第2章

三ツ矢 りん

第8話 出会い




「みっちゃん、世話んなったね。これ、つまんないもんなんだけどさ……」


「そんな!お世話になったのは私の方なのに!」




 私がこの仕事についてからずっと隣の地域を担当していた畠山はたけやまさんが今日で退社する。





 入った頃は本当に分からないことばかりで、時間に追われ荷物に追われ、頭の中はトラックの荷台と同じくらいパンパンでいっぱいいっぱいだった。



 積み込みをする営業所ではドライバー達が一分一秒でも早く現場へと到着するためにみんながみんな難しい顔をしていて、簡単なことさえ聞くチャンスはなかなかなかった。



 効率のいい回り方というものを知らず、大量の荷物を時間内に配り終えるにはとにかく一日中走り続けるしかなかった。しっかり食べていたのに消費カロリーの方がゆうにそれを超え、体重は2週間で5Kg落ちた。



 精一杯頑張っていようが女だろうが容赦なく、『不慣れな新人配達員』に対して、世間は思った以上に冷たかった。



 二世帯住宅の一階のインターホンを押して「その荷物は二階だろ!」と怒られ、午前指定の荷物を11:58に届けて「遅すぎる!」と怒られ、そこから車に戻る道すがら再配達希望の着信履歴にかけ直せば「なんで出ないんだ!」と怒られた。そして肩を落として車に着けば、無惨にも駐禁を取られている。

 もちろんそんなものを会社が払ってくれるはずもなく、運転席に座り一日の稼ぎよりも高い反則金が書かれた紙に呆然としているうちに、また次の時間指定に追われ始める。



 日に日に私は、自分はこの地域の最下層の人間なのかもしれないと思うようになった。

 ひと昔前は『頑張り次第でとにかく稼げる仕事』だったみたいだけど、今の給料はむしろ、経費を差し引けば平均よりも確実に低い。


 

 人と群れることが苦手なため、一人きりで出来る仕事を……と学のない私が選べる範囲で最適だと思った仕事だったけど、丸一ヶ月経つ前にすでに本気で辞めたいと考えていた。


 

 そんな気持ちは顔に表れていたらしく、それに唯一気づいて声をかけてくれた人が畠山さんだった。



 新人の私ですら心配になるほどのおじいちゃんだったけどこの仕事は長いらしく、走ることなんて出来ない体でも時間指定を漏らすことなく要領よくこなしていて、私はずっと不思議に思っていた。



 正直に「もう本当に辞めたい」と愚痴ってばかりの私に、「それでも頑張れ」なんてことは言わず、いつも「だよなぁ、毎日そう思うよなぁ」と切なそうに笑って同調してくれた。そしてその度にいつも、ちょっとした配達のコツを教えてくれた。そのちょっとしたコツの積み重ねで仕事の楽さは劇的に変わっていった。そこから一ヶ月もすると全力で走ることはほとんどなくなり、3ヶ月後には早く荷物がはけ過ぎてたまに次の時間指定まで時間を潰すくらいまでになった。



 今こうやって私が一人前になれているのは、全て畠山さんのお陰だ。畠山さんがいなかったら絶対とっくに辞めていたと断言できる。






 遠慮する私に押し付けるようにして畠山さんは餞別せんべつの品を渡してくれた。お礼を言って小さな紙袋を開けてみると、そこには質の良さそうな紺色の手袋が入っていた。



「仕事中はしゃらくさくて寒くても手袋なんかしてらんないけどさ、仕事の行き帰りくらいは温かいと嬉しいもんかと思ってね。まぁ使う時期にはまだまだ早いんだけど」


「ありがとうございます……。本当に嬉しいです……」


「実は女房の受け売りなんだけどね」




 畠山さんはそう言って笑った。




「じゃあ私からも!」


「なんだよ〜!いいいんだよ、気を使わないでよぉー」



 私は、私と同じように遠慮する畠山さんにプレゼントを無理やり押し付けた。観念して畠山さんが包みを開ける。



「おぉー酒だ!」


「これからは好きなお酒ももっと飲めますね!」


「嬉しいなぁー。ありがとさん。女房と一緒に飲ませてもらうよ」




 最後の一日を終えた畠山さんは、奥さんとゆっくり過ごせるこれからの日々に心から嬉しそうな顔をしながら、私がプレゼントしたお酒を高く掲げて見せ、営業所から出て行った。





 明日からは私が畠山さんの回っていたコースを回ることになる。畠山さんの退職が決まった数ヶ月前から上司にそう告げられていた。



 私は入社してからずっと同じ地域を担当していた。隅から隅まで知り尽くした慣れた町から何一つ知らない町へ移ることは、正直かなり気が進まなかった。



 仕事に慣れ、仕事が楽しく思えた時期を経て、入った時とはまた違う理由で、今の私は再び毎日毎日いつ辞めようかと考えていた。



 次の仕事を探す時間の余裕もなければ気力もなく、慣れた仕事を仕方ない気持ちでここまで続けてきたけど、今回ばっかりはこれがいいきっかけかもしれないと、私は本気で思い始めていた。




