第12話 独占したい


 陽の季節、二十日が近づくにつれて、城内は慌ただしさを増していた。

 騎士による試合は、城下にある専用の闘技場を使用するようだ。

 更に、遠方から来た騎士のために、試合期間中の宿を借り上げる必要もあるらしく、諸事雑務は多岐に渡る。


 奏の専属侍女であるステリアは、そういった雑務に駆り出されることはないようだが、ステリアの同僚などは毎日忙しそうにしているらしい。

 前月といえる、緑の季節では、本当に何も無く、穏やかに日々を過ごせていたことを思うと、陽の季節の忙しさは奏にも肌で感じられるものである。


「陽の季節って大変なんですね」


 髪を梳かれながら、奏は鏡越しにステリアを見つめる。

 ステリアは奏の髪を優しく櫛で整えながら、「そうですね」と笑った。


「今回は特に……、遠方からもいらっしゃる方が多いとかで。恐らく、聖女様を一目見たいと言う騎士も多いのでしょう。聖女様がいらっしゃる時期に、生まれ、そして生きていることは、私達にとっては奇跡のようなものですから」


 滔々と言葉を続け、ステリアは笑う。

 来たときよりも長くなった髪を、ステリアの指先が優しく編み込んでいくのを眺めながら、奏はなんとも尻の座りが悪い心地を覚える。

 そんなにも大層なものではないのに、という気持ちと、いやでも今は実際に触れたら治せるから大層なものなんだろうな、という、相反する自己分析が心中をぐるぐると巡る。


 そういうんじゃないんです、私! と言えたらどれほど良いだろうと思うが、言った所でステリアは確実に否定をしてくるだろう。

 逆に、私って人気なんですね! なんて言おうものなら、確実にステリアはその通りでございますね、と笑顔を向けてくるのも想像が出来る。もう何も言えない。奏は石のように口を閉ざす。


「そういえば、騎士の試合にはステラ様もいらっしゃる、とお伺いしました」

「ステラ様……」

「はい。アレウス様の婚約者です。ご存知でしたか? ルーデンヴァールの隣国、エンデリオンのご息女でございます」


 ルーデンヴァールの隣国、エンデリオン。聞き覚えの無い言葉がすらすらと、ステリアの口からもたらされる。

 ステラ、という名前は先日聞いた覚えがあるが、その人となりについては全くと言って良いほど、奏は知らない。


「実は拝見したことがなくて。どのような方なんですか?」

「ステラ・エンデリオン様は、そうですね、とても聡明な方です。アレウス様とステラ様は、幼い頃に両国の国交を築く為の婚約をなされて、それもあって、ルーデンヴァールとエンデリオンは良い関係を築いているのですよ」


 紡がれた言葉を、奏は心の中で咀嚼する。国交を築く為の結婚――ということは、つまりは政略結婚、なのだろう。


「仲はよろしいんですか?」

「見る限りは、良い関係を築いているかと。本来ならもう少し早くステラ様が輿入れされる予定だったのですが、エンデリオンでいざこざが起こり、それもあって結婚が延びていたようです」

