6 魔法庭園へようこそ

 食事を終えた後、リゼルは息も絶え絶えに、自らの魔法庭園ガーデンへ足を向けた。


 魔法庭園とは、魔女や魔法使いが作る特殊な領域。


 結界を張り、その中に自らの魔力を隅々まで満たすことによって、魔法を発動しやすくできる。魔女や魔法使いにとっての城、要塞と言ってもいい。


 マギナ家では魔法庭園を作れて一人前とされていた。けれどもリゼルには土地が与えられず、いつまでも半人前の魔女として留め置かれていたのだ。妹のメイユが魔法庭園を作り、どんどん領域を増やし、高度な魔法を組み立てていくのを指を咥えて眺めるしかなかった。


『お姉様はまだ魔法庭園を作れないの? 〈鳥の目〉持ちって本当に無様ね』


 そう嗤われて、辛うじて手に入れた貴重な魔法書を目の前で破かれたのを、未だに覚えている。


 仲の悪い姉妹だった。メイユは黒髪の美しい少女だったが、リゼルを玩具のように扱い、時々離れを訪れては、他の使用人とともに嬲った。そのくせ魔法に対しては怠惰なところがあり、父親から出された課題をリゼルに代わりにやらせるようなこともあった。リゼルとしては殴られるよりも課題の方が楽しく、助かったが。


 そういうわけで、グレンから「好きにしろ」と言われて真っ先に取りかかったのが憧れの魔法庭園作り。


 元は温室だった場所に結界を張り、薬草を植え、小川を流し、春風を吹かせ、魔力炉を置き、ささやかだが居心地の良い庭を作り上げてみせた。


「さて、と……あら?」


 魔法庭園の真ん中に据えた魔力炉――元々は温室を温めるための暖炉だ――を見ると、魔力の炎の光が弱まっていた。この魔力炉の力によって魔法庭園の環境は保たれているから、炎を絶やすことは絶対にできない。


 リゼルは懐から短剣を取り出すと、躊躇なく髪を一房切り、魔力炉に投じた。


 途端、微睡むようだった炎がごうと音を立てて燃え上がる。弱々しい橙だった炎色も、一等星にも負けない白色に変わって輝き始めた。


 風が吹き寄せて、不揃いになったリゼルの髪をさらさらと揺らしていく。眩い炎に満足したリゼルは、近くの長椅子にちょこんと座り手足を伸ばした。


 リゼルの髪を食らった炎が、ぱちぱちと爆ぜて夜闇に金の火の粉を舞い上がらせる。


 これが魔法の本質だった。


 魔法を使うには、術者の一部が必要になる。爪でも髪でも血でもいい。それが魔力に変換され、唱えた祈りは世界の理を覆していく。


 奇跡を願うには、相応の代償がいるのだ。


 リゼルはそうっと、グレンにもらった花束を取り出す。花びらが丸まっていたが、様々な薬草に囲まれた中でも、その清冽な香りはいっとう芳しい。


(……もしも、この花を永遠に生かそうとすれば、何が必要になるかしら)


 そんなことはしないけれども。


 それでも、少しだけ悪心が頭の隅をよぎる。もしグレンが元に戻っても、花束さえあればこの奇跡のような数日間をずっと覚えていてくれるだろうか、と。


 自分の想像に、リゼルは苦く笑った。


「……馬鹿ね。それより、旦那様の記憶を取り戻す方法を見つけないと」


 ここ数日、とにかく心労がすごい。


 グレンはまるで人が変わったようだ。あたかもリゼルが大切な妻であるかのように、愛と見紛う何かを惜しみなく振りまく。


 あれは本当の旦那様ではない、と思う。


 本来の彼はもっと冷淡で、リゼルを何とも思っていない。そのはずだ。


(そのうち戻るとお医者様は仰っていたけれど、こんなの旦那様を騙しているみたいで嫌だわ。私の魔法で、一日でも早く記憶を戻せたら……いえ、簡単ではないわね)


 マギナに伝わる魔法は、主に物質を操作するのを得意としていた。火をつけたり、水を一瞬で凍りつかせたり、空気を操って透明な壁を作ったり。


 すなわち物理的な怪我の治療は容易いが、記憶のように形のない物の取り扱いは難しいのだ。失敗すればさらに被害を拡大させる恐れもある。


(でも、不可能を可能にするのが魔法だもの。魔法書店に行って、国外の魔法書を紐解けば何か見つかるかもしれないわ。……頑張るしかない!)


