第6話

「今日からおめえの名は銀次だ。いいな? 銀次」


 そう言って、人の良さそうな初老の男に頭を撫でられ、名を付けられた。


銀次はまだ幼い頃に親を亡くし、親戚をたらいまわしにされながら生きてきた。いくら親戚筋とはいえ、どこも貧しく自分の子を養うのがやっとの中で、肩身の狭い思いをしながら過ごしてきた。

 その頃には親の顔も、生まれ故郷も、自分の本当の名すら覚えてはいなかった。ただ、名無しでは用事が足りないので「クロ」と呼ばれてはいた。

 満足な手入れをされてこず、風呂や水浴びすらもしていない彼の肌は、黒く沈殿したように黒ずみ醜いなりをしていた。

 子供ながらに日銭を稼ぐため、どんな仕事でも出来ることはした。

 スリのような事にも手を染め、生きる為だけに必死だった。

 

 ある日のこと。いつものように人様の懐から財布をちょいと拝借しようとした相手が、彼に銀次と名をつけてくれた男だった。

 すれ違いざまに抜き取る技は、普通なら気が付かないほどの手際の良さだ。

だが、相手が一枚上手だった。

 男の目配せで周りにいた者が銀次を捕まえると、そのまま袋叩きにしてのしてしまった。まだ子供の銀次では抵抗しても敵うはずもなく、気が付いた時には飯屋の土間に転がされていた。


「おめえ、どこのガキだ」

「だれだ、おめえ。どこのもんかなんて、俺が聞きてえよ」


「おまえ、親父に向かってなんて口聞いてんだ!」


 親父と呼ばれる与市の後ろで仁王立ちをしていた若い男が、掴みかかろうとするのを、彼が片手で制した。


「負けん気の強え、良い目をしてる。おめえ、名はなんていう?」

「……皆はクロって呼ぶ。本当の名前なんて覚えてねえ」

「親は? 親はいねえのか?」

「子供の頃に死んだらしい。顔も覚えてねえよ」

「じゃあ、今まで一人で生きて来たんか? そいつはえらく大変だったろう?」

「……」

「歳はいくつだ?」

「歳なんか数えたことねえ。正月がいつ来たかもわかんねえし」


 遠い昔、正月で一つ歳を取ると数えていた時代があった。

 貧しい庶民の家に暦などという物はなく、夏生まれ、冬生まれくらいの感覚でしかなかった。

 生きるだけで精一杯の子供に、歳を数えるなど無理なことだろう。


「そうだな。俺が見たとこ、十二、三歳か? 飯を食ってねえから体つきは小せえが、目つきが違げえな」


 男は銀次の頭をくしゃりとなでると、流しの奥へ向かい何やらゴトゴトと動き始めた。飯屋の厨房にあたるこの場所で、銀次は土間に座らされていた。地面に直に座る尻が少しだけ冷える。

 ひもじい思いを続けてきた銀次にとって、たとえ貧しい家の火炊き場であろうと、飯の支度をまともに見たことすらなかった。だから、男が何をしているのかが理解出来ずに、ただ黙って見つめるだけだった。

 床に座る銀次の低い視線では、男が何をしているのかが見えない。

水を使う音。何かを叩くような音。ゴロゴロと物を放り込むような音など、心地の良い音が聞こえてくる。

それが野菜を洗う音、まな板の上で包丁を使う音。鍋に野菜を放り込む時の音だと後になって知ることになる。

腹を満たすための音は、人間にとって心地よい音なのだと知ったのだった。

 

 次第に男の動きが少なくなると、代わりに鼻をくすぐるような良い匂いがしてきた。醤油の匂いと、味噌の匂い。最後に嗅いだのはいつだろうかと、銀次は思い出すが、はっきりと思い出せない。それくらい、まともな物を食いつけていなかった。

 どうせ自分の分け前などあるはずが無いと知っているから、強請ることはしない。目の前で美味そうな物を見せつけられることなど、親戚の家にいた時は当たり前のことだった。だから、もはや何とも思わない。

 この匂いを忘れずにいて、後で思い出しながら水で腹を膨らまそう。そう考えていた時。


「さあ、出来た。おめえら、並べてくれ」

 男の声に周りの男達が「へい」と、機敏に動き始める。

 皿を盆にのせると、何回か往復しながら奥へと消えていく。

「親父、用意出来ました」

 その言葉と共に男が銀次のそばにくると「さあ、来い」と、腕を掴んで引きあげるように立たせてくれた。

「おめえ、細っこい腕して。これじゃ満足に喧嘩も出来ねえな」と、笑った。

 連れて来られた所は、飯屋の店内。

 飯机に木椅子が並べられ、人数分の膳の用意が出来ていた。

「おめえは俺と一緒だ」そう言って男は銀次を椅子に座らせると、その向かいに自らも座った。

「急ごしらえでなんもねえが、食ってくれ。ご苦労さん」

 男の声に男達は「親父、いただきます」と口々に答え、箸を持ち始めた。

「さあ、俺たちも食おうか」向かいの男も箸を持ち、口に運び出す。

「まあまあだな」そう言って旨そうに食う姿を、銀次はじっと見つめた。

 その様子を見て、「なんだ? 腹減ってねえのか?」と男が声をかける。

 銀次は目の前に置かれた料理が自分の分だとは、未だに思っていない。

 どうせ手を出した途端に取り上げられるか、殴られるかに違いない。

 大人はいつも子供を油断させていたぶるのだ。銀次にとって大人とは騙す者であり、信じることの出来ない存在だった。


「どうした? 毒なんか入れてねえぞ。おめえを殺すのに、毒を使う方がもったいねえからな」

 男の辛辣な言葉も、銀次にしてみれば聞きなれた言葉だ。

「食って、いいのか?」

 目の前の飯を睨むようにしながら、やっと絞り出すように聞き返す。

「あたりめえだろ。食わすために作ったんだ。もったいねえから、冷める前に食えや」

 男の言葉に銀次は恐る恐る箸を取る。箸など握ったことも、もう忘れるほどに遠い記憶だった。それでも体は覚えているものだ。箸を持つ右手は自然に、当たり前のように持っていた。


 茶碗に盛られた飯をひと口箸ですくうと、ゆっくりと口に入れる。

 玄米の混じった飯だったが、銀次にとっては真っ白に光輝いて見えた。

 いつも盗んだ芋や、畑から引き抜いた野菜を生のままかぶりつくことが多かった。塩気の無いそれらは口に物足りない。それでも、死ぬよりはずっといい。

 時には饅頭や腐りかけた握り飯を口にすることはあっても、決して美味いわけでは無かった。味を確認しながら食べる余裕など、あり得ない事だったから。


 今、銀次の前には飯に汁。そして里芋の煮っころがしに、魚の煮つけが並んでいた。小さいとはいえ、尾頭付きの魚を食べたことなど無い銀次には、食べ方すらもわからない。それでも目の前の男の様子を見ながら、見よう見まねで食べ始めた。ひと口食べれば二口目を、二口食べれば三口目を。

 そうして気付けば、銀次の頬に涙がつたっていた。


 温かい物を食べた時の喉を通る感触。

味のある物を食べた時の舌の喜び。

 追っ手を恐れずとも、ゆっくり咀嚼できる贅沢。

 そして、箸を使って食べることの……、人間としての尊厳。


 子供の銀次でも、深い意味など分からずとも、人として許されたことがただ有難く、尊く感じられたのだった。



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