魔列車

パラークシ

第一章:音のない孤独


 ジョン・アーウィング・セスターー僕の名前。僕の冴えない、かつての親から貰った名前だ。掌にトランクの革の持ち手が食い込み、痛い。だが僕は舐められて見えないように、必死で持ち手を握りしめたまま、その痛みに耐えるのだった。


 列車、125号の蒸気機関車を僕は待っている。ホームに刺さっている時計塔を見上げると、午後十七時十五分になろうとしているところだった。


 僕は自分の右腕に巻いている腕時計を見て、時計がずれていないか確認した。別に気にしなくてもいいのに、と思いながら。時計は一ミリもずれてはいなかった。


 列車のない空のホームからは、向いで待っているまばらな乗客の姿の他には、赤紫色に染まっている夕方の晴れた空しか見るものがなかった。


 僕はその空の美しさに暫くの間、手の痛みも忘れて見とれていた。 そのせいで、自分のすぐ側に誰かが立っていることに僕は気づかなかった。


 何か、生暖かい気配を手に感じて、慌てて手を見下ろすと、僕の必死に握られている手の甲に、誰かの掌が置かれていた。


 僕は驚いて、その手の主を見た。


 小さな女の子だった。ピンク色のワンピースのような服を着ていて、髪が均一に短く切り揃えられている。目は黒く、陽で白く輝いている。頬がほの赤く染まっていて、肌は白かった。透き通るように白く、粉を叩いているのではないかと思うぐらいだった。


 その少女が、なぜかトランクを持つ僕の手に自分の手を置いている。


 僕はなんと声をかけたらいいのか分からなかったが、一度深呼吸をした後、落ち着いた声を意識して言った。


「どうかした?」


「お兄さん、この列車乗るの? これから来る列車」


 すぐに返事をされて僕はさらに動揺したが、何とか笑顔を作り、返事をした。


「うん、そうだよ。僕はこれから来る列車を待ってるんだ。君は? お母さんかお父さんか、一緒に待ってるんじゃないの?」


 すると少女は何故か何も言わずに、僕の眼をじっと見つめてきた。漆黒の、底の知れない瞳の色。その瞳にまっすぐに見据えられているうちに、なぜか僕は自分の中にうっすらとした恐怖が芽生え始めているのに気付いた。僕にはその理由が分からなかった。


 その真っ黒な瞳にこれ以上見つめられるのが耐えられないと感じ始めた時、少女は眼を逸らして、呟くように言った。


「でも、乗らない方がいいと思うなあ。私は」


 奇妙に大人びた口調のその呟きは、やけにはっきりと僕の耳まで届いた。


 それから警笛の音が鳴り始めて、僕は一瞬、ホームの方に目を向けた。遠くの方に、125号の黒い小さな影が近づいてきているのが見えた。


 もうすぐ着く。


「ねえ、君……」


 少女に声をかけようと振り返って、僕は驚いた。そこには少女はおらず、代わりにいつからそこにいたのかと思う程の大量の人間たちがそこに列を成して立っていて、俯いてじっとしている。


 混乱しながら、僕は少女の姿を探した。ホームはいつの間にか人だらけで、騒然としている。


 首を巡らせて、必死に人々の間を探していると、やっと小さな影のようなものを見かけ、僕はその姿を目に留めた。ピンク色のワンピース……さっきの少女だ。


 少女は人々が忙しなく行き来する中で、少しも微動だにしなかった。誰も少女に目もくれず、まるでそこには何もないかのようだった。


 少女の口が揺れた。何かを言っている。


 大きな質量を伴った音が近づいて来て、滑り込んでくる。勢いよく蒸気が噴き出され、ホームの空気が揺れる。人々がざわめきながら、一歩前に出る。僕は誰かに背中を押され、その場でよろめいた。


 少女の声は聞こえなかった。雑踏の音に掻き消されたのかもしれない。だが、口の動きで、何を言っているのかは分かった。


「逃げて…………」


 列車の扉が開き、人々が僕を押しのけながら、我先にと中へと入っていく。危うく僕はその場に取り残されかけたが、最後の最後で、列車へと飛び乗った。


 振り返ると、もうそこに少女の姿はなかった。まるで一瞬で雑踏に溶け込んでしまったかのように、後には何も残されておらず、そして、ホームは恐ろしい程に静かで、閑散としている。


 再び蒸気が吹き出して、大きな音と共に、扉は閉められた。前方から汽笛の甲高く鋭い音が聞こえてきて、列車は少しずつ動き始めた。


 少女の最後の口の動きが、僕の頭に付いて離れようとしなかったが、暫くしてから僕は切り替えるために頭を振り、客室へと通じる扉を開け、中に入った。


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