 そう胸の内で拳を振りあげたとき、庭園の入口に人の気配を感じ取り、リゼルは総毛立った。


「ど、どなたですかっ」


 長椅子から跳ね立つのと入口に声を投げるのは同時。すでに花束は置いて、右手は短剣を引き抜いている。魔女の戦闘態勢はおおよそこのようなものだ。


 しかし入口に掲げたランタンの下、ふっと現れた背の高い影を見留め、リゼルは目を瞬かせた。


「我が妻は勇ましいな。騎士団に入るか?」


「……だ、旦那様!? 失礼いたしましたっ」


 くつろいだシャツ姿のグレンが、開け放たれたガラス戸にもたれてくすくす笑っていた。頭上から注がれるランタンの光が、彼の整った顔を穏やかに照らす。


 グレンは腕を組み、珍しげに温室を見回した。アーチを描くガラス張りの天井、レンガを敷き詰めた小径。その両側に植えられた、酩酊の香りをまとう薬草。純白の炎が燃える魔力炉に、何の変哲もない樫の長椅子。


 それら一つ一つに目を留め、最後に、急いで短剣をしまうリゼルに視線を落ち着けた。


「もしリゼルが良ければ、俺もこの庭園に入って構わないだろうか」


 葉擦れに紛れさせるような小声で、律儀にお伺いを立てる。リゼルは戸惑って瞳を揺らした。


「……旦那様は、このお屋敷の主です。私の許しなどなくとも、どこに足を踏み入れても構わないお立場です」


 現に庭園に張り巡らせた結界も、グレンだけは例外としている。お飾りの妻である以上、彼の屋敷に彼の入れない場所を作るのは憚られた。


「だが、ここは魔法庭園だろう。他人がおいそれと踏みこんでいい場所ではないはずだ」


「え……」


 グレンの口から飛び出した単語に、リゼルは目をぱちくりさせる。この国において魔法は学問の主流ではない。まさか騎士である彼が魔法庭園を知っているとは思わなかった。


「ど、どうしてそれを? よくご存知ですね」


「俺の書斎には、魔法についての書物が揃えてあった。おそらく、妻に関わる事項だから調べたんだろう」


 近くを流れる小川の水音が急にざわざわと耳につく。知らなかった、そんなこと。


(でもよく考えれば、それも道理だわ)


 同じ屋根の下に住む得体の知れない女の正体を知ろうとするのは当然だろう。寝首を掻かれる恐れもある。騎士団長である彼は王国の守護の枢要なのだ。万が一にも欠けるわけにはいかない。


 ふんふんと神妙に得心するリゼルを、グレンは目をそらさずに見つめ続けていた。腕組みして戸口にもたれたまま身じろぎもしない。その足を包む革靴の爪先は、庭園の手前で慎み深く待っていた。


「――書物には、魔法庭園とは魔女にとってとても大切なものだと書かれていた。そんな場所を、土足で踏み荒らしたくはない」


 ふいに投げられた実直な声に、リゼルは息を詰める。音もなく燃え続けるランタンがグレンを照らしつけ、ゆったりした瞬きに合わせて揺れる長い睫毛の影まで見てとれた。


 だからわかってしまった。彼は嘘をついていない。


 どんな思いがあったのかはわからないが、冷徹だったグレンが魔女について調べていたのは事実。


 そして今のグレンが、その知識をリゼルの心を慮るために使ったのも、また事実なのだった。


 心臓が引き絞られるように痛んで、リゼルは長椅子の側に立ち尽くす。こんな風にリゼルの大切なものを同じように大切にしてもらえることは、とても稀だった。祖父とネイ、それだけ。リゼルの世界は、それくらい、狭い。


 ふと、グレンが魔法庭園を散策するところを思い描いてみる。どうしてかその光景はとびきり美しく映って、気づけば、柔らかな絹製のドレスシューズを履いた足を踏み出していた。


 一歩一歩、地面の感触を確かめるように入口まで歩いていき、グレンの前に立つ。彼の面差しはずっと凪いでいて、少しも急かす様子はなかった。


 早鐘を打つ心臓を宥めるように、すう、と深呼吸を一つ。それから客人を招くが如く、できる限り丁寧に腕を伸べた。


「……どうぞ、旦那様。ようこそ私の魔法庭園へ」

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