第48話 仮病

 携帯の着信音で目が覚めた。


 なんだろう。上手く開かない目を無理やりこじ開けながら、スマホの画面をスライドする。


 視界がぼやけていて、着信元の名前までは見えなかった。


「アキ、今日は学校休むのか?」


 スマホから聞こえてきたのはお父さんの声だった。

 お父さんからの着信は珍しい。私が越してきてからはほとんど初めてと言っていい。


「え、なんで?」

「だってお前まだ、登校してないんだろう」


 その言葉にはっとして、素早く私は壁に掛けられた時計に目を向ける。

 時計は八時半を示している。


 ――遅刻だ。


 高校に入学してから寝坊するのは初めてで、上手く頭が回らない。

 どうしたものかと途方に暮れる。


 昨日の夜は何をしていたんだっけ。


 ああ、そうだ。朱里に勧められた本がおもしろくて、読み進めていたらそのまま寝落ちしてしまったのだ。


「ああ、うん。まだ」

「先生から連絡があったよ。今なにしてるんだ?」

「あ、えっと」


 私は言いよどんだ。

 別に行かない理由もないんだけど、遅れて教室に入ることを考えると少し恥ずかしい。


 私が中学生の時は、月に一回くらいは仮病で学校を休んでいた。

 それは、そもそも学校があまり楽しくなかったというのもあるけれど、私はみんなが学校に行っている間に一人で違うことをするのが好きだったのだ。


 平日に自転車に乗って、私服であてもなく知らない町まで走るのも好きだったし、ベッドの上で「もしも今学校に行ってたら何をしてたか」を想像しながら本を読むのも好きだった。


