第6話 その時起こったこと

 ノーフォーク侯爵家では、準備が整っていた。


 侯爵が早馬を王宮から送り、全ての準備を取らせたのだ。


 アイリスが両親に付き添われて屋敷に戻った時、屋敷の使用人達はすでに居間を温め、ソファに枕と毛布を用意し、メイドはアイリスのために温かな飲み物を、侯爵夫妻のために気つけのワインを用意していた。


 もちろん、アイリスの寝室はいつでも彼女が休めるように整えられている。


 侯爵はアイリスを再び抱き上げて、屋敷の中に運び、侯爵夫人はユーグに支えられながら後に続く。


 その後を、アイリスに従っていたメイドのセイラが、アイリスの手荷物を持って、足早に続いた。


「アイリス、まだ頭が痛むかね? 気分はどうだ?」


 侯爵はアイリスをそっとソファの上に下ろすと、セイラがかいがいしくアイリスにブランケットをかけ、飲み物を差し出した。


 意識を取り戻してからというものの、アイリスはまるで幼い少女に戻ったように、あどけなく見えた。


 今も、あんなことがあったのに、どこかニコニコとして、両親を見つめ、嬉しそうに自分を世話するセイラやユーグに笑いかけるのだ。


 アイリスに何が起こったのか。

 本当に、ショックで記憶を失ってしまったのか。


 誰もが心の中で思いつつ、言葉にする勇気がなかった。


 これはおかしい。

 あんなことがあって、なぜ、アイリスはニコニコとして、誰にでも優しく話しかけられるのだ。

 まるで、何事も起こらなかったかのように。


「ア、アイリス、もうすぐ、お医者様が来ますからね? 念のために、診ていただきましょうね、大丈夫?」


 恐る恐る侯爵夫人が話しかけると、アイリスはこくんとうなづいて、「はい、お母様」と言った。


 ますます心配げに、侯爵夫妻とユーグが目を合わせる。


 一方、アイリスはあまり気にしていないようで、ゴソゴソとブランケットの下で動くと、履いていたハイヒールを脱いで、ことん、と床の上に落とした。


「えへ、失礼いたしました。窮屈だから、脱いじゃった」


 恥ずかしそうに笑うアイリスに、セイラが慌てて駆け寄る。


「まあ、アイリス様。いつでもセイラを呼んでくださいね。セイラが、何でもご用をしますよ」


「ありがとう、セイラ。そういえば、これは何かしら」


 アイリスは自分が握りしめていた紙を広げた。

 エドワードがアイリスに投げて寄越した紙である。

 アイリスはその紙を広げると、そこに『国外追放』の文字を見つけた。


 さっとアイリスの顔色が変わる。

 周囲の人々も慌てて、アイリスの手からその紙を奪おうとしたが、遅かった。

 アイリスが叫んだ。


「まあ……!! どうしましょう、わたくし、何か大変な罪を犯してしまったのですね!? 国外追放。あ、だから王子殿下が……わたくしは一体、何をしてしまったのかしら? ……でも、何も覚えていないのですけれど」


 アイリスは本気で困惑して、眉を寄せる。

 ぷるぷると体まで震わせて、「う〜んっ……!」と必死で思い出そうとしているのだ。


 呆然とアイリスを見つめていたユーグだったが、思わずアイリスの様子を見て、頬が緩みそうになってしまった。


(な、なんだこの可愛さは………っ!!)


 ユーグは自分の手が思わず震えるのを感じ、必死で両手を握りしめた。

 このシリアスな事態に、なんということだ。

 アイリス、自分でこの可愛さがわかっているのか……!?


 ユーグだけでなく、侯爵夫妻もついアイリスに見惚れていたようだが、侯爵はさすがに家長。立ち直りが早かった。

 こ、こほん、と咳をして、アイリスに言う。


「アイリス。あのバカ王子のことは全て記憶から消し去ってしまって、問題ない」

「え、でも」


 アイリスが困惑すると、侯爵夫人も、ずい、っとアイリスに近寄って言った。


「アイリス。お父様のおっしゃる通りですよ。あんなクズのことを覚えているだけ、脳に余計な負担がかかります。もう存在自体、すっぽりと消し去ってしまえば良いのです。本当にバカバカしい。わたくし達一族が、どれほど低姿勢で王家に尽くしてやっていたか。あの人達はただ、わたくし達一族の力がーー」


「ローズマリー」


 侯爵に低い声で言われ、侯爵夫人ははっとして黙った。


「お母様……?」


 そんな両親を、アイリスは不思議そうに見上げた。


(バカ王子? クズ? ……エドワード王子殿下のこと? お父様も、お母様も、なんだか急に性格が変わられたようですけれど、本当に何かあったのかしら)


 ノーフォーク侯爵は、ふう、と大きなため息をついた。

 そしてまっすぐにアイリスを見つめて、言った。


「アイリスは自分で、自分に魔法をかけてしまったのだ」


 * * *


「魔法……?」


 アイリスが呟いた。

 しん……と部屋の中が静まり返る。


 いつの間にか、セイラや他のメイド達の姿は消えていて、部屋の中には、侯爵夫妻とアイリス、それにユーグしかいない。


 ユーグが立ち上がって、「侯爵……私もこの場を外した方が」と言いかけたが、侯爵は首を振った。


「構わない。君も薄々気づいていただろう。同席してくれたまえ。さて、アイリス、これは今まで、お前には一切、知らせていなかった話だ」


 侯爵はそう前置きすると、静かに話し始めた。


「ノーフォークの一族には、忘却の魔法の力が伝わっている」

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