「そうなんですか……。大変なんですね」


 政略結婚であっても、お互いの関係性が良いのであれば、それは素敵なものだろう。

 ぼんやりと思考を巡らせていると、フェリクスのことが思い浮かんでくる。アレウスに婚約相手が居るのはわかった。だが、フェリクスはどうなのだろう。


 居る、と言う話は聞いたことがない。ただ、居ない、という話も、聞いたことがない。

 本人に聞けばわかるのだが、その一言がどうしても口に出来ない。ただ、婚約者が居るのでは、と考えると、胸の奥が焼けたように熱くなり、少しだけ息がしづらくなる。

 じっとりと体を蝕むような感覚は、正直な所、あまり抱えたくないものである。奏は心中で首を振った。


「出来ました。いかがでしょうか」


 ステリアが首を傾げる。いつの間にか、美しく結われた髪を見つめ、奏は感謝を口にした。



 ステリアによって身支度を調えられ、朝食の場に向かうと、既にフェリクスが着席していた。

 奏に気付いて、「おはよう」と声をかけてくる。斜め向かいに腰を下ろしながら、奏も同じように言葉を返した。


「おはようございます。フェリクス殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」

「ありがとう。奏もご機嫌麗しく。最近変な文書が届いたりはしていない?」


 早速、とばかりにフェリクスが首を傾げた。変な文書、とは。全く身に覚えが無い。

 今日はなんだか身に覚えが無いことばかり話されたり説明されている気がする。少し笑いながら、奏は首を振った。


「今の所は全く。変な文書ってなんですか?」

「試合の際にお会いできませんか、とかそういうのかな」

「それは……無いですね。見たことありません」

「そう。良かったよ。以前から、そういう手紙はこっちで出来る限り処理をしているのだけれど、最近は城内も忙しくなっている。そういった隙を狙って、僕や兄上を通さずに直接手紙を置いていく輩もいるかもしれないからね」


 話しぶりからするに、多分、貴族からそういった手紙が届いていないか、という確認だったのだろう。

 奏の手元に届く手紙は、フェリクスが先んじて確認してくれている。それもあって、奏の手元に届くものは、常識的な内容のものが多く、とんでもない要望やお誘いが書かれているものは、見たことが無い。


 だが、城内が慌ただしくなっている最中、奏に送った手紙を何度も突き返されている貴族が、極端な行動に出ないとは限らない――ということなのだろう。奏は頷く。


「何かあったら、直ぐに相談しますね」

「うん。そうして。――ねえ、奏」


 フェリクスは頷く。そうしてから、柔らかく微笑みを浮かべた。

 一寸の狂いなく、相手に好印象を与えるように調整されたかのような美しい笑みは、なんだか作り物めいている。

 フェリクスが、以前、アレウスに笑みを向けている所を見たことがあるが、今浮かべられているものはそれに酷く似ていた。

 普段、奏に向けるものとは、全く違う笑顔だ。


「僕に何か報告することは無い?」

「……えっ」

「キミから、僕に、言うことは無い?」


 一言一言を、区切るように紡がれた言葉だった。奏は瞬く。

 急になんだろう。そこはかとなく、怒っている雰囲気がある。


「え、どうしたんですか? 何か怒っていますか?」

「怒ってる? そうだね。そうかもしれないな。キミ、僕には自分を大切にしろだとか、大事にしろだとか、そうしなければ暴食するだとか、脅すようなことを言うのに、キミこそ自分のことを一切、そう、一切! 大事にしないんだね」


 滔々と言葉を続け、フェリクスは奏をじっと見つめてくる。

 美しい面持ちに、とんでもないくらい優しげな表情を浮かべたまま、フェリクスは首を傾げた。奏の応えを待つような間が開く。

 これは、どうやら――いや、確実に、怒っているようである。


 どうしてか。考えて、直ぐに理由に思い至る。

 確実に、フェリクスは、アレウスと奏の間で交わされた約束について、知っているのだろう。

 つまりは、騎士の試合において、優勝者が聖女の力を望んだ場合、手を貸す、という話をしたことが、確実にフェリクスにバレている。


「え、ええと、あの……聞きましたか?」

「聞いた? 何を? 教えてくれる? 僕に、キミの口から、僕に何を隠して兄上と約束したのか、ってことを」


 いやもうそれ全部知ってる奴ではないだろうか。

 それでも敢えて、奏の口から言わせたいらしい。とんでもなく根に持っているようだ。奏は首を振り、それからそっと息を零す。


「騎士の試合において、優勝者は王家に望みを一つ、必ず叶えてもらえると聞きました。今年の試合においては、恐らく聖女の力を望む騎士が多いだろうから、その時は力を貸してほしい、と言われました……」

「――そう」


 すん、と表情をこそげ落としたようにフェリクスが真顔になる。フェリクスはカトラリーをそっと置くと、顎に手を置いて奏のことをじっと見つめてきた。


「わかっている? 騎士の上には貴族――雇用者がいる。普段、キミの護衛を務めている騎士とはまた違う立ち位置の人たちだ」


 フェリクスはそこで言葉を切ると、細く息を吐いた。美しい虹彩が、じっと奏を見つめる。


「どんなことを願われるか、わかったものじゃない。特に、優勝した褒美という体を取っているから、尚更だ。――こうなるとわかっていたから、兄上には先んじて聖女の力を褒賞から外すように言っていたのに……」

「……ご迷惑をおかけして、すみません」

「迷惑ではないよ。キミと兄上を二人きりにしたら、そういう話が出てくるってことも、頼まれたらキミは断らないだろうってことも分かっていたのに、傍に居なかった僕に責任がある」


 フェリクスは首を振る。悔やむように息を吐き、そのまま椅子から立ち上がった。

 食事中に、フェリクスがこうやって席を立つことなんて、初めてだ。いつもは、礼を失したような行動をする人ではない。思わず奏は目を丸くする。

 どうしたのだろうか、なんて考えて、奏は心中で首を振る。どうしたもこうしたも、自分の行動を省みると、なんとなく理由は察しがつく。

 ……フェリクスは、奏の行動に嫌気が差したのかも知れない。それこそ、食事を共にしたくないと席を立つくらいには。


 あれほど頼る、相談する、と約束をしていたというのに、奏はそれを破った。

 言い訳は後からいくらでも言えるが、フェリクスの信頼を裏切ったことは間違い無い。

 嫌われたかもしれないな、と奏はそっと視線を落とす。食べかけの食事を視界に入れたまま、唇を引き結んだ。


 自分が招いた結果に、なんだか少し、喉の奥をぎゅうっと握られるような心地がした。


「奏」


 とんとん、と軽い足音が響く。このまま出て行ってしまうかもしれない、という考えに反して、足音は少しずつ奏の傍に近づいてきた。

 手元に影が差す。フェリクスが静かに奏の名前を呼んだ。顔を上げると、フェリクスは真顔のまま、奏を見つめているのが見える。


「フェリクス殿下……」


 声が震える。何か言われるだろうか。もしかしたら、信頼を損ねたことを、そのまま口にされるかもしれない。

 ――キミって、僕のことを全く信頼してくれないんだね。侮って良いと思って居るんでしょう。

 そう言われたら、奏は何と返せば良いのかわからない。


 フェリクスは奏を見つめたまま、そっと息を零した。奏の視線が震えて、逸れる。見つめ続けることに心が耐えられなかった。

 フェリクスは再度、「奏」と名前を呼ぶと、躊躇うような間を置いて、手を伸ばしてきた。

 むぎゅ、と奏は頬を摘ままれる。あまり力を込めていない、本当にさら、と触れるような行動だった。直ぐに指先が離れていく。


「そんな顔をするなら、最初から断れば良かったのに」

「……え?」

「泣きそうな顔。キミだって、聖女の力を使えば体調が悪くなるのは、自分でもわかっているんだろう? 試合を見に行くのを楽しみにしていたはずなのに、こんな状況になるなんて……思わなかったんだろう。優勝者に自分の力を使われるとわかっている状況で、試合を楽しむなんて、難しいんじゃないかな」


 泣きそうな顔を、していたのだろうか。全く覚えが無い。

 フェリクスが触れるよ、と言って、奏の肩をそっと撫でた。そのまま、フェリクスは膝を突いて、奏と視線を合わせてくる。


「心配しなくて良い。こうなってしまった以上、僕が打てる手は少ないけれど――せめて、治療の範囲だけは決めるように伝えておく。そうでなければ、聖女を保護している僕が許さない、と言うから」

「……あ、ち、ちが、……違うんです」

「何が?」


 フェリクスが首を傾げる。多分、フェリクスは、奏が『大変な約束をしてしまった』と悔いていると思っているのだろう。だからこそ、直ぐに打開策を示し、奏を安心させようとしてくれている。

 優しい人だった。だからこそ、その信頼を裏切ってしまったことが、辛い。


「……フェリクス殿下を、裏切ってしまった、と思って」


 声帯を振り絞るようにして、奏は息を零す。フェリクスが瞬いた。美しい二色の虹彩が揺れる。

 眦を赤くして、僅かに早口に、フェリクスは言葉を続けた。


「なに。キミ、もしかして、僕の信頼に背いたから――僕に、嫌われるかもしれないって思って、そんな顔をしていたの?」

「そ、そんなに、変な顔、してますか?」

「――ふ。あは。してるよ。してる……ひどい顔、してる」


 フェリクスが喉を鳴らすようにして笑う。手に触れていた指先が、そのまま優しく腕を辿り、頬に触れた。

 擽るような動きに、喉の奥が僅かに引きつれる。


「裏切られた、とは思わないよ。ただ、頼ってくれないんだな、とは思ったけれど。――でも、そんな顔をしているんだから、もう二度と、今回みたいなことはしないんだろう?」

「――フェリクス殿下、その」

「前から思っていたんだけれど、敬称はいらないよ。特に、二人きりの時はね」


 フェリクスは言い含めるようにして、柔らかく声を出す。奏の心を安心させるように、としてくれているような、そんな声音だった。


「はあ。本当にキミって……。……そう、キミは僕に嫌われるのが、怖いんだ?」

「それは……怖いです」

「ふうん。それはキミを僕が保護しているから? 保護している存在に嫌われたら、どうなるかわからないから?」


 矢継ぎ早に飛び出す質問に、奏は瞬く。確かに、保護してくれている人だから――という理由も、無きにしもあらずだろう。

 だが、フェリクスから嫌われるのを恐怖する気持ちは、ただそれだけの理由によるものではない。保護してくれているから、だからその手を離されたら困る、という理由だけで、こんなに恐怖を覚えることはないだろう。

 ただ、その気持ちの輪郭を辿ろうとしても、うまく出来ない。奏は迷うように視線を揺らした。フェリクスが笑う。


「ねえ、言ってよ。教えて。僕に――フェリクスに、好きで居てほしいって、言って」

「……す、好きで、居て、ほしい、です」

「ふ。ねえ、顔赤いよ。それに、僕の名前は? 言ってくれないの?」


 フェリクスは笑う。すり、と頬を撫でる指先が、喉元をくすぐる。

 なんでこんな、撫でてくるのだろうか。頬に少しずつ熱が灯って、顔が赤くなっていっている気がする。

 フェリクスは、奏の顔の赤さを、まるで堪能するかのように触れて、撫でてくる。


「フェリクス殿下、あの、くすぐったくて」

「フェリクス。そう呼んで。そう呼んでくれたら、今回の頼られなかったんだなあ、っていう僕の悲しい気持ちは捨ててあげるから。二人きりの時は、キミの声で、僕の名前を呼んでよ」


 そう言われてしまったら、奏はもう何も言えなくなってしまう。


「……フェリクス……」

「うん。奏。何?」


 フェリクスは心底楽しそうに笑みを浮かべた。名前を呼べ、と言ったのはフェリクスの方なのに、何? とは。

 必死になって会話の種を探そうとするが、フェリクスの指がそれらの考えを霧散させてしまう。恥ずかしくて、――どうしようもなく、心地良くて、苦しい。


「よ、呼んだだけ、です」

「ふ。あは。うん。そう? ――ねえ、この世界において、僕のことをフェリクス、と呼び捨てて良いのは、兄上と父上、それにキミだけだよ。そのことを覚えておいてね」

「――」


 フェリクスは囁くように言葉を続け、ゆっくりと立ち上がった。思わず視線でフェリクスを追うと、フェリクスは表情を和らげながら「食事の途中だからね」と囁く。

 まるで離れるのを惜しむ友人や――親しい相手を、諭すような声音だった。


 フェリクスが自席に座るのを見届けてから、奏は頬に手の甲を当てる。いつにもまして、熱い。

 フェリクスにとってしたら、頬に触れたりするのなんて、きっとなんでもない行為なのだろうが、奏にとっては結構心臓に悪い。吐き出した息が熱を孕んでいて、奏は首を振った。


 もう二度と、信頼に背くようなことはしない、と心の中で強く誓いながら。


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