 あの時の私には定期的に、「中学生の私としての正しい時間の流れ」から離れて、一人の自分に立ち返る時間が必要だったのだ。


 高校に入ってからはそんなことしている暇はなくて、長いこと仮病なんて使っていなかった。


 ――たまにはいいかもしれないな。


「まだベッドから出られてなくて。ちょっと体調良くなくて」

「そうか……。まあ、無理はよくないからね。じゃあ、今日は学校を休むのかい」

「うん、そうしようかな」

「わかった。先生には伝えておくよ。熱はないのかい?」

「うん。ちょっと頭痛いだけだから」

「仕事帰りにそっちに寄ろうか?」

「ううん、大丈夫。一日休めばよくなると思うから」

「……わかった。無理だけはしないようにね。休みたくなったら、いつでも言いなさい。先生には何とでも言ってやるから」

「うん。ありがと」

「じゃあ、水分はしっかりとりなさいね」

「うん」


 そうして父からの電話は切れた。


 思いがけず一日の休みを得た。

 お父さんに嘘を吐いたことに罪悪感がないわけじゃないけれど、中学校の時もしていたことだし、今更躊躇はない。


 今はこの一日を満喫しよう。


 八時半。


 学校に行かない日としては早い時間だ。


 私はのそのそとベッドから起き上がって、カーテンを開けた。


 快晴。

 朝日がまぶしい。


 窓越しでも皮膚の上でその熱が踊っているのがわかる。


 トーストで食パンを焼いて、バターと蜂蜜を塗って食べる。

 食べ終わると洗濯物を回して、それを待つ間に昨日の続きの本を読んだ。


 ――それでも十時。


 たっぷりと時間がある。

 どこか、適当にふらふらしてもいいかもしれない。

 中学生の時みたいに。


 洗濯物を干し終わると、私服に着替えて最低限の荷物とともに外へ出た。


 外は蒸し暑い。もうすぐ梅雨も明けそうだ。

 しばらく歩いていると、体は少しずつ汗ばんでいく。

 当てもなく歩くけれど、体は無意識に目的地を求めている。


 気がつけば、駅の近くの公園に着いていた。

 この公園は高校が始まる前、引っ越してきた当初によく通っていた。

 緑豊かで、象徴的な大樹の下にベンチが置かれている。

 その木陰で本を読むのが、一時期のマイブームになっていた。


 公園へ向かう、新緑の遊歩道を進む。

 母と娘、大学生だと思われる集団、遊歩道脇のベンチに座って談笑している老夫婦。

 いろんな種類の人々がゆったりとした時間を過ごしていた。


 私はどう見えているのだろう。

 大学生に見えるほど大人びた体じゃない。あの子、学校には行かなくていいのかしら、なんて思われていなければいいのだけれど。


 ――まあ、なんでもいいか。

 制服を着ているわけじゃないし。


 私は目的の木の傍に着くと、ベンチに腰を下ろした。

 ここのベンチからは公園全体がよく見渡せる。

 そうしていると気持ちも落ち着くし、遠くを見れば読書で凝り固まった目を整えることもできる。


 ゆるやかな風、柔らかな木漏れ日、穏やかな風景と笑い声。


 鞄から読みさしの本を取り出して、開く。

 昨日から読み進めていた朱里に勧められた本。

 哲学的な名前を付けられた不思議な生き物とのひと夏の生活を描いていた。そんな穏やかな生活がずっと続けばいいなと思っていたら、あっけなくその生き物は死んでしまった。


 読み終えて、しばらく空を見上げてぼうっとしていた。

 あっけない死に涙は流れなかったけれど、こういう感覚を味わうために私は本を読んでいるのだ、と思った。


「あー、取ってー」


 顔をあげると、五歳くらいの少年が私の方に駆け寄ってきている。

 私は本に栞を挟んで傍に置き、そのボールを拾い上げて少年にボールを手渡した。


「はい」

「ありがとー」


 ボールを受け取った少年は屈託ない笑顔で私にそう言って、駆け足で帰って行った。


 その先にはお母さんがいて、私に向けて恭しく頭を下げた。

 私も軽く頭を下げかえす。


 ボールが転がって来て、それを投げ返す。

 確かこんなことが昔もあったような気がして、古い記憶の糸を手繰る。


 ああ、そう。お別れ遠足の時だ。


 かくれんぼで朱里を見つけ出した後、私たちはクラスメイトがドッジボールをしているのをベンチに座って眺めていた。


 そこにボールが転がって来て、朱里がそれを思いっきり投げ返したのだ。

 運動神経のあまりよくない彼女は、体育の時間のドッジボールでも逃げ回ってばかりだった。


 男子生徒もわざわざ朱里を狙ったりはしないから、朱里がボールに触れることはなかった。


 だから朱里がボールを投げるところも見るのは、その時が初めてだった。

 彼女の投げ方は不格好そのものだったけれど、それを私はすごく愛おしく思った。


 私は目を閉じて、朱里のことを考える。


 思えばお別れ遠足の日、朱里の様子は明らかにおかしかった。

 あの時、朱里は泣いていた。

 そのことに自分では気づいていないようだったけれど、今ならその理由ははっきりとわかる。


 彼女は私に何も言わず、ずっとその苦悩を一人で抱えていた。

 言えなかったのはわかってる。

 今更それを彼女にぐちぐち言うつもりはない。


 それでも思ってしまう。――言ってくれればよかったのに。


 なにも、一人でいなくなることはなかったよな。

 何度涙をぬぐって、その唇にそっと触れても、結局彼女の核心に触れることはできていなかった。


 さよならさえ言わずに、朱里は遠くへ行ってしまった。


 彼女が一人で全部抱え込もうとする癖はあいかわらずで、あの時とは別の苦悩を彼女は密かに抱え込んでいる。


 朱里のことは、よくわからない。

 昔はわかっていたのかということも、今となってはもうわからない。だけどあの頃は、わかるとかわからないとか、そんなことは気にならなかった。


 だけど今は、わかるとかわからないとか、そういうことがいちいち気にかかる。

 たぶん不安なのだ、私は。だから少しでも安心材料が欲しいんだろう。


 今は、何時くらいだろうか。


 十二時を回っているのだとしたら、そろそろお昼ご飯の時間だ。

 私が学校を休むのは初めてだから、彼女が私の欠席を知ったら驚くかもしれない。


 驚いて、彼女も少しだけ不安になっていたらいいと思う。


 お昼ご飯を食べに来ても私はいないけれど、穂乃香と三人で食べるのかな。


