に当たり、髪が激しく揺れる。眼下には赤い川が広がり、龍の胴体が大きく横たわっている。
侍女たちの影が、一斉に俺たちを見た。
——来るな。
——邪魔をするな。
——姫様を、守らなければ。
九十九の声が重なって、空気が震える。次の瞬間、侍女たちの影から、光の壁が立ち上がった。防壁——想念が形を成したバリア。
「
俺は翼を刃のように展開させて、防壁に斬りかかった。重力を乗せた斬撃が、光る壁を叩く。ギィィンという金属音が響き、火花が散る。でも、壁は崩れない。
「くっ……硬い!」
颯も天叢雲刃を振るって、防壁に斬りかかる。雷光が走り、水飛沫が舞う。でも、やはり壁は崩れない。侍女たちの想念が、何重にも重なって防御している。
「ハァッ!」
颯が大きく刀を振り上げ、全力で叩きつけた。雷光が爆発し、周囲が眩しく光る。でも、壁には亀裂が入るだけで、完全には崩れない。
そして——反撃が来た。
白い光の槍が、無数に俺たちに向かって飛んでくる。想念が武器の形を取って、攻撃してくる。俺は翼を盾にして受け止めたけど、衝撃が全身に伝わる。颯も剣で弾くけど、数が多すぎる。
「小角、これは——!」
「まずい! このままじゃ、押し切られます!」
侍女たちの影が、さらに濃くなっていく。周囲の空気が重くなり、呼吸が苦しくなる。龍の身体が大きく震え、水面が波立つ。まるで、侍女たちの力が何者かに増幅されているみたいだ。
その瞬間、俺の視界が"引きずられる"ように揺れた。
見える。かすみの意識。侍女たちが彼女を囲み、その奥に——薄紫の衣、悲しげな瞳。桔梗姫。
——やめて。
——誰も傷つけたくないのに。
姫の声はかすかだが、涙の色を帯びていた。だがその後ろに、巨大な翼を広げた黒影が見えた。天狗……いや、それよりも凶悪な"何か"。黒い羽根が幽世全体を覆っている。圧倒的な威圧感。視界が断ち切られた。
「小角ッ!」
颯の叫びで現実に戻る。
「見えました……かすみさんの意識。でも侍女たちが囲んでて、外から……もっと強いのが見てる。黒幕、たぶん——」
「分かった! でも今は退くぞ、小角! このままじゃ押し潰される!」
颯が俺の腕を掴み、強引に後退を促す。侍女たちの怨念が膨れ上がり、視界が黒く揺らぎ始めていた。俺は翼を広げ、その場を一気に離脱。颯も雷をまとって跳躍する。背後から声が追ってくる。
——逃がさない。
——次は、もっと深く……
その声が途切れたところで、ようやく境内まで戻った。颯が肩で息をしながら、境内の鳥居越しに奥の闇を睨んだ。
「……小角。次に潜るときは、迷子になるかもしれない」
「分かってます。幽世の層が深すぎる。普通に突っ込んだら確実に迷います」
現実と幽世の境界がぐしゃぐしゃで、景色が"記憶"と"怨念"で勝手に組み変わる。探知系の符も重力感知も、あそこでは精度が落ちる。
颯が唇を噛む。
「……かすみの意識は確かにあった。けど、あの深さだと俺じゃ辿れない。何か"糸"が必要だ」
「糸……」
俺は少し考える。颯の雷も、俺の重力も、あの異界の中じゃノイズが乗ってしまう。
——じゃあ誰ならできる?
脳裏に、あの金色の瞳が浮かぶ。
いづなだ。
あいつの『心穿』は、空間じゃなく"心そのもの"を辿る能力。景色や地形が歪んでも、心の座標だけは狂わない。
ただ、電脳メッセージを送る前に、胸の奥に不安が走る。
……いづな、あの龍の怨念を見たら、正直しんどいかもしれない。
いづなは優しい。強がりだけど、心の痛みにめちゃくちゃ敏感だ。
でも、ためらってる場合じゃない。
「颯さん」
「なんだ?」
「仲間を巻き込むの、正直怖い。でも……助けられるのもあいつしかいない」
颯は少し目を伏せ、そして静かに言う。
「……小角。呼ぶか呼ばないかじゃない。任せるかどうか、だよ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
俺はいづなの名前をタップし、短くメッセージを送る。
*『いづな、頼みたいことがあるんだけど……』
送ってすぐ、既読がつく。
*『また1人で抱え込んでんじゃないでしょうね? どこ?』
——やっぱ、こいつは強ぇ。
*『……秩父。だから来て』
*『……っ、もう! 行ったげるから動くなよ!』
送信画面を閉じて、颯に向き直る。
「いづなが来たら、次は深層に潜ります。桔梗姫の中心、かすみさんの心の場所……全部辿れるはず」
「よし。俺も準備する。……小角」
「はい?」
「ありがとう」
その瞬間、九十九神社の奥で、侍女たちの泣き声がひときわ強く響いた。さっきよりも深い。迷宮がさらに"下の層"へ沈み込むような気配。
いづなが来るまでに、俺たちは態勢を整える。次は——心の底へ踏み込む"潜行戦"だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます