第6話 過進化生物対策本部

 ふと、航汰は目が覚めた。段々意識がはっきりしてくるにつれて、体の方は少し楽になったなという実感がある。何となく起き上がれそうな気がした彼は、試してみようと両手にぐっと力を込めて、上体を起こそうとすると、難なくできる。眠る前の疲労感と比べると、思ったより体は元気になったようだと思っていると、また誰かが部屋に入ってきた。真都梨とまた見覚えの無い男だ。長身の糸杉のような印象で疲れた顔をしている、どことなく青白い顔色をしたスーツ姿の男だった。口の端には縦に大きく傷跡が入っており、一目見ただけでヤクザ者なのかと航汰は思った。真都梨に促されて男はベッド脇の簡素な椅子に座り、航汰と目線が合うように少し前屈みになった。


「初めまして、時風航汰君。ぼくはここの責任者をやらせてもらってる真部です」


 言いながらスーツの内ポケットから名刺を取り出して、男真部は航汰へ差し出す。それを受け取り、確認するとそこには『生活安全機関 過進化生物エヴォミュート対策本部最高責任者 真部透』と印字してある。今まで聞いたことの無い組織名に航汰は訝しげに音読すると、真部は多少照れくさそうに項を掻き、「まぁ、一応秘密裏の組織だからね」とだけ添えた。


「あの、ここはどういう組織なんですか?」


 昨日からずっと気になっていた航汰の質問に、真部は至って冷静に淡々と答える。


「その名刺に書いてある通り、ここは過進化生物・エヴォミュートに対して機神・フォルスマキナを用いた研究・武力行使をする組織だよ。秘密裏だから、国には属していない。何人かのスポンサーはいるけどね。まぁ、基本的な情報はこのくらいにして、本題はどうして君がうちで保護されたかって話なんだけど」


 柔らかな口調とにこやかな表情だが、どこか有無を言わせない圧力を感じる真部に、航汰は警戒と緊張の糸をぴんと張る。敵意すら感じられる目つきになった彼を見て、真部と彼の傍らに立っていた真都梨は一瞬だけ瞠目したが、すぐに元の表情へ戻り、続ける。


「君は元々のEイプシロンの宿主・鈴原芽衣奈からEイプシロンを受け継ぎ、過進化生物エヴォミュートを撃破した。覚えていないかな?」

「ま、真部さんっ……!」

「芽衣奈から? 芽衣奈、は……」


 真都梨が慌てて制止しようとするが、既に遅い。言いかけた航汰の脳裏に断片的な光景がフラッシュバックする。来間に飴をもらったこと、芽衣奈がこちらを振り返っている記憶、彼女の笑顔、血に塗れた自分の手。何か重大なことを思い出しそうになって、激しい頭痛に襲われる。咄嗟に頭を押さえて布団に突っ伏してしまう航汰の体を真都梨が支えて背中を摩ってくれた。断片的にしか思い出せない様子の航汰を見て、真部は「逃げることは許されない。君はどうしても、自身に起こったことを思い出さなければいけないよ」と言い、真都梨に彼を連れ出すよう命じるが、彼女は抵抗する。


「ですが、真部さん……! 先程も説明しましたけれど、航汰くんはまだ記憶を無くした時のショックが……」

「――済まないが、貴重な人員が入れ替わった以上、こちらとしても悠長にやっていられない。彼には一刻も早く現場に向かってもらわねばならないんだ。その為には、彼に起こったこと全てを受け入れて貰わなければならない」


「今は辛いだろうが、協力して欲しい」と冷酷に言い放つ真部に真都梨は青ざめ、無茶だと言いたげに力なく首を振る。本来、航汰のように精神的なショックを受けた少年に対して行っていい行動ではないことを命令されているのだ。彼の事情も重々承知している真都梨だが、だからといって医師として黙って従う訳にはいかない。

 組織の一員として真部の命令を実行するべきか、患者である航汰のメンタルケアを優先するべきか迷っている真都梨を制したのは、他でもない航汰自身だった。頭が割れる程の頭痛に苛まれながらも、彼自身思い出さなければと使命感に似た思いに突き動かされる。


「だい……じょうぶ、です……! 僕も、思い……出さなくちゃ。大事なことを……」

「そんな……! 航汰くん、無理しないで」

「天海医師、事は一刻を争う」


 言外に「早くしたまえ」と急かされている。そう感じた真都梨は医師としてこれだけは伝えておこうと、きっと真部を見据える。


「分かりました。けれど、急激に記憶を取り戻した場合、精神的ショック……脳にも負荷が掛かります。それを踏まえて改めて、本人の意思確認後、精神状態を鑑みて場合によっては入念なメンタルケアを承認して頂く。それが最大限の譲歩です」


 これ以上は譲らない、と言葉でも表情でも言い切った真都梨に、真部は「良いだろう」と了承する。それを聞くと、真都梨は具体的にどうするのかと確認をすると、真部は「現場の報告も兼ねて別室にて記録映像を見てもらう」と言う。「分かりました」と答えると、彼女は航汰の方へ向き直り、その背中を摩りながら航汰にも質問した。


「航汰くん、今言ったように、報告も兼ねて別室であなたの無くした記憶に関する映像を観てもらうんだけど、大丈夫? 見られる?」


 顔色は悪いが、「はい、大丈夫です」と答える航汰を真都梨は真部に向かって「真部さん、車椅子!」と指示を飛ばす。自分が無理をさせる命令を下したという自覚があるのか、その指示に特に何も言わず、真都梨の上司である筈の真部は部屋の隅に置いてあった車椅子を持ってくるのであった。


「ゆっくりね、大丈夫よ」


 真部が持ってきた車椅子に航汰を支えつつ、ゆっくり座らせる真都梨。航汰は荒い呼吸で「車椅子なんて大袈裟だ」と言ったが、真都梨は「まだ体力も完全には戻っていないし、記憶を取り戻した場合のショックに備えるため」と言って頑として譲らなかった。慣れないながらに車椅子に乗ると、一気に病人という実感が伴う。まだ体力が完全に回復していない故に仕方ないと思う心と自分は病人じゃないという反抗したい心がせめぎ合うが、もう子供じゃないのだから、そんな駄々を捏ねている場合じゃないと言い聞かせて、航汰は真都梨に車椅子を押されながら自身の病室を出た。

 病室から出ると、真っ白で無機質な廊下に出迎えられる。先を歩く真部に「こっちだ」と案内される間、航汰は落ち着けと深呼吸をした。怖くないと言えば、嘘になる。車椅子に乗ってから心臓の鼓動が段々早くなっていく。それが極度の緊張からなのか、恐怖からなのかすら航汰には分からなかった。胸が苦しくなってきて、航汰は背後にいる真都梨に気取られないようにそっと胸の辺りを摩る。大丈夫、落ち着け。僕にはもう失うものなんて無いのだから。徐に右手の平を見ると、そこには相変わらず黄緑色の小さな目がある。航汰がじっと見つめる度に、まるで挨拶でもするかのように目は目蓋を開いてキョロキョロと辺りを見つめては閉じていた。今ではそれが何だか少しだけ一人じゃないという心持ちにしてくれる。航汰が密かに小さな目に勇気づけられていると、不意に前を歩いていた真部がある部屋の前で止まった。


「ここだ。航汰君、準備は良いかな?」

「……はい、大丈夫です」


 今一度真部がこちらを振り向き、航汰に最終確認をする。本心を言えば、心の準備はまだできていない上にまだ頭痛が引いた訳ではないが、ここで相手を待たせる訳にもいかないと思った航汰は、ゆるゆるとだが、しっかり頷く。その様子を見て取って、真部は一瞬だけ済まなそうな表情を浮かべたが、すぐに凜とした表情に戻り、目の前の扉をゆっくり開けた。

 金色の把手が付いた白く大きな扉は両開きのもので、車椅子に座っている航汰の為に左右どちらの扉も開かれる。その先では会議室のような広い部屋の中で、航汰の他にも数人の少年少女達が彼を待っていた。車椅子のまま、彼がゆっくり入室してくると、彼らは一斉に注目するのだった。

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