 新しい地域に移りしばらくの間我慢して働いた後、上手くいかないことを理由にして会社に辞表を提出しよう。



 ……そう描いた私の中のシナリオは確実に遂行される予定だった。




 隣の地域とは言え、配達となると全く要領は変わってくる。慣れない住所に、勝手の分からない建物、そして知らない顔、顔、顔……



 初日からすでに退職の決意をガチガチに固めてくれるような憂鬱ゆううつさに参っていた。



 ほとんどの荷物をなんとか配達し終えて腕時計を見ると19時ちょうどだった。初めて回る地域の割に、案外早く終わった。




 だけど、厳密には完全に終わったわけじゃない。




 朝いちからの憂鬱の極めつけ。そしてこれこそがこの仕事を辞めたいと思わせる一番の要因。夜指定の荷物だ……。




 以前から畠山さんに聞いてはいた。いつも最低20時を過ぎないと帰って来ないお客さんがいるということを。



 しかもそこのお宅は置き配が禁止な上、頻繁に荷物を頼むらしく、畠山さんはそのせいでいつも周りより帰りが遅くなっていた。




「本当に困りますよね!」



 と私が同情すると、



「まぁ、実際自分だって仕事で20時前になんか帰れんしね。おんなじだよ。彼女も一生懸命働いてるんだから。それに大事なお客さんだからね! 」



 と言って、畠山さんは愚痴ひとつこぼさなかった。そんな畠山さんには本当に頭が下がるけど、私はやっぱりそんなふうには思えない。仕方ないのは百も承知の上で、それでも迷惑以外の何ものでもないとやさぐれてしまう。




 さっきから5分しか進んでいない時計を見て、溜め息をついた。




 早く帰ったからといって家で誰かが待ってるわけじゃないし、何をするわけでもない。だけど、一秒でも早く終わらせて早く家に帰りたかった。




 ひたすら車の中で興味のないラジオを聞いて時間を潰していると、いつのまにかついつい眠ってしまった。



 はっとして目が覚め、慌ててトラックのデジタル時計を見ると20時を15分も過ぎていた。なんてもったいないことしちゃったんだろうとがっかりしながら、エンジンをかけて目的地のマンションの駐車場まで車を走らせた。


 

 唯一の救いは、そのマンションには配達用の駐車場があることだった。それによって駐禁の心配だけはしないで済む。

 運転席から降り、トラックの後方へ回り荷台の扉を開けると、広々とした空間にこじんまりと居心地悪そうに残った小さな小さな荷物を手に取った。



 小走りをしてエレベーターへと乗り込む。この荷物ひとつのためにこんなにも振り回されているという現実と虚しさに襲われ、「もう本当に辞めよう……」と一人声に出した。




 エレベーターを下り、部屋番号を見ながら歩く。





 薄暗い通路に、更に気が落ちる。





 目的の部屋を見つけ、インターホンを鳴らし、うつむきながら扉が開くのを待った。





 まだ帰ってないのかな……?そう思わせるほどあいだが空いてから、ようやく扉が開いた。






 やっぱりもうしばらく続けよう……






 扉を開けて現れたその人を見た時、私の決意は一瞬でなぎ倒されてしまった。








 私より少し上くらいだろうか……?

 目を合わすだけでドキドキしてしまうほど、綺麗で大人で洗練されたような女の人が笑顔で迎えてくれた。




 私は不自然な緊張を隠そうと、いつもより元気よく明るく話した。



「こちらにはんこお願いします!」



 その人は何も言わずにはんこを押したけど、感じが悪いようには全くとれなかった。



 私の汚れた手とは全く違う細くて白い指を見るだけで、私の鼓動は高鳴っていった。



「あの、……あなたが、ここの地域の新しい配達員さんですか?」




 受領書からはんこが離れるのを見届けていると、その人から話しかけられた。その美しい姿にぴったりな澄んだ声に魅了され、戸惑いながら返事をした。



「あっ、はい!そうなんです。これからどうぞよろしくお願いします!」


「私、しょっちゅう荷物頼むし、毎日一番遅い時間指定だからご迷惑おかけしちゃいますけど、こちらこそよろしくお願いします」




 天使のような微笑みでそう言われ、私はさっきまでの自分をやすやすと裏切った。



「全然気にしないで下さい!お客様ですから!」



 いつもの愚痴とは正反対の言葉がするりと口から勝手に出てきた。少しでも印象よく思われようとする自分に恥ずかしさを覚えながら、背筋にまで気を遣っていい子ぶった。




 少し震える手を隠しながら荷物を渡すと、まだその人を見ていたい気持ちに後ろ髪を引かれながら、私はその場を後にした。








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