第3話 嫌なやつ
青い岩をくり抜いたような形の浴槽に身を沈める。岩と言っても加工が施されており、深い青色の中に少し濁った輝きがある綺麗な四角い物だ。表面はすべすべしていて、触り心地が良い。温かいお湯に浸かると、さっきまでの苛立ちが少しは和らいでいくような気がする。もうあんな腹立つ男のことは忘れて寛いでしまおうと湯の中に身を沈めた。
ふと、視線を上げるとガラスの無い窓から朝日が見える。段々明るくなっていく空を見上げて「そういえば、さっきまで夜だったな」と思い至る。心地よい温かさに包まれていると、不意に背後から話し掛けられた。
「アンナ」
「ひょえっ!? な、なに?」
「お背中を流してもいいかしら?」
ひょこっと脱衣室から顔を覗かせたのはステラで、手には柔らかいスポンジのような物が握られている。申し出は大変有り難いけど、流石に他人にやってもらうのは気が引ける。
「す、すみません、ステラ……さん。流石にそこまでして貰う訳には……」
「あ、そう、ですよね。ごめんなさい、私の方こそ。余計な気を回してしまって……」
しゅんと落ち込んだ表情をするステラ。肩も落としていることからかなり落胆していることが窺える。まさかそんな反応をされるとは思っていなかったせいか、必要以上に罪悪感を覚えた私は少し考えた後、かなり悩んだ末にお任せすることにした。ステラがスポンジに向かって何か詩のようなものを唱えると、スポンジはまるで意思を持ったかのように沢山泡を出して私の背中に乗せ、その上から優しく洗い始めた。
無言で背中を洗って貰うのも何だからと湯船に足だけ浸かる私は、そのままの体勢で感心の声を上げた。
「凄いね、シジュツって魔法みたい」
「あら、アンナは常世から来た人なのにそんな古い言葉を知っているんですね」
「トコヨ?」
『古い言葉』と『トコヨ』という単語に少し気になって傍らに立つステラを振り返ると、彼女は柔和な笑みを浮かべながら何だか楽しそうにこの世界について教えてくれた。
この世界は火・水・木・地・金の五つの国から成る世界・ペンタグリーンというところなのだという。それぞれの国でそれぞれの神を信仰し、その恩恵として詩術という、古代では『魔法』と呼ばれた技術が使われている。『常世』とは、このペンタグリーンの人達が死ぬと辿り着くと言われている世界のことらしい。
「ちょっと待って。常世から来た私って、この世界では死んだ人ってこと?」
「――そう、なりますね。私も詳しいことはよく知らないのですが、アイビー様が私へ事前に仰ったことには、常世に渡ってアストライア様の御魂を迎えに行く、とは聞きました」
その説明を聞いて、私は漸く納得した。何となくだけど、この世界から見た現実世界は死んだ人が行く場所だから、アイビーはこの世界で亡くなったあすとらいあ様の魂を捜しに来た、という訳だ。じゃあ、本当に人違いしちゃったんだと、半分くらいは諦めの境地と少しだけ許そうかなという気持ちにさせられる。
一瞬だけ悲しみが湧いてきたが、それを差し引いてもあの男の態度を思い返すと、やはり怒りが湧いてくるので、それ以上考えないように私は気を取り直して『詩術』について訊くことにした。ステラは少し悩んでから簡単に説明してくれる。
詳しいことはアイビーの専門らしいが、『詩術』とはこことはまた違った世界から力を降ろして使う技術のこと、らしい。『魔法』を使う時に決まって、詩を唱えることから『詩術』という名前が付いたそうだ。
「と言っても、詩術師ではない私のような普通の人はもっぱら、『詩術道具』を使うことの方が多いですけれどね」
「? ふぅーん……」
そこで私はついさっきのアイビーとの会話を思い出し、話題にしたくないと思いつつも、疑問を解消しようと口を開く。
「じゃあ、あの男……アイビー、もなの?」
「ええ。先程も少し触れましたが、アイビー様はここの宮廷詩術騎士という詩術師を務めていらっしゃいます。若くしてアストライア様の近衛詩術騎士となった、とても優秀なお方なのですよ」
「そう、なんだ……」
『優秀』というイメージはきっちり着こなしている軍服から確かに感じられるが、それにしたって嫌な男だと思い、私は頭を振って早々に脳内からアイビーを追い出し、次にあすとらいあ様について訊くことにした。いつ帰れるのか分からないということもあって、情報はなるべく知っておきたい。
「ねぇ、ステラさん」
「ステラでいいですよ。なんですか? アンナ」
「その……あすとらいあ様って、どんな人だったの?」
「そうですねぇ……」
彼女の口から語られたあすとらいあ様とは、可憐な王女様だった。ここ水の国の第三王女で、神殿を管理する巫女、でもあったらしい。詩術をもってこことは違う世界と交信し、未来を見ることができる『神の末裔』だという。彼女の父、この国の王が国の行く末を案じて判断に迷った時は、彼女が未来を見て予言を与えていたらしい。通常、女性が政治に関わることは殆ど無いのだが、彼女だけは予言の力があったせいか、特例として許されていたようだ。
終始、他人事として聞いていたけれど、これってもしかしてかなり重要な役どころなんじゃないかと私は思い始めてきた。予言の力があるということは、否が応でもこの国の政治に関わる羽目になるのではないか、と。それを踏まえて一番の不安要素を口にしてみた。
「ね、ねぇ、ステラ。それじゃあ、今の私、体はあすとらいあ様だから王様に頼られたり、する?」
ぴたり、とスポンジが止まる。重い沈黙が流れ、まるで誰かの葬式のように暗い雰囲気を纏う浴室に、もう私は「いらんこと訊いたな」と後悔した。しかし、それも長くは続かず、再びスポンジが動き始める。
「おそらく、アイビー様が何か策を考えていると思いますよ。アンナは安心してください」
「……うん」
一瞬表情を曇らせたステラを見て、ほんの少しだけ私は私の存在を不安に思った。やっぱり、私の存在って迷惑だよね。私だって、できることなら今すぐにでも元の世界に帰りたい。元々この二人にとっては、私はお呼びじゃないのだ。
「ねぇ、ステラ」
「はい、何でしょう?」
「…………」
私は一瞬「私の存在って、迷惑?」と訊こうとして、止めた。ステラの立場から答えは決まっているからだ。「そんなことありません」か「……ええ、そうですね」の二択だ。前者だったら、気を遣わせてしまっていると思うし、後者だったら、単純にショックを受ける。既に見えている答えを聞く気にはなれなくて、私はしおしおと「何でもない」と答えるしかなかった。ステラは不思議そうにしていたけれど、少しだけ何か考えて口を開いた。
「アンナ、大丈夫ですよ。アイビー様はああ仰っていましたけれど、あなたのことを全く考えていない訳ではありませんから」
「……そうかな」
「ええ。あの方は心根は優しい方です。アストライア様の我が儘も最終的には聞いてしまうお方ですから」
「それは……あすとらいあ様だからじゃないの? 私は――」
ざば、と背中に温かい湯が掛けられる。いつの間にか体を洗い終わったらしい。ステラが桶で掛けたのだ。
「あの方は気高い詩術騎士です。アストライア様を最優先としていますが、その他の方をないがしろにするような方ではありませんよ」
「――そう、なの?」
「ええ。ご相談すれば、きっとアンナの話を聞いてくれますよ」
ステラの笑顔を見て、何だか妙な説得力が出てきたと感じる。彼女がこんなに信頼を寄せるなら、少しだけなら、あいつ――アイビーに相談してみてもいいかなと私は思った。
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