第六章 ブラジャーフッド 6

「まったくわからないな。おれなら自殺なんか考えない。裏切った夫を恨むよ。なあ」


 隣の女の子型死に神に目線を流したが、小首を傾げていなされた。眉間に皺。共感しがたい、ということか。つきはなされた気分だ。


「それが不思議なことに、夫への興味はきれいさっぱりなくなってしまったのよ。愛していたはずなのに」

「じゃあ嫉妬で苦しまずにすんだんだな。なんで生きていくのがいやになったんだろ」

「夫を愛していたと思い込んでいたことに気づいてしまったからよ。自分が信じられなくなったの。美味しいと食べているソフトクリームは本当に美味しいの? 夢中になって読んでいた漫画は本当におもしろいの? 命をかけていた教職に価値はあったの? 自分の感覚や感情があやふやになってしまったの。こうなると人生はつまらないのよ。なんのときめきも感じなくなったわ」

「宗教や政治活動にはハマればよかったのに」

「あいにくとすべてが信じられなくて……」


 なにも信じられなくなって何十年も……。それは辛いかも。


「ときめきがないって言ってもさ、それからだって好きになった人のひとりやふたりはいたんじゃないの?」

「胸が高鳴るようなことは一度としてなかった。死ぬまでになにか素敵なものと出会えていたら、双葉さんを恨んだりはしない。何十年も、死んだように生きてきた。これは双葉さんの呪い」

「おいおい、ばあさん。そんな言い方したら可哀想じゃないか」


 ばあさんとつながっている機械は血圧や心拍数を無機質な数字に変換している。その数字は少しづつ落ちてきている。このまま衰弱して死を迎えるのは明らかだ。


 双葉はまるで彫像になったように動かない。ただまっすぐに老女を見ている。ばあさんが死んでいく過程をただ観察している。

 ばあさんがなにを訴えたところで双葉は痛くもかゆくもない。彼女は彼女でやるべきことをやっただけだ。逆恨みは筋違いだ。

 おれも同じだ。ばあさんの別れた夫がおれの親父だったとしても、おれが負い目を感じることはない。

 おばさんが気持ちよく旅立てることを願うだけだ。

 強い風が吹いたらすっと消えてしまいそうな蝋燭の灯火のようなばあさん。しかしおれにはばあさんの逆恨みが生への執着に見えてしまう。


「でもさ、あんたやっぱり先生なんだな。言葉を尽くして説明してるじゃないか。おれみたいな落第生に理解させようとしてる」

「あら、へんね。他人に理解してもらってもしょうがないのに」

「人生最後にときめくのはどう?」

「どうやってときめくの」

「たとえばおれが……」


 ばあさんのそばによって、落ちくぼんだ眼窩の濁った瞳を見つめる。


「おれの顔見えてる? いい男をこんな近くで見るの、ひさしぶりじゃない? 手を握っていいかい?」


 ちらと横目で双葉をうかがうと、あきれた顔をしている。


「さいきんのいい男ってのはあんたみたいなやつのことかい。浅黒くて筋肉質で顔が濃い。オス臭いね。もっと中性的なのが好みだよ。まあ、それでも、ときめかないだろうね」

「『もっと早くきみに出会いたかった』『愛してる』『抱きしめてもいいかい』『ぼくの胸のなかでおやすみ』」

「ふん」


 どんなセリフにも鼻で笑われる。おれは焦った。数値はどんどんと落ちてゆく。


「ありがとう。最後にときめかせようと努力してくれたことには感謝するわ」

「ちぇ。元夫よりおれのほうが絶対いい男のはずなのに」


 ばあさんはふっと息を吐いた。

 おれは役立たずでかっこわるい自惚れやだ。女物の下着を救急隊員に見られたときより恥ずかしい。



「あ、康介、いたいた。探したよー」


 突然、看護師のさよりが飛び込んできた。

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