 空を見上げる。

 私の頭上では梢がそよそよと揺れている。

 本当にあの日みたいだ。

 穏やかで、心地いい。

 違うのは隣に朱里がいないことだけだ。


 ――不意に、ポケットから着信音が鳴った。


 私はそれを取り出して、画面に表示された名前を確認してから電話に出る。


「もしもし」

「もしもし、アキ? 今大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ」

「今日、学校休んでるじゃん。どうしたの、風邪?」


 電話越しでもわかるくらいに彼女は、心配そうな声をしていた。

 その調子に私は少し笑ってしまった。


「んー。なんでだと思う?」

「え、わかんない。風邪じゃないの?」

「うん。違うよ」

「じゃあ、何。忌引き、とか?」

「そんなんじゃないよ」と私は笑う。「単なる仮病」

「……なにやってんの。だったら、お昼からでもいいから学校来てよ」

「えー、やだよ。せっかくの休みなのに。それに、今、家にないし」

「え、どこいるの、今」

「駅の近くに、まあまあおっきな公園あるでしょ、そこ。本読んでたんだ」


 私がそう言うと、朱里はわかりやすく大きなため息を吐いた。


「……まあ、いいや。じゃあ風邪じゃないんだね?」

「うん、違うよ。心配した?」

「別に。じゃあ、切るね。ご飯食べるから」

「ああ、待って」


 私は、会話の流れのまま電話を切ろうとした朱里を引き留める。

 私は小さく息を吐いて、彼女に問いかける。

 今しかない。なんとなくそう思った。


「朱里に、聞きたいことがあるんだけどさ」


 私の声に真面目さの成分が混じったのが感じたのか、朱里は一瞬間をおいてから私に問い返した。


「……それって、たぶん、結構大事なことだよね」


 こういう時、彼女は妙に察しがいい。それは昔から変わらずだ。


「まあ、そうだね」

「わかった。ちょっと待ってて」


 続けて電話口から、「ごめん、ちょっと席外す」という声が少し遠くに聞こえた。

 がたがたと物音がしてからしばらくして、朱里はまた話し始めた。


「ごめん、いいよ」

「どこに移動したの?」

「屋上に繋がる階段。屋上開いてないから人来ないし。それで、聞きたいことって、なに?」

「そんなに改まった話でもないんだけどさ。朱里は小学生の頃の事、どれくらい覚えてる?」


 その質問はたぶん、今までの会話の中で最も核心に近づいている。


「どれくらいって……まあ、それなりに。たぶん、アキが覚えてるくらいには覚えてるよ」

「じゃあ、お別れ遠足の日の事、覚えてる?」


 私が問うても、朱里はすぐには答えなかった。

 その沈黙で私に、本当にその話するの? と言外に語りかけてきているようだった。

 黙って言葉を待っていると、朱里は「うん、覚えてるよ」と呟いた。


「あの時さ、なんで泣いてたの?」

「……泣いてたっけ、私」

「とぼけないでよ。泣いてたじゃん」

「てか、なんで今その話?」

「もう三年前の話だよ。話してくれてもいいじゃん」


 私がそう言うと、朱里はまた黙った。

 黙った、というよりは、正しい言い方や言葉を慎重に探しているように聞こえた。

 やっぱり触れないべきだっただろうか。

 でも、いつか触れないと私たちは前には進めない。


「まえに、一通り話したよ。それ以上のことはないって」

「……そうやって、またはぐらかすんだ」

「別に、はぐらかしてないけど――。ていうか私、そんな話するために電話したんじゃないんだけど」

「けど朱里、なんか隠してるじゃん。……わかるんだよ、幼馴染なんだからさ」


 また、朱里はだんまりを貫く。


「ねえ、黙るのずるいと思うんだけど」


 話しながら言葉が強くなっていくのを、どこか他人事のように感じる。

 でも、私はそれを止められなかった。今引き下がったら、一生口に出せないような気がした。


「話してくれないとわからないよ。私は、朱里のこともっと教えて欲しいだけなんだけど。黙ったままじゃ、なにもわかんないよ。わかってる? 朱里は――」


 出かけた言葉を、私はすんでのところでおさえる。

 これ以上はいけない。戻れなくなる。

 大きく息を吸って、火照っていた頭を落ち着かせる。


 泣きそうになっていた、あの頃の朱里の顔が脳裏を掠める。

 適度な距離感に安住しようとする気持ちと、いろんな蟠りを解いて彼女のことを知りたいと思う気持ち。


 二つの相反した感情が私の中にあって、それをまだ上手に扱うことができない。


「……ごめん。わかってる」


 それだけ言うと朱里はまただんまりを決め込んだ。

 その声は聞いてるだけでどこか痛ましくて、彼女に対する申し訳ないという気持ちだけが私の心の中を支配した。


「ごめん、こっちこそ。言い過ぎた」

「いや、別に。アキは悪くないから」


 じゃあ、誰が悪いのだろうか。

 朱里だって、別に悪いわけじゃない。

 私は最後に、ずっと心の底で抱えていた疑問を口にする。


「……最後にこれだけ教えて。私に、隠してること、ある?」


 電話の向こうから、少しのノイズとともに、はあ、という声が聞こえた。


「あるよ」


 だけど次の短い三文字だけは、まっすぐに私の耳に飛び込んでくる。

 その言葉はどこまでも紛れもなく純粋に肯定だけを示していた。

 理解とも、得心ともつかない微妙な感情が心を占領している。


「わかった。ありがと」

「……うん」

「じゃあ、また明日ね」

「うん、じゃあね」


 ぷつりと電話が切れた。

 それは、朱里の家で遊んだ後に、私を見送った彼女が玄関の鍵を閉める音を想起させた。


 言い過ぎたな、間違いなく。でも不思議と後悔はない。いつか言わなければならなかったことだ。それが少し早まっただけと考えたら……、まあ、よくないか。


 明日会った時、絶対気まずいし。


 私は立ち上がって、大きく伸びをした。

 こうなることは、私が彼女を引き留めて時点で薄々わかっていた。


 ――これからどうなるんだろう。


 青空に浮かぶしらす雲は、ゆっくりと風にたなびきながら遠くの空に流れていく。

 それは心なしか、この公園に来た時よりも濃くなってきているような気がした。

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